カーテンとベッドカバーを、夏向きのコットン素材に取り替えた。
あまり過ごしていないワンルームの部屋も、季節ごとの掃除や模様替えは必要になってくる。
大きなものや厚手のものは洗うのも乾かすのも大変なので、そういう時はいつも近所のコインランドリーを使っていた。
「それくらいの量なら、持って帰って洗えば良いんじゃないかい?」
友雅がそう言った理由は、彼の部屋にある洗濯機は乾燥機能が付いているからだ。
現に普段はあかねもそれを利用しているし、車に積んでもかさばる量ではない。
「じゃあ、そうしようかなあ」
どうせまたすぐにここを出て、向こうの部屋へ帰るのだ。
ここは自分名義の部屋。だけど今の自分がいるべき場所ではない。
少し前は戸惑っていたけれど、きっぱりと今はそう言い切れる。
簡単に掃除を済ませたら、次は買い物に行かなくては。現在のこの部屋は、当然だが生活感がなさすぎなので。
日帰りだと母は言っていたが、ここに立ち寄りたいと言い出すかも。
一人娘がどんな日常生活を送っているのか、親なら確認したくもなるだろう。
となると、やりすぎない程度の日常感を再現する必要がある。
からっぽの冷蔵庫に食料を補充しておかないと。
「友雅さん、あの…今夜って帰り遅くなります?」
「今夜は『JADE』の方だから、早くても店を出るのは10時前後かな」
店はまだ営業している時間だが、特別なことがない限りオーナーが常駐する必要はない。トラブルが起きた場合は鷹通から連絡が来て、その場で指示を出すか専門業者をこちらで手配する。
まあ、そこまで大事が発生する確率は少ない。
ここ最近は警察や警備会社と密接に連携を取っているため、町自体の治安がかなり向上しているおかげだ。
「10時過ぎと考えて、11時近くになってしまうけれど……良いかい?」
あかねが何故帰宅時間を尋ねたのか、友雅にはすぐ分かった。
そして、お互いが同じ気持ちであることも確認出来た。
一人の部屋で夜を過ごしたくない。ぬくもりのないベッドで眠るのは心細い。
彼女も自分も、そう思っていた。だから今夜の帰宅先は、彼女がいるこの場所へ。
「合鍵を貸してくれれば、先に眠っていても構わないよ」
「ううん、待ってます」
「その方が嬉しいね。寝込みを襲わずとも、おかえりのキスをもらえる」
寝顔と笑顔。どちらも甲乙付け難いが、やはり自分を見つめてくれる瞳が輝く笑顔の方が良い。
『giada』と違って完全予約制の『JADE』は、混雑というものと無縁にある。
客の滞在時間も指名するスタッフも事前に承っているので、急な客の増員やスタッフのブッキングは一切ない。それが、少人数で順調に経営を続けていられる理由のひとつだ。
今夜も店内は常に満員。数年来の常連客も途切れることなく来店している。
「これ見たわよ、あっちのお店も評判良いみたいね」
その常連客の一人が、持参した雑誌のページを開いてカウンターに乗せた。
先日永泉が取材を受けたばかりだが、これはまた別の雑誌。
数ヶ月前にフリーのタウン誌から、レストラン特集の記事に掲載したいと取材を申し込まれたのだった。
「行こう行こうと思っているんだけれど、混んでるみたいでなかなかねえ」
「予約も出来るよ。こっちほど制約は厳しくないから鷹通に尋ねてごらん」
「そうねー。連休が終わった頃に会社の子たちを誘ってみようかしら」
こちらの常連客には開店の際にDMを送った。
しかし、有り難いことに一般客が多いため、彼女のような声も時々耳にする。
『JADE』あってこその『giada』。ここの利益がなければ、あの店は存在しない。
これまで足繁く通ってくれている常連客には、何かしらのメリットを考慮すべき。鷹通とも度々話していたこと、早々に形にせねばなるまい。
だが、まずは目の前の問題が無事に終わってから----と考えながら接客していた時。
厨房の方から天真がやって来て、ガラスのプレートをカウンターの上に置いた。
「スペシャルサービスをお持ち致しました」
数種類のチーズに生ハム。一見珍しくもないオードブルだが、友雅がひと目で違いに気付いた天真は改めて説明を始めた。
