"Chiuso。PM5:00までお待ち下さい。"
白いチョークでそう書かれたブラックボードが、入口のドアに掲げられている。
しかしその頃店内では、賑やかな空気が流れていた。
「お口に合いましたか?」
「もう…すっごく美味しいです!前菜もメインもホント美味しくって!」
友雅が用意したメニューの数々に、友人たちは舌鼓を連打しっぱなし。
前菜やメインはランチコースのものを多めに用意してもらい、それに合わせてドリンクとスプマンテも選んでおいた。
料理の温めや盛りつけについては、天真が自主的に手伝いを申し出てくれたおかげで、スムーズにもてなしをすることが出来ている。
「森村くん、意外にギャルソンのカッコ似合うねー」
「それさ、俺が『JADE』で働いてた時も言ってただろ」
あちらでは所謂ナイトワークだったので、スーツにネクタイという格好だった。
そんなスタイルも今は慣れたけれど、個人的にはこちらのギャルソン服の方が動きやすくて性に合っている。
「それにしても、ホントに凝ってますねー。内装も家具も本格的で、噂に聞いてましたけど凄く素敵!」
深みのあるイタリア製の煉瓦をあしらった壁、ウォルナットの調度品や剥き出しの梁。ベネチアンガラスのランプシェード…ありとあらゆるところにイタリアの面影が存在している。
「どうせなら、全ての面にこだわってみようと思ってね」
テーブルにセッティングされていたメニュー表には、まだ日本では馴染みの薄いイタリア野菜について、簡単な説明が表記されている。
こんな食材にこんな料理があったのか…と、新しい発見を楽しみながら食事することが出来た。
「お待ちかねのドルチェは、三種盛り合わせでございます」
デザートプレートが運ばれてくると、思わず皆がわあ!と歓声を上げた。
ピスタチオとカシスのセミフレッドに、タルトゥフォ。そして、彩り鮮やかなフルーツを使ったマチェドニア。
こってり濃厚なチョコ味、ひんやりしたアイスデザート、甘酸っぱいフルーツ…何て贅沢な取り合わせ。
だが、本当に贅沢だと思うのは…
「橘さんにエスコートして頂いてお食事出来るなんて、夢みたいですよねえ!」
当時から『JADE』は既に超有名店で、当然普通の女子大生が近づける場所ではなかった。
きらびやかで華やかな他店とは何もかも別格で、高級クラブのような雰囲気を醸し出していて…大人の女性じゃなければ入れないお店。
一度で良いから覗いてみたい、と誰もが口にしていた。
「でも、何でそこに森村くんが採用されたんだろうね?」
「何では余計だろーがー!」
天真が『JADE』の求人に申し込んだのは、単に生活費を稼ぐためだった。
学費以外は自分で賄うのが両親との約束だったので、出来るだけ割の良いバイトを点々としながら『JADE』に辿り着いた。
「天真はね、砕ける時も程度をちゃんと弁えている。ガサツじゃないんだ。そこが良いと思ったから採用したのだよ」
友雅の言葉を聞いて、天真はきょとんとした。
自分の採用理由を聞いたのは、これが初めてだった。そんな風に彼は、自分を見ていたのか…言われているような自覚は、全くないが。
「頼久や鷹通みたいに真面目なタイプの中で、また違った感じが面白いだろうとね。採用して良かったよ」
「ホント!森村くんが『JADE』に入ったおかげで、私たちもお店に潜入出来たんだもんね!」
彼女たちは天真のコネで、特別料金で入店を許可された(とは言っても一度だけ、だが)。そして、やはり自分たちはまだまだ早い世界だと実感し、再度訪れることはなかった。
しかしただ一人、こっそりと通い続けていた者がいる。
「天真を採用して正解だったと思ったのは、あるお客様と出会えたことだね」
周囲の客層と明らかに違っていた彼女。いつも指名する天真と同い年くらいの、至って普通の女の子がまさか---------
「まるでキューピッドだね、天真は」
あまりに不釣り合いな例えに、言われた本人はぞわっと、周りは笑い声を上げた。
だが…。
「姫君のお好みは完璧に把握していたつもりなのだが、残念ながら今日は外してしまったかな」
「え?」
