「来てくれて、助かったよ。飲み切れないほど、コーヒーを入れてしまってね」
電話を終えてから15分ほど過ぎた頃、鷹通がマンションを尋ねて来た。
今朝は午前中に、取引先との打ち合わせがある。
何度か付き合いのある相手だが、少し込み入った話なので長時間になり兼ねない。
鷹通がコーヒーを啜っている間に、友雅は着替えを進めている。
クローゼットからネクタイやスーツを取り出しているが、適当に選んでも様になる容姿は、同性ながら羨ましいものだ、と鷹通も時々思う。
ふと、開け放たれたクローゼットの奥に、女性の洋服が見えた。
淡いピンクのワンピースや、花柄のショール、ふんわりとしたフレアのスカート。
姿はないが、彼女の存在はここにある。
クッションやカトラリーの雰囲気、観葉植物などからも、それらは感じられた。
「…あかねさんは、今日お戻りになられるのですか?」
さりげなく、鷹通はそんなことを尋ねてみた。
彼女がいるのといないのとでは、友雅の日常は格段に違いが出る。
後先を考えず、適当な思いつきでやり過ごしてしまう。
あかねと付き合う前の彼のようだ。
「今朝メールが入っていたよ。残念ながら、今日もアパートで過ごすらしい」
「え、今日もですか?では、今夜もこちらに戻られないと…」
「友人のもてなしに、いろいろと買い込んだようでね。腐らせると困るから、それらを片付けたら戻る…とね」
そういうところは、しっかり者なあかねだ。
経済観念もあり、友雅と暮らしていてもその辺りはきちんとしている。
「私のプリンセスは家庭的だからね」
洒落たデザインのループタイを、白いシャツの上から緩く結びながら、友雅は自分の恋人に賛辞を送った。
打ち合わせの前に朝食を摂るべきだと鷹通が言うので、早いうちから出掛けることにした。
約束は駅前にあるシティホテルでなので、館内のラウンジならモーニングをやっているだろう。
「本日もフルタイムで、お店に出られますか?」
あかねがいないなら、彼が早めに帰宅する理由はない。
無人の部屋に戻っても暇つぶしに困る、と昨夜も珍しくフルタイム。
「いや、今日は早めに上がるよ。遅くても10時くらいまでにね」
後部座席でそう答えた友雅を、運転席の鷹通がチラッとミラーで確認する。
「何か個人的な御用でも?」
「まあ、個人的ではあるけどね。取り敢えず、今夜は任せるよ」
どことなく、それ以上は詮索するな…という感じで、彼は顔を窓の外へと向けた。
それきり、自ら口を開くこともなく、たまに鷹通の言葉にうなづく程度。
…何を考えているのか、やはり分からない方だ。
親しい間柄でも、それなりに信頼関係を保っている相手でも、完全にすべてを見せることはない。
昔からずっとそれは変わらないが…果たして彼女に対してはどうなのだろう。
いつか、そのすべてを開け放たなければならないはずなのに、まだまだ彼にとって現在は、その時ではないようだ。
+++++
定時通りに終わったというのに、随分と帰宅時間が遅くなった。
夕べアパートに泊まった同僚たちに、昨夜のお礼だとカフェに連れて行かれて。
更にその店を出る時に、手土産までもらってしまった。
中身は半生のチーズケーキだと言っていたが…
「また冷蔵庫に品物が増えちゃった…」
いっそこのまま、封を切らないで彼のところに持参しようか、とか考える。
駅を出て、大通りをぽつぽつと歩く。
一人でこの道を歩いて帰るのは、とても久しぶりのことだ。
…でも、夕べは楽しかったな。
大学時代は友達と集まっては、朝まで賑やかに過ごしたことも多かったが、それも数年後にはぐっと減って。
アパートじゃなく、友雅さんのマンションで過ごすようになったからだよね…。
あかねの日常生活の基点が、自分の部屋じゃなくなったからだ。
そういえば昨日は、恋愛話にも花が咲いた。
年頃の女の子同士であるし、他人の現状も気になってしまう。
恋バナを聞き出すだけではなく、もちろんあかねも尋ねられる立場になった。
『恋人は…います。社会人で、ちょっと年上だけど』
どんな人か。芸能人なら誰に似てるか。身長は高いのか。どれくらい付き合っているのか。
写真を見たい、電話で話を聞いてみたい……あれやこれやと怒濤の詮索。
それらをすべて何とかスルーしたものの、やはり今日も言われてしまった。
『あとで紹介してね!』
紹介…出来る日が来るのかなあ。
学生時代の友達には知られているけど、新しい友達には…。
もしかしたら、知っている人がいるかもしれない。
『JADE』は有名店だし、何度か友雅さんもインタビューとかで記事に出てるし。
写真はないけど、こっそり手帳に忍ばせている切り抜きがある。
彼が取材を受けたときのグラビアを、そっと隠すようにして持っている。
まるで芸能人に恋しているみたいだけれど、あかねにとってはそんな存在だった。
遠い存在だと分かっていながら、天真に頼んで店に度々通うようになって。
距離を感じつつ、眺めていることに至福を感じていたのに、今は。
ひとつひとつ、距離を狭めて…そして抱き合って。
心を通わせて、恋心を交換しながら深まる関係…そして現在。
さあ、これからは…どうなるんだろう。
「あれ…?」
アパートに近付いて来た時、駐車場に見覚えのある車が停まっていた。
紺色のシトロエン。車には詳しくないけれど、その車だけはよく分かる。
ゆっくりと進んで行くと、その中に人影があるのに気付き、思い切ってそっと覗き込もうとした。
すると、とたんに窓がさあっと下りた。
「おかえり、遅かったね」
「友雅さん…っ、どうしてここにっ?」
びっくりしているあかねをよそに、エンジンが停まって彼が車から下りて来た。
「理由なんて、聞かなくても分かっているだろうに」
「えっ?そんな…分かんないですよ。お店だって、まだ営業してる時間で…」
と言いかけているとき、彼の手が頬に伸びて来た。
そしてすぐに、近付いて来る顔と吐息。
「店を早く切り上げてまで、私が優先したいことなんて…あかね以外にあるわけがないだろう」
街頭の小さな明かりと、人通りのないアパートの駐車場。
闇に溶ける車のボディカラーにシルエットを重ねて、二人も互いの唇を重ねた。