六月十日、午後九時。天気は梅雨らしく小雨が降っている。
木々に囲まれた闇の中に、暖炉のような明かりが屋敷の窓からこぼれていた。
「いらっしゃいませ。お待ちしておりました」
フロントでチェックインを済ませ、鍵を預かり部屋に向かった。
落ち着いたワインレッドのカーペットが敷かれた廊下。艶のある木製ドアのエレベーター。
303号室のドアを開けて中に入ると、クローゼットには既に荷物が届けられていた。

「最初、『どこか一泊旅行でも行くんでしょ』って言われたんですよ」
友雅の脱いだジャケットと、バッグから取り出した着替えをハンガーに掛ける。
冷蔵庫を開けて、スパークリングウォーターを二つのグラスに注いだ。
「その時は違うって言いましたけど、そうなっちゃいましたね」
舌に軽い刺激を感じてから、喉に流れていく炭酸水の爽快感。
一時間のドライブなら、この程度で疲れが癒される。
二人ともゆっくり過ごすにはどうしたら良いかと考えた結果、あかねが家事をしなくて良い=上げ膳据え膳ということになった。
つまり、第三者のホスピタリティを受けて過ごすこと。
移動手段は家から車で一時間圏内。あまり騒がしくない場所のホテルか旅館の宿に一泊。
それらの条件を挙げた上で、あとはすべて彼女に任せた。
今回の主賓は友雅。ホストする役目は自分にあるからと言うので、今回はあかねに従った。
そんな彼女が選んでくれた宿は、隣県の温泉地にある欧風ホテル。
クラシカルなインテリアの、都会にはない落ち着いた佇まいの宿だった。
「雰囲気の良いホテルだね」
「でしょう?平日だから割と安くて、何よりアニバーサリープランがあったんです」
予約時に伝えておくと、記念日に合わせた特別なおもてなしが用意される。
部屋はルーフバルコニー付きの、新緑の山並みが見えるスイートルーム。
ディナーはフレンチフルコースで、他人の目を気にせずルームサービスになっている。
シャンパンフルボトルとバースデーケーキ、カットフルーツとフリードリンクがプランの特典。
その他にも色々用意されているらしいが、誕生日当日の明日にセッティングされるようだ。

「気に入ってくれました?」
「ああ、素敵な宿を選んでくれて嬉しいよ。でも、何より良いのは天使様がいることだね」
グラスをナイトテーブルの上に置き、あかねの手首を軽く掴んで引っ張る。
力に流されるまま身体は彼の方へと倒れこみ、二人は柔らかなベッドに投げ出される。
「素敵なホテルで天使様と二人きりとは…最高の誕生日を迎えられそうだ」
「いつも見てる顔と一緒で飽きないんですか?」
「全く飽きないねえ。それとも、あかねは私に飽きたかい?」
美人は三日で飽きるなんて言うけれど、そんなの絶対に嘘だと思った。
初めて会った時から長い時間を経ているのに、毎日どこかのタイミングで胸の奥が熱くなる。
甘い言葉、耳元で囁く声。身体を溶かしてしまうような眼差し。
澄んだ瞳、優しい笑顔、時に艶やかさを醸し出す仕草。
お互いに相手の好きな部分を上げたら、一晩かかっても終わらないくらい。
「私たち、どうして飽きないんでしょうねえ?」
家でも勤務先でも一緒にいるのに、何故こうも常に自然体でいられるのか。
「強いて言うなら、気持ちが成長し続けているから、かな」
先はまだまだ長く伸びていて、限界点がどこにあるのか分からない。
これ以上好きになれない、なんて感情を想像できない。
今この瞬間でさえ、心が高揚してしまっているのに。
「日付が変わるまで少し時間があるけれど…前日練習してもいいかな?」
すくいあげた髪が指先からさらりとすり抜け、その顔が隠れないよう両手で包む。
重ね合った唇は炭酸水よりも刺激的で、それでいて甘い。
どうやら意見が一致したようなので、誕生日を迎える前にちょっとだけフライング。
手をつないで落ちて行く。
雲のように柔らかなベッドの中へと。


+++++


夕べ到着した時は分からなかったが、朝になって窓の外を見ると眺めの素晴らしさに驚いた。
鮮やかな緑の木々、眼下に広がる手入れの行き届いたホテルの中庭。
雨は今は止んでいるが、今日もすっきり晴れそうにないモノトーンの空。
残念だがお天気だけは諦めるしかない。

旅先ではいつも彼より遅く起きるのだが、今朝は珍しく先に目が覚めた。
そっとベッドから抜け出したが、友雅は気付くことなくまだ寝息を立てている。
一時間くらいの運転だったけど、疲れさせちゃったかなあ…。
車じゃなくて、公共機関使えば良かったかも。
最寄りの駅からホテルまでは、タクシーを使って三十分ほど。
彼を疲れさせるくらいなら、その手段を選べば良かった、と少しあかねは後悔した。
-----私に手間をかけさせないようにって、友雅さんは一泊の旅を提案してくれたのに…。気が利かないなあ、自分。
ため息と同時にガウンを羽織り、あかねはホテルのパンフレットを手にリビングへ移動。
ソファにごろんと寝転がって、革のファイルを開く。
「朝食は六時半からやってるのかー。結構早いのね」
六時半から十時まで。ルームサービスは前日受付だから、今日は食べに行かないといけない。
でもまだ彼は寝ているし、現在の時間は七時。もうちょっと遅くでも大丈夫そう。
起こしちゃうのも可哀想だものね。
だって、約束だもの。思いっきり甘やかしてあげるって。

『誕生日は目一杯甘えさせて欲しいな』
お祝いのプレゼントは何が良いですか?と尋ねた時に、彼からの返ってきた言葉。
品物よりも何よりも、甘えさせてくれるのが一番嬉しい、と。
その流れで、あかねも一緒に休みと取ってくれというお願いをされた。
誕生日に一緒にいられないのは嫌だ、なんて…子どもみたいなことを言うんだから。
「言えないよねえ、みんなに」
あかねが友雅と同じ有給を取ったのは、それが理由だ。
彼がだらけないように監視役、なんて真っ赤な嘘。わがままを聞き入れてあげただけ。
くすぐったいわがままだったから、とても断れなくて。

さて、今日はどんな風に過ごそうかな。
彼を甘やかす約束だけど、せっかくの旅行だから外に出掛けてみたいし。
近隣の観光案内のページには、家族向け、カップル向け…とカテゴライズされて名所が掲載されている。
アウトレットかー。ここ色んなお店ありそう。
あ、ミュージアムもいくつかある。面白そうだなー。
…って、私が決めても仕方ないじゃないの。主賓は友雅さんなんだから、彼に決めてもらわなきゃだめでしょ。
やっぱりそろそろ、起こした方がいいかも。
出掛ける相談をしておかないと、貴重な時間がもったいないものね。
パンフレットを閉じて、再びベッドルームに戻る。
そっと彼の横に近付くと、軽く肩を揺すった。
「友雅さん、朝ですよ」
出来るだけ小さな声で何度か呼ぶと、ゆっくりまぶたが開いた。
「…おはよう、天使様。今朝は早いね」
「もっと寝かせてあげたいんですれけど、一人で起きてるの寂しいんで」
「天使様を寂しがらせてしまったとは、私としたことが失態だ」
改めて、おはようのキス。
場所は変わっても、毎朝の習慣は変わらない。






  




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