あかねの部屋にやってきたのは、これが二度目である。
一度目は、あかねが風邪をこじらせていた時だ。
ひとりで寝込んでいる彼女を、そのまま放っておくわけにも行かずに、常連客の女医のところへ診察に連れて行った。
「昨日は友達が集まってたんで、ちょっと部屋が散らかってるんです」
「そうでもないよ。相変わらずここは、あかねの空気が流れていて心地良い」
以前と全く変わらないインテリア。
クリーム色の壁に、淡いオレンジのカーテン。
彼女しか横たわれない、明るい白木のシングルベッド。
来客用のカップに、熱いコーヒーを入れて彼女が差し出す。
「やっぱり、あかねが入れてくれた方が美味しいかな」
「え?これインスタントですよ?いつも向こうで使ってるのは、ドリップコーヒーじゃないですか」
品質で言えば、きっとインスタントよりもドリップの方が味わいがある。
だけどやはり誰が手を加えてくれれば、味を変えることだってあると思う。
「ええと……」
自分の分と、彼の分とのコーヒーを入れて、あかねはその場に腰を下ろした。
こんな時間に、彼は何故やって来たんだろう。
顔を見るためにとか言っていたけど、本当にそれだけの理由なんだろうか。
いろいろと頭に浮かんでしまって、どうも上手く言葉が吐き出せない。
「あ、あの、今日って…打ち合わせとか会議とかだったんですか?」
「うん?ああそうだよ、午前中にちょっとね。よく分かったね」
「だって、ジャケットがよそ行きの時に着るやつだし…」
いくつかのスーツの中で、普段用のものと会合などに出向く時用のものがある。
スラックスはカジュアルなものだが、ジャケットはよそ行きのものだ。
「親しい相手だったんだけど、別件で紹介してもらった方も一緒だったんだ」
「そうなんですかー…」
また、言葉がぷつりと途切れた。
どうしようか、何だかちょっと空気が戸惑ってる。
普段はこんなことないのに、どうしてなのか分からないけど。
「ところで、食材は片付きつつあるのかい?」
友雅から切り出されて、あかねははっとして顔を上げた。
「なかなか片付かないなら、少し協力してあげようかと思ったのだけどね」
一人で消費するよりも、二人の方が早く量が減る。
彼の手がそっと、あかねの手に伸びて。
「早く片付けてもらわないと、一人暮らしが寂しくてねえ」
強いけれど、柔らかく包むように手のひらが重なる。
指先が絡み合い、静かに桜色の爪を唇へと誘う。
「あかねが戻って来てくれないと、風邪をこじらせそうなんだ」
「えっ…風邪?ここんとこ、そんなに寒くないじゃないですか」
それどころか、たまに夏日と呼ばれたりもする気温が目立つ。
まさか、今からエアコンなんて稼働しているのでは…。
と、いきなりあかねは手首を掴まれ、それまでとは違う強い力で引き寄せられた。
「ベッドが冷たいんだ。こうして握れる暖かい手もないし、何よりあかねの体温がないのだからね」
抱きしめられたまま、傾いて行く身体の上に重なるのは彼の体重。
そして、唇とぬくもりと、互いに逸る鼓動の音。
「私が凍死する前に、早く戻っておいで」
すうっと指先でうなじを撫で、その上を這うように唇でなぞられて、びくっと身体が震え上がった。
慣れているはずなのに、いつもいつもどきどきする。
抱き合うたびに、甘い香りに包まれるような気分になって。
「…友雅さん、今夜…泊まって」
口づけの最中に、吐息のようなあかねの声がした。
「部屋、狭いけど…それでも良かったら…」
「あかねがいれば、広さなんてどうでも良いんだがね、私は」
元から、そのつもりでやって来たのだ。
少しでも良いから、あかねとの時間を過ごしたかった、それだけだ。
「一人用のベッドだって、こうして抱き合って重なれば狭くないよ」
そうやって結び合いながら、眠る方がきっと良い。
シャワーの音を聞きながら、友雅はベッドの中でぼんやりと目を閉じていた。
身体に触れるシーツとブランケットには、あかねの香りが染み付いている。
パルファムの香りではなく、ベビーパウダーのような、シャボンのような。
…彼女の肌を思い起こさせる、柔らかな香りだ。
女性の部屋で夜を過ごすなんて、何年ぶりだろう。
そんなことを思いながら、目を開けて部屋の中に目を向ける。
私生活に立ち入るのが面倒で、殆ど女性の自宅を訪れた記憶が無かったのだ。
"散らかっているから"と言っていたけれど、久しぶりのあかねの部屋は、むしろ生活感が以前よりも薄れている気がした。
食器やキッチンの様子も、毎日使い続けているような感じはない。
そりゃそうだ。
今、彼女は…自分の部屋で生きている。
「最初から、そう考えていたんだものな、私は」
洋服が置けるスペースや、二人でゆったり眠れるサイズのベッド。
二人分のダイニングセットに、彼女専用のバスローブ、シューズケースのエリア。
名義は自分一人なのに、そこにあかねがいるのが当然だと、無意識のうちに考えていたことに気付いたのは、つい最近のこと。
こんな風に彼女がいないだけで、非日常的な違和感を覚えてしまう。
あの部屋は、一人暮らしをするための部屋じゃなかった。
彼女と共に暮らす空間が欲しくて、あの部屋を借りたのだ。
改めて感じる。
自分が、彼女とのこれからを考えていることに。
「…友雅さん?シャワー…使います?」
石鹸の香りの湯気と共に、湯上がりのあかねが顔を出した。
タオルで包んだだけの姿は、ベッドでのしどけない彼女を思い出させる。
「バスタオル、新しいのがありますから……きゃあっ!!」
まだ水滴を染み込ませている肌が、彼の腕の中で抱きしめられる。
「ど、どうしたんですかっ?」
「今すぐ、部屋に帰ろうか」
「……えっ?」
薄暗い部屋のベッドの上、あかねが尋ね返す。
「いや、残り物のことだけど、私の車に積んで行けば、向こうで使えるんじゃないかと思ってね」
一人で荷物を抱えながら戻ってくるのは、さすがに大変だろうけれども、車なら一度にすぐ運べる。
それに、車なら30分も掛からずに、向こうに着くから時間も短縮出来る。
「悪くならないように、早くした方が良い。明日早めにここを出て、向こうに戻ってから出勤しなさい」
「あ、はい…そうですね…うん」
あかねがうなづくと、友雅は優しく抱き直して横になる。
甘いくちづけを繰り返しながら、少しずつ目を閉じて眠りの世界へと歩んで行く。
…今すぐ帰ろう。
君が…、君と私が住むための部屋へ。
一人暮らしの部屋になんかいないで、一緒にいられるところへ、今すぐにでも-----連れて帰りたい。
--------THE END
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