思い切り手を伸ばして、やっと手に取ることの出来た林檎は、思っていた通りこれまでのものよりも赤い色をしていた。
「良かった。頼久さんのおかげです、ありがとうございます。」
小さな林檎を手にして、満足そうに微笑むあかねの顔が見られただけで、頼久としては本望だった。
突然、木の間から激しい音が響いた。
バサバサバサ……羽根の羽ばたく音。木の実を狙っていた、数羽の鳥が一斉に羽ばたいたのだろう。彼らも厳しい冬に備えて、収穫の秋を充分に利用しなくてはいけない本能が有る。
「………な、何だったんですか?今の音…」
驚いて思わず頼久にしがみついたあかねが、物音のした頭上を見上げた。
「鳥でしょう。この辺りは彼らの餌になる木の実が多いですから、おそらくそれを目当てに集まって来ていたのだろうと思います」
「あ…鳥ですか…びっくりした…いきなり近くでバサバサって音がしたから……」
ホッとして我に返ったが、今度は自分の状況に驚きを上げた。
びっくりして咄嗟に取った行動とは言え、頼久に抱きついてしまった自分に赤面する。
「ええーっ!?ホ、ホントなのっ!?」
鳥の羽ばたきに続いて、詩紋の声が森の中に響き渡った。
「…し、詩紋の声ですよね…?」
「はい。何かあったのでしょうか…」
頼久はようやく、あかねを地に下ろしてくれた。
これでやっとホッとする…なんて簡単なものじゃなくて、やっぱり間近で見た彼の優しい瞳と、手のぬくもりがまだ忘れられない。
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「マジだって!俺、この耳でちゃんと聞いたんだぜ?頼久が見合いの話を断ってるの」
天真から打ち明けられた話は、詩紋には驚くべき内容だった。
あの頼久に、結婚の話が持ち上がっているなんて…。
年齢的に考えれば、当然のこととは思うけれど、何せ彼は……。
「でも、断ったって言っても……やっぱりその…いろいろとそういう話って、あちこちから持って来られるよね…」
「まあな。親父さんの話でも、これまでいくつかあったっていうしさ。これが最後ってわけじゃないだろうし。」
問題は、彼の本心がどうなのか、ということなのだ。彼の中で、あかねの存在はどういうものなのか、はっきりしない。
主従感情と恋愛感情と、どちらが彼の中で重みを持っているのかを知りたい。
「天真……おまえ、その話をどこで聞いていた?」
話に集中していたせいで、頼久たちが戻ってきていたことに天真は気付いていなかった。
振り返ると、そこには困ったように溜息をついている頼久と、その隣で困惑した表情のあかねが立っていた。
聞かれてしまったか…。迂闊だった、と天真は悔やんだ。
当の本人である頼久なら良いが、あかねにはまだ聞かせる話ではないと、そう思っていたのに。
「悪い。今朝、おまえを呼びに詰所に行ったとき、ちょっと…話が聞こえて、耳に入っちまってさ…」
バツの悪そうな顔で頭を掻きながら、天真は包み隠さず打ち明けたが、頼久はそれを咎めなかった。
詩紋は、あかねの様子を見る。戸惑いが、彼女の瞳の中に浮かんでいる。
当然だろう。元はと言えば、頼久がここにいるからという理由で、この京に残ることを決心した彼女だったから、目の前にそんな状況が展開されていたなんて思っても見ないことだったに違いない。
あかねは、頼久に惹かれていた。
言葉にはなくとも、それは様子を見ていれば感づいた。
そして頼久も多分、少なからずあかねを想っているのは分かっていたが…問題はそのバランスだ。
さっき天真と話したように、恋愛と主従と…彼はあかねに対して、どちらの感情が強いのか。
恋愛の中に、主従はいらない。
一直線上に並んだ、同位置で見つめ合う存在だけで良いはずなのだから。
「しょうがねえな。こうなったら、はっきり聞くわ。頼久、おまえさ…何で結婚しないわけ?」
ストレートにそんな言葉が天真から飛び出して、頼久は度肝を抜かれた。
「それは…話を聞いていたなら分かるだろう。未熟である私に、家庭を築ける余裕などありはしない。だから、断っただけだ。」
「ホントにそれだけか?ホントは、他に理由があるんじゃねえのか?」
頼久は、唇を噛んだ。
その仕草の意味が、何であるのかは分からないが、一瞬だけ様子を伺うように隣のあかねを見た。
すると、彼女はにこっと頼久を見て笑った。
「頼久さん、全然未熟なんかじゃないですよ?強くて頼りになって、立派な人じゃないですか。」
彼女を見つめたのは、目の前にいる頼久だけではなかった。天真も、そして詩紋もあかねに視線を集中させた。
それに気付いたあかねは、今度は彼等に向かって言う。
「ねえ、詩紋くんたちもそう思うでしょ?剣術も馬術も弓も、何でも出来ちゃうし。それに、真面目で何でも色々教えてくれるし、優しいし。」
何て答えて良いのか分からず、言葉をためらった。あかねが、何故そういう事を突然言いだしたのかが分からなくて。
彼女の言うことは最もだと思うけれど、ここでそれを肯定して良いのか、二人は迷った。
「ね、頼久さん。だから、大丈夫ですよ。頼久さんなら、すごく奥さんの事思ってくれると思う。きっと、幸せな家庭を築けると思いますよ?」
「あかね、おまえ…」
天真が声を掛けかけると、朗らかに彼女は振り返る。そして、小さな林檎の実が積まれた籠を持って、詩紋の手を引き上げた。
「そうそう!詩紋くん、あっちに林檎の実がたくさんあるんだよ。一緒にもっと摘んでこようよ。」
今戻ってきた方向を、あかねは指さして詩紋を引っ張る。
一見、元気そうな彼女の姿を見て、その手を振り解けなかった詩紋は、そのまま彼女に連れられて再び森の奥に向かっていった。
「頼久、上手い具合に邪魔者がいなくなったんで…率直に聞くわ。」
天真の話を聞きながらも、あかねの様子が気になる頼久は、何度も森の奥の道に目をやった。
この辺りには、危険な獣が出るとか怨霊がいるという話は聞かないが、それでも自然の中に危険というものは存在する。
あかねがもしも、そんな状況に陥った時、果たして自分は彼女のそばに駆けつけられるだろうか……。
「そんなにあかねが心配なら、一生護ってやりゃあいいだろうが」
振り返ると、天真が呆れたように頭を掻いて大木に寄りかかっている。
「それくらいの覚悟、もう出来てんだろ?」
「………私は……」
一度は、この命を捨てるつもりだった。
それは彼女のために。忠誠を誓った彼女を護るために、何度もその覚悟を抱いて生きていた。
今も想いに変化はない。彼女が神子でなくなった今でも。自分が、八葉でなくなった今でも。
「神子殿をお護りしたいというのは、変わらない。それが私の使命で………」
「あいつは、もう神子じゃないぜ。それに、俺だって詩紋だって、おまえだってもう八葉じゃねえ。」
天真の言葉が、やけに深く染みこんだ。