Presage

 02

しばらく帰ってなかったアパートは、何だか自分の部屋とは思えなかった。
どこか空気が乾いていて、とても殺風景な雰囲気に感じて。
部屋にあるものは、すべてまぎれも無くあかね自身のものだ。
クッションカバーやカーテン、食器までも自分の好みで選んだものだし、バスルームやキッチンの小物だってそう。
クローゼットを開ければ、服がぎっしり詰まっているのに、他人行儀な雰囲気が抜けきれない。

「本当に大丈夫ですか?狭くないですか?」
「平気平気。女同士だもん、全然構わないって」
来客のために用意してある布団は、一組のみ。
敷布団を敢えて横に広げ、その上に二人並んで眠る。
枕はクッションで代用。幸い毛布は3枚予備があったので、贅沢を言わねば一晩くらいはやり過ごせるだろう。

「それより、元宮さんこそ大丈夫?やっぱり、誰か一人着いて行った方が良いんじゃない?」
横になっていた女性が、上半身だけ起こしてあかねを見上げた。
「ううん、平気ですよ。今の時間は特急が止まるから人通りも多いし。大通りから行きますんで」
「そう?もし何かあったら携帯で呼んでね?」
あかねは小さなバッグを手に、カーディガンを羽織って出掛ける支度をする。
明日の朝食に使う牛乳とパンを買い足しておきたいため、これから近くのスーパーへ向かうところだ。
「じゃ、行ってきます。あ、先に寝てて構いませんからね〜」
中にいる友人達に一言残して、あかねはドアをパタンと閉めた。



残業が終わって帰宅途中のサラリーマンやOLに加え、母親らしき姿もちらほら見える店内。
既に賑やかさは消えているが、食料品などはそこそこに揃っている。
「ええと、牛乳は…」
乳製品の陳列棚の前で、いつも買っているブランドのパックを手にとった。
しかし、それをすぐにかごには入れず、しばし考え込んだ。
…一リットルサイズって、多過ぎるかな。
私を含めて、明日の朝は3人なんだし。余っちゃったら、困るよね…。
普段なら、余れば冷蔵庫に保存しておける。
だが、友人たちが帰ったら再びあのアパートを出て、あかねは友雅のマンションに戻るつもりだ。
出来るだけ食べ物や飲み物だけは、残さない量で揃えておきたい。
「やっぱり500mlにしておこうかな…。卵も、一個ずつの方が良いかも…」
それとも、食料が片付くまでアパートに留まって、片付いたら向こうに戻ることにしようか。
せいぜい長くても3日くらいで、すべて処分出来そうだが。

…3日間、一人暮らしに戻るのか。
考えてみれば、それがあたりまえの生活ではあった。
あのアパートは、自分が住むために借りたものなのだから、そこに暮らすのが普通なのであって。
それが、いつのまに変わっていたんだろう。
戻る場所が自宅ではなく、他人名義の部屋になったのは。

友雅さんがあの部屋を借りて引っ越して…。
大学からもアパートからも交通の便が良いし、辺りは割とセレブが住んでいる郊外だから、治安も悪くない。
繁華街の店に来るよりずっと安心だからと、そう言って暗証番号を教えてくれた。
…私の名前なんか、入れちゃって。
xakanex。x=kissの意味だなんて…舞い上がるようなこと、平気で言う彼。
「友雅さん、今頃どうしてるんだろ…」
時計はもうすぐ、午後10時。
店はまだ営業中だけれど、家にいるのか、それとも仕事しているのか分からない。
とにかく今夜は会えない。それだけは、現実。
なのに、ふと気付けば彼のことを思い出している。

友達と過ごす時間は楽しいけれど、日常の暮らしの中でそばにあるものが、今はないと知ったときの心細さ。
会社から帰ってきても、大概その時間は彼はまだお店にいて一人だ。
でも、これから帰って来る彼と食べる夕食を、用意しながら時間を費やして。
「なんかワタシ、主婦業してるみたい」
笑いながら、ひとりごとがこぼれた。
本当にこれでは、夫の帰りを待つ妻の光景と大差ないような。

-------それが現実になる日は…来るんだろうか。
恋人としてではなく、同じ家庭を作って行く者同士として、相手を見送り、出迎える日はあり得るのか。

友雅さんは、どう思ってるんだろう…。
これからもずっと、私は恋人のままなのかな。
この現状でさえ、数年前の自分から比べたら贅沢すぎるというのに、更にその先を考え始めている。
アパートじゃなくても、自分の日用品は彼の部屋に揃ってる。
そこに自分がいるためのスペースを、彼は作ってくれてはいるけれど…。
「無期限っていう、保証は無いんだよね…」
そりゃ例え結婚したって、永遠が確保出来るわけじゃないことも承知だが。

恋人として、今までと同じように過ごして行くことに、不満なんて全然ない。
甘い時間に浸って、一緒にいられるだけで幸せだし、十分だと思っているはずなのに、その先の未来が見えないことに戸惑いを感じ始めている。
友雅さんの気持ちが知りたいな…。
恋人以上に、私がなれる確率はどれくらいあるのか。
そして、私の希望は----------

「ああもう、分かんないや」
考えれば考えること、混乱してくるばかり。
適当にあかねは食料品をかごに放り入れ、足早にレジへと向かった。


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コーヒーメーカーから、香ばしい苦みが漂っている。
レースのカーテン越しに覗く水平線は、青々と太陽の光で輝いているようだ。
今日も良い天気らしい。
ついいつもの習慣で、少し多めに入れてしまったコーヒーを、カップに注いで窓際のソファへ。
目覚ましにシャワーを浴び、そのまま彼はごろりと身体を横たえた。

コーヒー一杯だけで済ませる朝なんて、もう随分と久しぶりだ。
自分ではこの程度で十分事足りているのだが、普段はテーブルにしっかりとした朝食が用意されている。
トースト、卵料理、サラダにフルーツにヨーグルトに…と多種多様。
焼いた魚や酢の物と言った、和風の食卓も少なくはない。
だが、今日はコーヒーだけだ。
むしろ、それくらいしか飲む気になれない。
退屈な朝だ。

どこかで、携帯の音が鳴り響いている。
友雅は、夕べリビングで脱いだままのジャケットを取り、ポケットの中で震えている携帯を手に取った。
『おはようございます、橘さん。もうお目覚めでしたか』
「ああ…鷹通か。まあね、昨夜は暇だったものだから、帰宅してすぐに眠ってしまったよ」
いつもなら、愛を語らう相手がいるけれど、それがなければつまらない夜。
今朝が退屈だと感じるのも、腕の中で寝息をたてるぬくもりがないせいだ。



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Megumi,Ka

suga