ガラン、と転がり落ちて来たパック牛乳を、あかねは自販機の中から取り出した。
それを小さなバッグに入れると、友雅の顔を見上げる。
「…用事、終わっちゃいましたけど。」
「そうだね。結構あっけなかったな。」
マンションから下りて来て、ぐるりと歩いて自販機にコインを入れて、それでミッションは終了。
あまりに簡単に済んでしまったので、思わず二人とも笑いが込み上げた。
「あ、良い風」
さらさらとした夜風が、二人の頬に触れながら流れて行った。
耳を澄ませば波の音が聞こえるが、夜では真っ暗で水平線は全く見えない。
「外の方が涼しくて心地良いね。」
「そうですね。エアコンとかより、全然優しい涼しさですよね。」
冷房なんて、冷え過ぎて身体に悪いし、エコじゃないし。
とは口で言っても、日中の暑さを肌で感じてしまうと、文明の利器に頼ってしまいがちだが。
「せっかくだから、少し辺りを散歩して帰ろうか」
「え?今からですか?」
確かにまだ時間は早いけれど、夏は遅くまで人が出歩いているから危険、と言ったのは彼の方。
ここは閑静な住宅街だし、海は岩場がずっと続いているから、遊びに来る者も殆どいない静かな海辺だけど。
「大丈夫。ちゃんと護衛役が一緒だから、心配ないよ。」
友雅はそう言って、自分の腕をあかねに差し出す。
遠くまで行くわけじゃない。
ただ、ふらりと海沿いをぶらついてみようか、というくらいの距離。
「夕涼みのつもりで、ちょっとお散歩も良いですね」
「景色は闇で遮られているのが、残念だけれど」
彼の腕に手を絡めて、あかねはそっと寄り添って歩き出した。
風が流れる方向へ、ゆっくりとした足取りで。
最近はたまに早起きなどをして、明け方の海を一緒に散歩したりする。
けれど、こうして夜に海沿いを歩くなんてことは、今までなかったかもしれない。
「大抵夜は、遅くまで町中で生活してたからねえ」
午後8時から開店して、閉店は午前1時。
とは言いつつも、オーナーの彼がそこまで遅く店にいることは皆無。
せいぜい開店して1〜2時間ほど、店に来る客に顔見せをしてから、あとはスタッフに任せて帰宅する。
家に着くのは、ほぼ10時を過ぎる頃。
それから出掛けることなどないから、何となく新鮮な気分だ。
「ねえ友雅さん。これから早く帰れたら、こんな風に夜のお散歩行きませんか?」
「うーん…そういう誘いをされると、開店する前に帰宅したくなってしまうな」
波の音に耳を傾けたがら言うと、あかねが足を止めて友雅を覗き込んだ。
「今の言葉、撤回します。そんな風に友雅さんにサボられたら、鷹通さんが可哀想だもの。」
オーナーの特権を利用して、自由奔放に勤務時間を操作するのはお手の物。
それが自分と過ごすためだと思えば、正直悪い気はしないけれども…。
「じゃ、日曜の夜だけにしよう。それなら構わないだろう?」
日曜は定休日だから、夜は完全にフリー。
どこかに出掛けない限りは、家にいるはず。
「それなら許可します」
あかねはそう言って、朗らかに笑った。
砂が残る遊歩道を、とぼとぼと宛ても無く歩いて。
大きな岩場に差し掛かったところで、来た道をUターンした。
「でも、正直なところを言えば…店で堅苦しい格好をしてるより、こうして普段着で散歩する方が気楽ではあるね。」
平日ならこの時間は、スーツ姿で店に出ている頃。
バカラのグラスにカクテルを注いで、女性たちの話に耳を傾けたりしている。
ふと、隣の彼女が小さな笑い声を上げた。
「どうしたんだい?」
「ううん、別におかしいわけじゃないんですけど…お店の友雅さんと比べると、全然違うんだもの」
一緒に過ごすようになって、もう見慣れた姿ではあるけれど、『JADE』にいる彼とは、あまりにも違いすぎる。
素肌の上に洗いざらしのコットンシャツと、少し色の落ちたダメージのデニム。
足なんか、裸足にビルケンシュトック。
Ferreのスーツに身を包んで、シェーカーを振る彼からは想像出来ないだろう。
でも、普段着の彼はいつもこんな感じだ。
「家にいるときまで、スーツなんか着てられないよ。」
笑いながら友雅は言う。
その割には、何を着たってそれなりにハマってしまうのが彼だ。
もとが良いって得だなあ…なんて、あかねは心の中で考えた。
「でも、姫君がご所望ならば、いつでも正装するよ?」
腕に絡めるあかねの手を、そっと取り上げる。
悪戯するように指先にキスをして、片手は背中に回して。
「とっておきのスーツを着て、ヴェネツィアンガラスのランプでライトアップして。そして、最高級のバカラグラスで、カクテルをご馳走するよ。」
たった一人だけの為に、特別なおもてなしを。
店では出来ない、一人のためのエスコート。
「大好きなフローズンパイナップルも、クリームチーズのカナッペも添えて。」
チーズの上から垂らす、はちみつも忘れずに。
「カクテルは何が良い?店でよく飲んでいた、カンパリにしようか。」
いつも彼女がオーダーしているのを、ずっと眺めていたのは昔のことだ。
他の客とは違った雰囲気の、可愛いお客様の様子を伺っていた頃は、お互いに口を聞いたことも無かったのに。
今はこうして、すぐにでも抱きしめられる関係。
大切な、ただ一人の恋人。
「やっぱり、オリジナルにしようか。あかねのための、オリジナルカクテル。」
彼女の口に合うものを集めて、完璧なバランスでブレンドしたそれは、門外不出の特別レシピ。
どんな高貴なお客様でも、どれだけ料金を積まれようと、これだけは誰にも作ってあげない。
"あかねにしか、飲めないものだしね"
甘くて口当たりが柔らかくて、それでいて…少しずつ酔える味。
まるで、彼のキスそのもの。
「何か、友雅さんの話を聞いてたら、カクテル飲みたくなっちゃいましたよ…」
唇を離し、彼にぶら下がるように肩に手を掛けて、あかねが言った。
友雅と一緒じゃなければ、飲めないカクテル。
甘いフルーティーな、身体にそのまま自然に染み込む甘さが恋しくなった。
「じゃ、部屋に帰ったら、姫君に1杯ご馳走して差し上げよう。」
目の前にはマンションが見えて来た。
もうそろそろ、夜の散歩はおしまい。
「あ、でも、別にスーツとかには着替えなくても良いですからね!」
エントランスをくぐって、エレベータの前で立ち止まると、あかねが思い出したようにそんな事を言った。
そして、花のような笑顔を作って、腕に寄り添う。
「今みたいな普通の格好で良いです。どんな格好でも、友雅さんには変わりないですもん。」
服装なんかどうでもいい。そんなもので、惹かれたわけじゃない。
こんなにも惹かれてしまったのは、それが"彼"だったから。
「それに、こーいう友雅さんにカクテル作ってもらうなんて、普通じゃ出来ませんから、こっちの方が貴重です。」
さらりとした髪を夜風に靡かせて、彼の恋人はそう言って微笑んだ。
「それじゃ、今夜はとびきりのカクテルで、ゆっくり甘く酔わせてあげるよ。」
フルーティーな茜色のカクテルに、恋というスパイスを加えて。
恋人と過ごす夏の夜は、酔いつぶれてしまうくらいに、思いっきり甘いくらいの方が良い。
--------THE END
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