楽しそうな雰囲気の中で、あかね一人だけ言葉少なだったことに彼は気づいた。
「あかね、もしかして具合悪い?」
「ううん?全然そんなことないよ。お料理とっても美味しいし…」
久しぶりに気の知れた友人たちと会っている中、彼女だけ会話に馴染んでいない。
食はそこそこ進んでいるが、心ここにあらずという様子。
厨房の奥から、すらりとした女性がやって来た。
「いらっしゃいませ。あかねさんがお友達とご一緒とのことで、お越し頂くのを楽しみにしておりましたのよ」
友雅から彼女の紹介をされると、皆驚いた様子だった。
友人たちは鷹通のことも当然知っているが、彼にこんな若い母がいるとは思っていなかったようだ。
あかねも初めて彼女に会った時は驚いた。30近い息子が二人もいるなんて、今でも信じられないくらい。
「まだお時間は平気よね。ドルチェのおかわりはいかが?」
「わあ、いただきます!」
みんな若いお嬢さんたちだから、メインや前菜よりドルチェを多めに用意しておきましょう、という彼女の提案は正しかった。
「私、ちょっと化粧室行ってくるね」
ドルチェの支度に友雅たちが下がったあと、続けてあかねは席を立った。
煉瓦造りの柱の裏を回って、"latrina"のプレートが掛かった部屋に入る。
キャビネットに掛かる大きなミラーの前で、移り込む自分の顔を見ながらあかねはため息をついた。
何となく、バッグからスマホを取り出す。
通話履歴に残る母の文字を見ては、今朝の会話を思い出し再びため息がこぼれた。
「はぁ…どうしよう」
結局母の圧に負けて、昼食を取る約束をさせられた。
食事をすることは別に良いけれど、この町で…彼が住むこの町で母と一緒に行動することに対し、気が重かった。
彼に会わせろとか詮索されてはいないが、どこかで気づかれるのでは。
気づかれなくても、何かのきっかけで二人の関係を知られてしまうのでは。
いつか紹介するための準備段階なのに、予定が狂ってしまったら…不安と戸惑いが募るばかり。
化粧室のドアを開け、ホールに戻ろうとした。
が、突然目の前に立ちはだかった広い胸。捕らえられた手首と一緒に、再び化粧室の中に押し込まれた。
「友雅さん!?」
「何でもない、とか私の前では通用しないよ。どうしたんだい?」
カウンターに身体を押し付けられて、逃げようにも逃げられない。
友人たちが席で待っているのに、このままじゃ…。
「実は母が…」
彼の前で、隠しごとなど出来るわけがない。
どんなに頑張ってごまかそうとしても、彼の目は見抜いてしまう。
「あかねの母上殿か」
「はい。ただ、久しぶりにご飯一緒に食べるだけなんですけど…」
あかねは胸の奥に潜めていた重いものを、ようやく友雅に打ち明けた。
母と一緒に食事をするだけ。本当にそれだけのことなのだ。
それを何故彼女がこんなに憂いでいたのか-----理由は難なく察することが出来た。
認められていないからだ、自分と彼女の関係が。
その一言につきる。
着実に前へ進んでいる中で、この問題は常につきまとって行くだろう。そしてそれが、更に進行を遅らせる可能性もある。
だとしたら、早めに対処をしておくこと。
「だったら、ここで食事をすれば良いんじゃないかな」
あかねは顔を上げ、友雅を見た。目を丸くして、上手く言葉が喉から出てこない。
「今日以上のおもてなしを約束するよ。支払いは、私がサービスしよう」
「待って下さい、そんなこといくらなんでも…っ」
長く伸ばした人差し指を、あかねの唇に当てて続きを遮る。
「いいから、私に任せて。これは君だけの問題じゃない。私と君の問題だ」
遠回りでも近道でも、どちらにせよ必ず通らなければいけない場所。
それが今、二人の目の前にある。
「私の運と勘を認めてくれたのは、君だろう?だから、大丈夫」
今は、彼女のその言葉を信じたい。
これが正解。きっと道は拓ける。もっと前につながって行く。
あかねの肩を抱きながら、友雅は暗示を掛けるように何度も自分に言い聞かせた。
--------THE END
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