まさか帰省のために用意したものが、そのまますぐに利用する日が来るとは思わなかった。
着替えとアメニティが詰め込まれたトラベルバッグ。
ただし、持参する洋服はスーツ。靴も黒のパンプス。
更に書類を挟んだファイルとバッグを、忘れてはいけない。
今夜は、空港近くのホテルに泊まる。帰国したばかりの彼と一緒に。
久しぶりに、朝まで二人きりでいられる。
数日間、ベッドの残り香に包まれながら、会いたい、会いたいと繰り返していた夜が、これで終わる。
…何てことない、普通の日に戻るだけなのに、やっぱり心がまだ落ち着かない。
今、彼に会ったら、飛び出して抱きついてしまいそうなくらい、心が乱れている。
「あかねさん、私はホテルまでお二人をお連れしたあと、帰らせて頂きます。明日はエアポートラインを予約してありますので、そちらでお仕事にお出かけ下さい」
「はい…ありがとうございます」
ホテルに泊まって、ブレックファーストを食べて。
空港に繋がる特急に乗って通勤なんて、どこのセレブなビジネスマンか、という感じだ。
「お仕事場所が、エアポートラインと上手く連結したところで、良かったですね」
空港から終点or出発点へ。そこから乗り換え一本で、あかねの勤める大学の図書館へ行ける。
普段通りの時間に起きて出掛けても、十分間に合うだろう。
ジャンクションで一旦止まったとき、あかねは窓の外にふと目をやった。
空港に隣接したホテルの、大きな看板が飾られている。
ふわりと広がる純白のドレスと、レースの長いベールを身につけた花嫁。ブライダルパーティーの広告。
…あんなの見てると、何だか頭の中まで真っ白になっちゃいそう。
真っ白になっちゃえば良いのに。
何も残らないで、ただ今ここにある幸せだけを感じていられれば良いのに。
でも、それに対してもどかしい想いがあるのは、どうして?
鷹通は、ミラーに映るあかねの様子を、ちらっと覗き込んだ。
ぼんやりと彼女は、さっきから外を眺めている。
今朝、天真から電話がかかって来たが、彼の話は少々興味深い内容だった。
あかねから彼に連絡があり、"もし両親から自分の恋人について詮索の電話があったら、何も知らないと言ってくれ"と頼まれたらしい。
中学から二人はクラスメートで、家も近所。つまり、幼なじみというやつだ。
故に両親同士の交流もあり、何かと天真も信頼されているらしい。
同じ大学に進んだし、二人とも親元を離れて一人暮らしを始めた。
親に分からないことを彼は知っているだろうと、そういう詮索をするかもしれないと、あかねは言ったのだと言う。
だが、何故急にそんなことを天真に言ったのか。
"実はあいつ、五月蝿い親戚を誤摩化すために、結婚を約束してる恋人がいるって、つい言っちゃったらしいんですよねえ"
彼女の恋人は、もちろん友雅で。
結婚を約束したなんて、彼からも彼女からも聞いたことはない。
もちろん当人同士で、何らかの意見は交換しているのかもしれないが、そこらは他人には入れない部分。
でも、友雅の方は…おそらくどこかできっと意識している。あかねとの永遠を。
自覚していないかもしれないが、そうでもなければあんな指輪を買うなんて、まず考えないはずだから。
あかねさんは…どうなんでしょう。
ぼうっとして、外を眺める彼女の視線は、どこにも集中していない。
むしろ目に見えない、これから会う彼の姿だけを思い描いているようにも見えた。
ローマからの直行便が到着したのは、午後2時半を過ぎた頃だった。
予定では2時15分着であったが、気流の関係で少し遅れたようだ。
到着ロビーは、出迎えの客でごった返している。
その中であかねは、鷹通の隣にくっついてソファに座ったまま、彼が出てくるのを待っていた。
ぞろぞろと出て来る客に、駆け寄って行く者は子どもだったり両親だったり。
恋人同士も…いる。
外国人カップルのように、互いを抱きしめてキスをする者もいたり。
そんな光景を通り過ぎ、あかねがすっと立ち上がった。
「あ」
続いて鷹通が立ち上がり、出迎えようと一歩踏み出そうとした時、あかねが目の前を遮って駆け出した。
人をかき分け、その手を必死にのばして。
何とか一刻も早く触れたいと、駆け寄ったその手を彼が握りしめて引き寄せた。
「帰国して真っ先に、あかねの顔が見られるなんてね。まるで天国に降り立ったみたいだ」
小さな荷物をその場に放り出して、両手であかねを抱きしめる。
唇同士の口づけのかわりに、頬と額にキスを繰り返して、伝わるぬくもりをしっかり確かめた。
「橘さん、おかえりなさいませ。ええと…続きはホテルでゆっくりと…」
「ああ、鷹通。いろいろと世話してもらって助かったよ」
いずれ有給でお礼をするよ、と友雅は答えて荷物を手に取り、あかねの肩を抱いたまま歩き出した。
出来たばかりのエアポートホテルは、高層階のフロアから滑走路全体が見える。
黄昏が近付く空の中を、いくつものジェット機が飛び立つ。
「仕事はまとめて簡単に済んだのだけど、やっぱり長時間の移動は疲れるね」
部屋に入り、ネクタイを放り出して、シャツのボタンを緩めた。
せめて機内ではタイくらい結んでおけと言われたが、ようやくこれでリラックス出来る。
「実はあかねに土産もあったのだけど、荷物をまとめるのが面倒でね。あとで配達してもらうようにしたんだ。楽しみにしていると良いよ」
品定めに時間は取れなかったが、免税店で彼女に似合いそうなバッグやアクセサリーを調達した。
それに加えて、鷹通の母があかねにプレゼントしようと、いろいろ買い集めていたものがあった。
自分のための買い物は殆どない。荷物はすべてあかねのためのものばかり。
まあ、喜ぶ顔が見たいから土産を買うのだし。自分のことは、二の次で良い。
そう、あかねの喜ぶ顔が見たい。
でも彼女は…さっきから外を眺めて、どこか上の空で。
たまらなくなった友雅の手が、彼女の顔をぐっと引き寄せた。
「やっと一緒にいられるようになったのに、よそ見なんて酷いよ」
「あ…ごめんなさい。別によそ見してたわけじゃ…」
「駄目。今は私のことだけ考えていないと、許さないよ?」
唇で呼吸が塞がれる。
長い長い口づけが続けられる中、倒れて行くベッドの上。
「お腹すいているかい?食事してから…にする?」
微笑みながら見下ろす友雅のシャツから、広い胸板が覗いている。
筋肉の締まった腕と肩。
うなじにほのかに香る…ベッドの残り香と同じコロンの匂い。
この香りが恋しくて、一日中布団から出られなかった。
だけどぬくもりは戻って来なくて。
でも今は手を伸ばせば……。
「嫌。このままが良い…」
あかねの両手が伸びて、友雅の背中をぎゅっと締め付ける。
何もかも忘れて、愛する人を愛していたい。
愛している人に、愛されているということを確かめたい。
心も身体も…ありったけの自分を。
離れたくない。それは本当。
それが永遠というものなのかは……………。
時間が消える。
抱き合っている間は、現在(いま)だけが存在する。
愛し合う現実だけが、ぬくもりと心を繋げる。
何も考えないで、しばらくはこうして…確かめていたい。
二人の想いが同じであることを。
--------THE END
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