「どうなさったのですか?確かこちらに戻るのは、3日の夕方頃と伺っておりましたが…」
ドアの向こう側からあかねの姿が現れたとたん、鷹通は即座にそう尋ねた。
"橘さんとご一緒に住まわれているお嬢さんが、夕方戻られたみたいですよ"
警備員から言われ、部屋にいる者の正体が判明した分ホッとしたのだが、同時に疑問を抱きながら鷹通はエレベーターに乗った。
友雅の帰国予定日は10日過ぎ。
しばらく彼女が一人になるだろうから、その間はまめに部屋の様子を見てくれと言われてはいた。
だが、今日はまぎれも無く一月一日の元旦。
昼間に年賀状のチェックをしたのだから、間違いないはず。
なのにあかねは、ここにいる。
「お忘れものでも、取りに戻られましたか?」
口ではそう言ったが、そうではないことは彼女の格好を見れば、一目瞭然だった。
ベーシックなゆるめのセーターに、デニンスという気軽なルームウエア。
すぐに用件を済ませて出て行く雰囲気はなく、ここでの日常的な格好だ。
「ご自宅の方で、何か…あったのですか」
何となく様子が気になって、つい鷹通は尋ねてしまった。
年末年始の帰省だというのに、元旦当日に家から戻ってくるなんて、どうも妙な気がしたので。
「あはは…ちょっと親と喧嘩しちゃって」
「喧嘩、ですか」
苦笑いをしながら、あかねは指先で自分の頬を掻く。
薄く塗ったピンクのマニキュアは、どこまでもナチュラルで彼女らしい。
「うちの母、鷹通さんのお母さんみたいに…理解のある親じゃないんで、つい売り言葉に買い言葉で険悪なムードになっちゃいまして」
だから、向こうに居辛くなって戻って来たのだ、と笑いながらあかねは答えた。
年頃の娘が母と喧嘩なんて、珍しいことでもないし、あって当然のことだろう。
子どもが大人に近付くにつれて、自我というものを持ち、嗜好を自分で選ぶようになれば、親との意見相違が生まれるもの。
そこで互いの感情のすれ違いが起こり、衝突する。
幼い頃から、あまり感情を露にしない性格だと自覚する鷹通でさえ、いくつか両親と討論した記憶はある。
特にそれが娘と母の女同士ならば、価値観が近いだけにわずかな違和感も許せなくて、喧嘩に発展してしまうのかもしれない。
だが、どんな喧嘩にしろ理由がある。
発端と呼ばれる原因が、必ず存在するはずなのだ……。
「あかねさん、もしやお母様との喧嘩の原因とは、橘さんのことでは…?」
「…え?違いますよ!友雅さんのことは、母には何も言ってませんから!」
あかねは否定したが、彼女くらいの年頃の女性が母と喧嘩なんて、恋愛関係が多い気がする。
大学を卒業し、社会人となって。
そろそろ将来を考える誰かを、という話題が出て来てもおかしくはなさそうだし。
………もしや、そういう話が出ているのだろうか?
「そ、それより鷹通さんは、どうしてここに?」
「あ…すみません。実は橘さんから連絡を頂きまして…」
ぱっと切り返された鷹通は、やって来た理由を彼女に伝えた。
「そうだったんですかあ。じゃ、どうぞ上がってください」
一応ドアのロックを掛け、部屋の中へ向かうあかねの背中を鷹通は見る。
あまり他人の家庭を詮索するのは、好ましくありませんね…。
余計なことを考えていたな、と鷹通は反省しつつリビングへと向かったが、その問題がもしもあかねと友雅の関係に関わることだとしたら、どうだろう。
「お茶入れますね。ゆっくり書類探してください」
一人で退屈していたのか、あかねは紅茶の缶を取り出して、てきぱきとお茶の用意を始めている。
長居をするのは失礼だが、せめてお茶一杯くらいは付き合わせてもらおう。
鷹通はそう決めて、友雅に指示された場所へと書類を探しに向かった。
書類を3枚FAXで送信したあとで、鷹通は勧められたソファに腰を下ろした。
熱い紅茶からは湯気が立ち上り、ほんのりと甘酸っぱい林檎の香りが漂っている。
「ありがとうございます、お茶までご用意頂いて」
「いえ!お茶とクッキーくらいしかなくって…」
シンプルなティーカップを手に取り、少し舌を潤す。
送信した書類が向こうに届けば、友雅から携帯に連絡が入る予定なので、それまではここで待機することになった。
「あかねさん、お食事はどうされているんですか?」
「出前頼んじゃいました。冷蔵庫とか、かなり片付けちゃったんで…」
それもそうだな。一週間くらいは誰もいなくなるのだし、生ものなどは置いておけないだろう。
しかし、食材が残っていないのなら、いろいろ困ることもあるはず。
毎回毎回、ケータリングを頼むとは行かないだろうし。
「宜しかったら、どこか買い物にお連れしましょうか。車でしたら、少し離れたスーパーにも行けますし」
「だ、大丈夫です!鷹通さんにそんなことお願いするなんて…」
機械的な呼び出し音と共に、テーブルの上に置かれた黒い携帯が震え出す。
点滅するランプと画面を開くと、電話の相手の名が表示された。
『鷹通、助かったよ。今、FAXを無事受け取った』
「そうですか。良かったです」
片手で握れるくらいの小さな機械が、遠い海の向こうの国と繋がりを作る。
時間はずいぶんと違うのに、電話の声は同時に聞こえてくるのだから、改めて考えてみると奇妙なものである。
『君の母上殿に毎晩捕まっては、あかねのことを尋ねられて大変だよ』
笑いを交えた友雅の声が、携帯から聞こえて来た。
息子二人の男系家族だからか、娘のような彼女をかなり気に入っている母。
鷹通との電話でも、今回あかねが渡欧出来ないことをかなり嘆いていたので、彼も付き合うのに苦労しているみたいだ。
『ま、残念に思っているのは私も同じだけどね。あかねが隣にいないと、夜なんて凍えそうだ』
海の向こうでつぶやくのは、普段と変わらない惚気話。
だが、そんな彼が恋しがっている彼女が、ここにいるとは思っていないだろう。
「あかねさん、橘さんからのお電話です。お話されてはどうです?」
急に鷹通が、携帯をあかねの目の前に差し出した。
「お一人ですから、随分とあかねさんが恋しいご様子ですよ。声を聞かせて差し上げては?」
「でも…」
元旦に自分がここにいるなんて、彼は思っていないはず。
どうして?と聞かれたら…どう答えようか。
母と喧嘩して帰って来た。
どんな理由で?何があった?聞き返されたら、答える言葉は何があるだろう?
見合いさせられそうになって、逃げて来ました。
恋人を詮索されたので、逃げて来ました。
そして…つい、母に虚言を口走ってしまったから、逃げて来ました。
-------------------------虚言。
恋人がいる。
彼と結婚する約束をしている。
そんなこと、一度だって話したこともないし、言われた事もないのに…勢い余って、逃げの口実を作って。
逃げるための口実?
何から逃げるため?母から?現実から?
だったら、こうして彼と一緒にいることは現実ではないのか?
胸が何故だか、きゅんと締め付けられて苦しい。
「あかねさん、早く電話に」
鷹通に急かされて、あかねは携帯をそっと耳に当てた。