「珍しいですね、橘先生が有給を申請するなんて」
提出された書類を見て、人事部の職員がつぶやいた。
三階にあるオフィスの窓からは、屋上庭園の緑が見える。
四季折々の花木が植えられたそこは、患者やスタッフの憩いの場所だ。
この時期はやはり紫陽花が見頃で、日本古来の品種だけでなくカラフルな西洋紫陽花も楽しむことができる。
じめじめした梅雨の季節は、誰でも気分が滅入りがちだ。
雨に濡れながらも咲く紫陽花の色は、ささやかではあるが心を和ませてくれる。
…とはいっても、勤務中にそんな余裕があるわけもない。
そろそろボーナス支給時期が近付いているので、事務関係者はとにかく忙しい。

「あれ、橘先生って誕生日いつでしたっけ」
有給申請書を見ていた職員がぽつりとこぼすと、向かいからすぐに答えが返って来た。
「六月十一日ですよ」
しかも、女性スタッフ二人同時に声を合わせて。
既に彼は妻帯者(しかも隙無しの愛妻家)なので、下心など芽生える気にもならない。
だが彼女たちにとって、彼は所謂アイドル的存在。
誕生日くらいのデータをチェックするのは、当然のことなのだそうだ。
ちなみに小児科の藤原や婦人科の安倍、リハビリ科の源や管理栄養士の永泉などの情報もしっかりインプットされているらしい。
「ああ、じゃあ誕生日休暇の意味での申請なのか」
書類に記されていた有給の申請日は、六月十一日と十二日の二日間。
日々忙しい彼だから、誕生日くらいは仕事から離れてゆっくりしたいということか。
するともう一人の職員が、別の書類を差し出して来た。
「…どうやら一人でのんびりってわけじゃなさそうですけどね」
そちらは看護師の休暇申請書類。
明記されている名前は、直前まで話題に上っていた人物の奥方である。
彼女の休暇申請日はというと、誰もが想像した通り六月十一日から十二日。
「はぁ…相変わらずですね、あのお二人」
最愛の人と過ごす時間が誕生日のプレゼント…ね。
こんな調子じゃ手も足も出ない。邪魔する気にもなりゃしない。
苦笑いを浮かべながら職員は、二人の書類に"可"のスタンプを押した。


とにかく二人揃って院内では有名人なので、話はどこかから流れて来て広がって行く。
「違いますよ、私がお休みを取るように言ったんです」
休憩時間の看護師たちは、持ち寄ったお菓子をつまみながら仕事以外の話で盛り上がる。
今回の話題に取り上げられたのは、友雅の有給休暇に関すること。
彼の誕生日に合わせて二日連休を申請したと聞いた…夫婦揃って。
「そういう理由を使わないと、なかなか有給を消化できないじゃないですか」
「まあねー、それは私たちもそうだけどね」
どこでもそうかもしれないが、医療の現場でも有給休暇を完全消化できる者は殆どいない。
想定外の急患が入ったりすれば呼び出しが掛かるし、代役を立てられない医師もいる。
看護師も同様で、人手不足もさることながら、重篤患者や術後の集中看護が必要な場合は休む間もない。
取れなかった休日は後日まとめて申請してチャラにすれば…と、そう上手くいかないのが現状というもの。
撮り損なってしまった有給はスルーされ、元から存在しなかったようにされる。
「だから、『誕生日くらい休みを取ってください』って言ったんですよ」
身体を壊しては元も子もないし、有給だって十分な日数が残っている。
誕生日こそ自分をメンテナンスする日にして欲しい、とあかねが懇願したので申請に至ったのだった。
「で、アンタも一緒にお休み取ったってことは、どこか一緒に逃避行するわけ?」
「ないですよ、そんなの。私はー…」
あかねのリアクション、若干微妙に間があく。
「私は監視役です。休みだからって、だらけ過ぎても困るんで!」
休日こそだらだらするのが醍醐味ってもんでしょ、と皆は口を揃えて言うが、この白衣の天使はなかなかに厳しい。
「常に不規則な勤務なんですから、こういう時にしっかり身体を整えるのが大事なんですよ」
「耳が痛いこと言わないでよ、もう」
分かってはいるけど、実行に移すのは難しい。それはつまり、自分たちの有給と同じことで…。
まったく、どうしてこう何もかも順調に行かないのか。
我に返ったら気分が重くなってきた。少し話の矛先を変えよう。
「ともかくさ、先生に私たちから誕生日プレゼントを渡すのは良いでしょ?」
「え?別にそれは構いませんけど、何で私に言うんですか」
「一応ね、許可をもらった方が良いと思って」
「そんな気遣いはいらないですよー」
彼女はチョコをほおばりながら笑う。
しかしこれが逆の立場で、あかねに男性スタッフから贈り物となったら…多分友雅は不機嫌になるんだろうな、と皆は思った。


+++


手帳とスマホ、カレンダーをテーブルの上に並べ、六月のページを開く。
「良かったですねー、誕生日に連休を取れて」
申請した有給は、二人とも無事に確保することが出来た。
これでひとまずは安心。ゆっくり二日間かけて身体を休められる。
「あ、でも買い出しをしとかなきゃ。次の日曜日、連れてって下さいね」
川の向こうにある隣町のスーパーは、敷地が広く品揃えが多いことで買い出しにはうってつけ。
価格も安くて品質も新鮮。そのせいで業者も個人客も足を運ぶ。
「どうしようかな。友雅さんは洋食、和食、中華、どれが良いですか」
休日を書き込んだあと、あかねはすぐにスマホを手に取る。
ブックマークしているレシピサイトを表示し、パーティーレシピのページをクリック。
肉だったらやっぱりステーキが映えるかな。
魚介を使ってイタリアンなレシピもおしゃれで良いかも。
おつまみ感覚の飲茶も食べやすいな。生春巻きなんかも……。
「お酒にもよりますよね、ワインと日本酒とどっちにしましょうか」
そうだ、誕生日なんだから一応ケーキも必要だ。
自分と違って彼はそこまで甘いもの好きじゃないけれど、小さくてもやっぱりお祝いのケーキが欲しい。
駅地下にビターチョコケーキの美味しい店があったはず。
男性にも人気があるとか聞いたし、ケーキはそれにしようかな。

「楽しそうにしているのに、水を差すようで申し訳ないんだが」
あかねの様子をソファで眺めていた友雅が、新聞を折り畳み身体を起こした。
「そこまで大掛かりな用意は必要ないよ」
えっ、とびっくりした顔をしてあかねが振り向く。
彼は苦笑いを浮かべ、少し申し訳なさそうに言った。
「私の誕生日を祝うために力を尽くしてくれるのは嬉しいのだけどね、そのためにあかねを疲れさせるのは心苦しい」
普段から家事をこなしているのに、更に気合いを入れて料理を作るのは大変。
彼女もその日は休みなのだから、負担を掛けることは出来るだけさせたくない。
「誕生日ですよ。いつもと違う雰囲気でお祝いしたいじゃないですか」
年に一度の、大切な人が生まれた特別な日。
この日があったからこそ出会えて、今こうして一緒にいられる。
すべての始まりの日。彼にとっても自分にとっても記念すべきその日を二人で祝えたら…とあかねは思っていた。
「その気持ちだけで十分なんだけどね」
でも、きっと彼女は納得しないだろう。
そしてそんなあかねの気持ちを、尊重したいとも思う。
自分を思っての、愛おしい想いだから。
そのためには、別の方法を考える必要がある。
お互いにその日を心置きなく祝って過ごす方法を、改めて考えてみようと。







 




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