Midsummer,Midnight

 前編---02

それにしても、猛暑はなかなか落ち着いてはくれない。
殆どが冷房の利いた室内での仕事だが、場所移動でほんの少し外に出るだけでも、じわりと汗が吹き出してくる。
「ふう…。予定は片付いたし、一旦シャワーでも使った方が良いかな。」
「それが良いかもしれませんね。この後はお客さまを応対しなくてはなりませんし、それには清潔第一ですから。」
店に出る前のスタッフには、全員シャワー使用を義務付けられている。
汗や埃などは、客に不快感しか与えないもの。
コロンも薄い香りを少しだけ。ワインなどの風味を邪魔しないように。
もちろん、煙草は一切禁止。
こう見えて『JADE』は、徹底したスタッフ教育を怠らないクラブである。
とにかく生真面目なマネージャーの鷹通と、楽観的ではあるが根本的な視点に長けているオーナーの友雅の発想は、なかなか上手くかみ合っているらしい。
この不況に煽られ倒れていく同業者が増える一方、全く『JADE』にはそんな兆しがない。
それどころか常に売り上げは今も上り坂で、予約のキャンセルなどはほぼゼロ……という結果が物語る。

そして、いくつかの別事業も順調に営業を保っている。
以前は友雅が私室として生活していた、このビルの最上階を改装して提供しているパーティールーム。
他にも、ワインを気軽に楽しめる小さなカウンターバーなど。
今のところは問題なく、客足も上々。
あとは…数年に渡って計画中の事業。
最近の打ち合わせはすべてそれらの関係だが、やっと少しずつ動き出せそうだ。
いずれは『JADE』を超えるものを目指して。
友雅も鷹通も、これに関しては真剣に先を見据えて進めている。
「…今回も、上手く行けば良いのですがね…」
先にシャワールームに友雅が消えたあと、鷹通はPCのモニタでメールをチェックしながらつぶやいた。

「ん?」
DMもマメに目を通し、用件にあわせてフォルダごとにメールを整理していると、プライベートアドレスに見覚えのある名前が記載されていた。
"Fujiwara"と書かれている。
"Fujiwara"という差出人が、藤原である鷹通に送ってくるメール。
となると、大体その送り主は見当がつくというもの。
わざわざ店のアドレスより、息子のアドレスに直接送ってくれば良いものを…と、鷹通は母からのメールをチェックした。

「何か急用の連絡でもあったかい?」
シャワーを終えた友雅が、冷えた缶ビールを手にやって来た。
これから仕事だとは思えないほど、リラックスした格好である。
「橘さん、あかねさんのお休みはいつでした?」
「どうだったかな。暦で決められてはいないみたいだが」
「土曜か月曜のどちらかを連休でお休みというのは、無理ですか?」
「どうだろうねえ。新人だから、そう休みを自由に申請はしにくいだろうけど…」
でも、お盆休みは休館になる日が多いと言っていたから、申請しなくとも日程によっては休みになるかも。
「でしたら、ちょっとお聞きしてもらえますか?」

急にどうしたのだろう?
聞いてみると、鷹通の父の友人であるイタリア人ホテルオーナーが、この秋に郊外で新しいホテルをオープンするのだという。
オープン前のプレパーティーを開くので、友雅もあかねと一緒にどうだろうか?と誘いがあったらしい。
…鷹通の母から、だが。
「オーナーさんは、イタリアでも有名なビストロを数店経営されてますし、インテリアデザイナーとしても名が知れている方だそうです。お近づきになって、損はありませんよ」
「そうだねえ…」
「私の両親も同席しますし、あかねさんもそれほど気兼ねすることはないかと。」
「あかねが参加しやすいから、誘ってきたんだろうしねえ、君の母上は。」
鷹通は苦笑いをする。おそらく、友雅の言っていることは図星だろうから。

「モニターを兼ねているので、ホテルでの一泊も組み込まれているそうですよ。ゆっくり過ごせるので、あかねさんも喜ばれるのでは?」
確かに、今年からあかねが社会人になったことで、これまでのように夏休みは旅行に…ともいかなくなった。
大学が夏休みに入っても、オープンキャンパスなどで一般開放もされている。
子ども向けのイベントも多く、朝から晩まで空調が利いて過ごしやすい館内だが忙しさは途絶えない。
「旅行は無理でも、近辺でホテルライフ…も、気分転換に良いと思います。」
「そうかもしれないね。じゃ、あかねに聞いてみるよ。」
パーティーなんて、もう随分御無沙汰してしまっている。
けれど、たまには非日常的な雰囲気に浸るのも良いだろう。
思いっきり連日の忙しさを忘れて、気分をリセットしてくつろいで。
頑張っている彼女には、そんなご褒美の数日があったって良いはずだ。


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「ただいまですー」
別に自分名義の部屋でもないのに、"ただいま"と言ってドアを開ける事が当たり前になっていた。
ドアロックの暗証番号を知っているのは、あかねとこの部屋の家主だけ。
ビジネスパートナーとして彼の左腕を担う鷹通でさえ、ここの部屋を開けることは出来ない。
…というと、ここはあかねの家と言っても、別段不思議ではないのだが。

午後9時15分。まだ、彼は帰ってきていない。
駐車場にシトロエンは停まったままだが、おそらく今日は会合がどうのと忙しそうだったから、鷹通の運転する社用車で出掛けたのだろう。
「おそくなるのかなー。ご飯、食べてくるのかな。」
取り敢えず、軽いものだけ用意しておいた方が良いか。
いや、それよりも…。
「お風呂入っちゃうのが先だよね!」
今日も猛暑で、汗だくの一日だった。
夜になっても気温はろくに下がらないし、昼間に暖められた空気は、夜風を生ぬるくして心地悪かった。
とにかく、いつ友雅が帰ってきても良いように、エアコンの温度を調節しておいて…先に汗を流してから、食事の支度に手を付けよう。



インターホンが鳴ったのは、あと15分ほどで午後11時を指す頃だった。
「おかえりなさーい。お疲れさまでした。」
「それは私が言う台詞。あかねも一日、仕事頑張ってきたんだろう?お疲れ様。」
ドアを開けて彼を出迎えると、そう言ってとびきりの笑顔が踏み込んで来る。
大きいけれど長く綺麗な手のひらが、あかねの髪を優しく撫でた。
「夕ご飯、どうします?簡単なものなら用意出来ますよ?」
「ああ、ごめん。食事は店で軽く摂ったから…代わりに冷えたワイン、頼めるかい?」
そう言うだろうと思って、常に冷蔵庫には2本の白ワインが冷やしてある。バカラのグラスと一緒に。

一旦寝室で着替えたあとでリビングに戻ると、ワインを注いだグラスと共に、スモークチーズとクラッカーが揃えられていた。
添えられたジェノバペーストとスティック野菜が、彩りに新鮮さを加えている。
「あかね、ちょっと聞きたいことがあるんだけれど、来週の土曜か月曜、どちらか休みとか取れないかな?」
「え、お休みですか…?」
しばらくあかねは考えて、ソファの横に置いてあるバッグから手帳を取り出した。
「有休がまだ余っているんで、取れないことはないですけど、どうしてですか?」
「久し振りに、パーティーとかどうかな、と思ってね。」
そう言いながら友雅は、あかねの手元にあったアップルタイザーを、空になった彼女のグラスに注ぎ入れた。



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Megumi,Ka

suga