Presage

 01

天真は裏口の階段を下りて、まだ人気のない地下へと向かった。
深いフロアに足音が響く。
腕時計に目をやると、時刻は午後4時を過ぎたばかり。
通常、午後6時が出勤時間であるから、それから比べると今日は随分と早い。
しかし、店にはフロアスタッフの天真たち以外に、早い時間から出勤している者たちがいる。
厨房スタッフは仕込みのため。
ソムリエ兼任のスタッフは、予約客の好みに合わせたワインの在庫チェック。
そしてマネージャーの鷹通は、当日以外の予約客の受付や管理など、あらゆる事務作業を余念無くこなしている。

「おはよーございまーす」
ドアを開けて広いオフィスに入ると、パソコンに向かっていた鷹通が振り向いた。
「おや森村くん、随分と今日は早い出勤ですね。どうかなさいましたか?」
「あ、いや…まあちょっと」
鷹通の問い掛けに、天真は笑いながら場をごまかす。
こんなに早く出勤したのには、それなりに理由がある。
大学時代から付き合っている彼女を、バイト先まで送って行った帰りなのだ。
いくら時間が早いとはいえ、またアパートに戻るのも面倒くさい。
それならば…ということで、早々に店に向かったのである。

タイムカードを押して、奥にあるロッカールームへ。
開店まで余分な時間があれど、天真には色々覚えなくてはならないことがある。
学生の頃から『JADE』でバイトを始め、そのまま運良く正社員にしてもらい、今に至る。
レディースクラブの正社員だなんて、あまり大きな声で言うのも憚られるものだが、『JADE』くらいの知名度になれば別だ。
一般的にも名が知られているし、ワインのセレクトでも評判が良い。
女性客ONLYで、彼女たちの接待をするのが仕事ではあるが、一応ホールスタッフという肩書き。
ここに勤めていると言うと、羨望の目で見られたり、なかなか悪い気はしない。
給料も社員となってから月給制になり、今まで以上に収入も増えた。
その分、任される責任が増えてしまったが、それを差し引いても条件の良い勤務先である。
就職難で苦労を強いられる時代、居残れたのは運が良かったと言うべきだろう。

ロッカーに荷物を置き、取り敢えず制服に着替える。
高級ブランドのスーツなんて、普段の天真のファッションと比べたら正反対だ。
しかしオーナーが自由な価値観を持っているので、だらしなくなければ個性を活かしてくずしても良い。
それでも、この店の人気トップの頼久やマネージャーの鷹通は、きっちりしたネクタイを緩めたりはしない。
こういうところに、性格が出るというものだろう。

「……ん?」
そんな彼らの出勤スケジュールが、壁のホワイトボードに明記されている。
少人数のスタッフであるため、殆どはフルタイムで毎日勤務しているのだが…一人だけ不規則勤務の者がいる。
「藤原さーん、今日って橘さんフルタイムなんスか?」
シャツに袖を通しながら、ロッカールームから天真が顔を出した。
「ええ、本日は閉店まで顔を出されるようですね」
「はあ…珍しいっすね」
『JADE』のオーナーである友雅は、普通ならばフルタイム勤務などあり得ない。
恋人と過ごすプライベートを、最優先にしているからだ。
だが、そんな彼が今日はフルタイムとは、一体何があったというのだろう。

「今日と明日は、あかねさんがアパートに戻られているんだそうです」
「アパートに?そりゃまた何で」
「聞いた話ですが、会社のご友人がお泊まりに来られるとのことで…」
ああ、なるほど…そういうことか。
彼の恋人であり、天真の幼なじみでもあるあかねは、学生時代から借りているアパートを、未だに引き払っていない。
在学中も社会人になった今でも、帰る場所はほとんどが友雅のマンションで。
そこで彼と過ごし、また朝になれば出掛けて行き…夜には帰宅する、という状態が続いている。
同棲していると言ってもおかしくないのに、何故アパートを解約していないか。