「これ、『giada』でしか出してないヤツでして」
ここではアルコールに合う素材を提供しているため、チーズやハムでも『giada』とは全く違うものを選んでいる。
「常連のお客様には特別に、ってマネージャーからのサービスです」
「あら嬉しい。お店の味を少しだけいただけるのね」
「では、カクテルもそれに合うものをサービスしよう」
そう言って友雅は、一旦パントリーへと退いた。
少しだけ客の相手をしてから、天真もその場を後にする。
厨房の前を通り過ぎようとすると、ボトルを抱えた友雅に出くわした。
「気が利いたサービスだったけれど、誰のアドバイスだい?」
天真が率先して出来る内容でもないし、そもそも向こうより規模の小さい『JADE』のパントリーで食材を保管することもない。
おおよその検討は付いているが、一応尋ねてみる。
「藤原さんが持って来たみたいっすよ」
明日は常連客の予約が多いから、余分のある食材があれば分別しておくようスタッフに通達があったと。
会話の中で互いの意見が一致すれば、頃合いを見て動いてくれる鷹通の機転の早さは有り難い。
「天真のタイミングも良かったよ」
「後ろを通り過ぎた時に、ちょっと会話が聞こえたもんでー」
立ち聞きと言ったら例えは悪いが、客の反応に敏感にならなければ顧客を満足させられない。スタッフの入社時に掛けたその言葉は、彼らの中に浸透している。
「帰る前に、事務所に寄ってメールチェックして下さいって言ってましたよ」
ちなみに鷹通ではなく、彼の母から。
「OK。引き続き頑張っておくれ」
天真の肩をポンと叩き、友雅は店へと戻った。
カウンター脇のデジタル時計が、9時半の数字を照らしている。
客に挨拶を済ませ、他のスタッフに作業のバトンタッチをしてから事務所のドアを開けた。
メールボックスの受信欄に、"fujiwara_it"の差出人名。itはITALYの略で、向こうに滞在していた頃から使い続けている。
内容をさっと画面で確認してからプリントアウト。2枚分の内容が印刷された。
それらを手に、スマホを取る。
『おつかれさま。そろそろ上がり?』
「私の仕事はね」
1枚1枚にびっしりと文字が連なる。
片方にはあかね用のコースメニュー。もう片方には彼女の母向けのメニュー。それぞれ4パターンずつ。
「よくこんなに考えてくれたねえ」
『VIPのおもてなしよ?気合い入るわよ』
前菜からデザートまで、同じものをチョイスしたメニューはひとつもない。
食材と仕入れ先も選定されてあり、これなら材料を手配するのも簡単だ。
『当日は貸し切りにするの?』
「いや、到着予定が営業中の時間だから、そうもいかない」
そこまですると特別感がありすぎて、向こうに余計な緊張を与えてしまう。
あくまでも普通を装って、でも特別なもてなしを。
「そうは言っても、さすがにこちらは緊張するね」
『あらま。あなたがそんな言葉を口にするなんて初めてよ』
彼女が言うとおり、プレッシャーには結構強い方だと自負していた。良くも悪くも"なるようになれ"的な考えなので、深刻になることは殆どなかった。
それでそこそこ上手くやってきた実績があったから、気楽に構えられていたところもある。
だが今回は、自分だけの問題ではない。さすがに他人の目も顔色も気になる。
『いざという時は私もサポートするし、いつものように堂々としてなさいよ。その方があなたらしいわ』
いつものように堂々と、か。
自分はそんな風に見えているのか、と改めて気付かされる。
まあ確かに、なるようにしかならない。相手は自分ではないのだし、こちらの願う通りに受け止めてくれる確証はない。
もしもつまづいてしまったら…。
『諦めるわけにはいかないでしょ』
「当然」
彼女と約束した永遠の時間を、諦めるつもりなど一切ない。
つまづいたなら、足場をならせば良いだけのこと。或いは迂回路、方針を変える…方法はいくらでもある。
「よろしく頼むよ」
友雅の声に、彼女は"まかせて"と力強く答えた。