「橘さんのお部屋にご友人をお連れするわけには、いかないでしょう」
「まあ、そうですけどねえ。あいつ…やっぱりまだ、橘さんのことは公にしてないんかなあ」
あかねが友雅と付き合っていることを知る者は、大学時代の友人の一部と天真を含む『JADE』の関係者のみ。
天真自身、この店の従業員である事実が、意外と世間には好意的に受け入れられている、と感じている。
それならば、あかねだってそうじゃないだろうか。
かりにも相手は一スタッフではなく、この業界トップクラスの『JADE』オーナーなのだし。
「女って、いろいろと他人の彼氏とか恋愛とか、詮索するじゃないっすか。あいつだってそういうの、あると思うんですけどねえ」
「ふふ…そうですねえ。お話好きの女性はたくさんいらっしゃいますからね」
だから、うちのような店が流行っているのかもしれません、と鷹通はやや遠巻きに微笑んだ。


作業を一段落し、鷹通が冷たいミントティーをグラスに注いだ。
すっきり爽快感のある香りと味わいが、喉ごしにひんやりと涼を伝える。
「でも、友達に何も言ってないってことは…やっぱ、まだおばさんらには内緒なんだろうなあ」
カラン…とグラスで揺れる氷の音。手のひらに伝わる、冷たさ。
ミントティーのグラスを傾けながら、ぽつりとつぶやいた天真の声に鷹通は顔を上げた。
「あかねさんのご両親から、ご連絡はありましたか」
「んー、一度だけですけどね」

正月休みに、あかねは実家に戻った。
その際、おせっかい焼きの外部から、強引に見合いの話を持ちかけられた彼女は、母とのやりとりの中でつい、恋人がいることを暴露してしまったのだ。
しかも…彼と結婚の話をしているのだ、と。
一度もそんな話、したことがないというのに、とっさに口が滑ってしまった。
その場から逃げ出して、母に相手の正体を伝えることはなかったが、天真はあかねから口裏合わせを頼まれた。

"もし母から自分の恋人のことを詮索されても、決して教えないでくれ”と。
そしてもうひとつ。
"友雅には、このことは言わないでくれ”とも。

「もちろん、お母様には話していないのでしょう?」
「当然っすよ。橘さんにだってバラしてません!藤原さんだって、オフレコにしてるんっしょ?」
「守秘義務というものを守り抜くのが、私の仕事でもありますので」
鷹通の生真面目さは、天真も周知。彼が自ら公言するだけのことはある。


「いつまでこんな調子なんすかねえ。橘さんだって、その気あるんでしょ?」
グラスを手にしようとした時、鷹通はその手をぴたりと止めた。
「…そうですね。未だにはっきりとは申されていませんが、お心は決まっていると思います」
友雅もまた、あかねに隠していることがあった。
クリスマスにプレゼントした指輪の真実。
ブランドは高級店でありながらも、安いトルマリンを使ったのだと彼女に説明し、贈ったリングの正体は金庫の中だ。
「その気がなきゃあ、あの店でピンクダイヤの指輪なんて、買いませんよねえっ」
身を乗り出して来た天真に、鷹通は微笑で応えた。

あかねが学生だった頃は、少しは遠慮が必要だったかもしれない。
しかし今は彼女も社会人だし、自分で将来を組み立てる権利を与えられている。
付き合って数年が過ぎて、そろそろ新しい方向を考えても良い時期だろう。

彼女に破格の指輪を贈った友雅。
言葉のあやとはいえ、彼と結婚を考えていると口にしてしまったあかね。
お互いの想いは、決してすれ違っているとは思えないのだが…果たして彼らがいつ、それに気付くのか。
「何かしら考えがおありかもしれませんから、もうしばらくは様子見をするしかありませんね」
鷹通がそう言うと、天真はグラスを手にしたまま、はあ…とため息をついた。



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Megumi,Ka

suga