朧月夜

 003
「や、泰明さ…ん…?」
あかねのそばに腰を下ろして、こちらを見ている泰明の瞳の中から、涙がぽろぽろとこぼれ続けていた。
「ど、どうかしたんですか…どこか怪我でもしたんじゃ…」
きょろきょろと見渡してみるが、泰明の衣類には全く乱れさえない。
「おまえが怨霊に捕らわれた姿を見たとき…私は自分で自分が分からなくなった」
「泰明さん……?」
涙の意味を知らない泰明には、それをぬぐうものであるのかさえも分からない。水晶のような透明の粒が、泰明の頬を流れはこぼれ落ちる。
「怨霊を退治せねば、おまえが危ないと判断したあと…そのあとのことは自分でも分からない。ただ…本当に分からないのは…この涙の意味だ…」
柔らかな雲の流れが、月明かりを甦らせる。

「神子に大事があったとしたら…そう考えたら…自然に涙が溢れ出してきた。考えを変えれば止まるだろうかと思い、もう大事ないと考えた…それなのに…一向に止まらない…。どうすればいいのか分からないのだ…」
作り物ではない涙は、止まりはしない。感情が落ち着きを取り戻さない限りは、人の想いと同様に溢れ続けて行く。
「何故だ…私は一体、どうなっているんだ…。私は…おまえのことを考えると…自分の姿が見えなくなる…」

いつもなら堅く凍り付いて、ひび一つ感じさせない氷のような泰明の姿が、今はあまりにももろく見えた。
手を伸ばして触れたら、そのまま崩れてしまいそうで。
あまりに無防備で、そして『素』だった。

「涙が出るのは、泰明さんが人間だからなんじゃない?」
あかねの声に、自分の手のひらに落ちた涙を眺めていた泰明は顔を上げた。
「きっとホッとして涙が出たんだよ。別におかしいことなんかじゃないよ。それって人間だったらあたりまえのことだもの。」
穏やかに笑う、あかねの顔が目の前にある。
「優しいなどという感情は、私にはない。私は…人間ではない」
「実際にはそうかもしれないけれど、私は泰明さんのこと、普通の人間だと思ってる」
「おまえは…何も分かっていない…!」
泰明が顔を伏せた。うつむいて、手元の雑草をちぎって投げた。
「私は人間ではない…感情なども存在しない。優しさなどという感情は-------------」
「自分では気づかないものでしょ、優しいことって」
あかねは、淡々と泰明の言葉を遮る。

「自分のことを優しいとか言う人こそ、私は信じられないよ。その人の自愛の感情が強いもの。本当に優しい人は、他人から優しいねって言われるような人のことを言うんだよ」
月明かりは、柔らかく辺りを照らす。
ホタルよりもおぼろげに、そして甘く穏やかに空気を整えて行く。
「人間じゃなくても、優しくない人もいるよ。そんな人間より、あなたは優しいもの。人間よりも人間らしいと思うよ。」

最近、あかねの姿が変わり始めていたのは、この目を見れば事実だった。
この世界に来た直後のころ、辺りを見渡す目はおぼつかなくて、ゆらゆらと地に足の着かない視線の行き先。そのあかねの目が、変化を始めている。
真っ直ぐに、何か強い力を持った目。まさに、今の目がそれだった。

「泰明さん…無駄なことは一切やらないでしょ。だから、きっと泰明さんの中にある感情もそうなんだと思う。ねえ、無駄な感情がなかったら…残るのは真実だけなんだよ。その残った真実の感情が、あなたの優しさなんだと私、思うんだ」
泰明は、何も口を挟まなかった。
夜風と月光の漂う庭の中、二人の姿が照らし出されている。
「だから、私、泰明さんの足かせにならないように、ずっと私なりに頑張ってたんだけれど…でも…やっぱりダメだったよね。お屋敷に来てまで、怨霊なんかに捕らわれて…泰明さんがもしも助けに来てくれなかったら、きっと私ひとりじゃダメだったもの」
困ったようにして、あかねは目を伏せる。髪の毛に指先を添えて。
この仕草の意味も、もう覚えてしまった。頼りなさげな彼女の表情。
自分の力の無さに悔やむ時。自分が未熟で歯がゆい時。あかねはこんな風にして苦笑する。
そんな動きの持つ意味さえも、今は手に取るほどに伝わるのは…それだけ自分があかねを見続けていたせいだ。
逢う度に、どこかが違って。その違いを理解するために彼女を見つめ、答えが見つかったのに…今度はそれが見つからない。
「私じゃやっぱり、泰明さんのお荷物でしかないよね…悔しいなあ…。そんなんじゃ、龍神の神子でもなんでもない、単なる役立たずでしかないよ…」
「おまえには、八葉がいる。おまえが無理をしなくとも、八葉がおまえを護るのだから問題ないだろう」
「……そんなんじゃないよ…私がなりたいのは、そんな護られるだけの存在じゃないよ」
カサカサ、と草が夜風に揺れる。わずかに聞こえる、二人の衣擦れの音。風に揺れて。
「護りたい人を、いざというときに護れない人間になんか…私はなりたくないよ……」
強く光っていたあかねの瞳から、静かにしずくがこぼれ落ちた。

「女の子だからって、護られるだけしか出来ない存在になんて、なりたくなんかないよ。一人ではなにも出来ないような存在なんて、嫌だよ…。私だってその時が来たら……大切な人を護ってあげたいもの…。でも、今のままじゃ……無意味でしかないじゃない、私なんて」
透明で、暖かい涙のしずくは、あかねのすべてだった。
初めて見たその涙を、泰明は綺麗だと思った。
--------------あかねを、綺麗だと思った。

「おまえは…強くなった。」
あかねの涙を指先でなぞり、泰明はつぶやいた。
月にかかる雲が、ゆっくりと風に流されて行く。柔らかい明かりが地上を照らした。
「初めておまえに逢った頃は赤子同然で、おまえの言うように無意味な存在と言っても言い過ぎではなかった。だが、今は-------強い。」
「強くなんて…だって、さっきだって何も出来なかったよ…。」
「おまえは強い。だから、おまえの存在は…何者にも代え難い」
繰り返し、泰明は言った。
泰明は一度たりとも、世辞などは一切言わないと分かっている。
でも、だからと言って自覚できるあかねじゃない。

月夜は時間が流れるのが遅い。風のように、滑らかに、小川のせせらぎにも似た早さで。
このまま時間が、もっともっとゆっくりと流れて行くとしたら。
怨霊がうごめき出す、油断のならない満月の夜なのに、泰明の心は無を取り入れることが出来なかった。
たゆたっている怨霊の気配か?彼女の龍神の力のせいか?
違う。そんなことは気づいていたのだ。
あかねがそばにいたからだ。

「私は、おまえが羨ましいと思う」
いきなりの泰明の言葉に、あかねは驚きの声さえも出なかった。
「おまえはいつも真っ直ぐに前を向いている。私はあれこれと考えを細やかに組み立てて消去してしまうから、その中にある小さな重要なことを見逃してしまうこともあるだろう。だが、おまえはそんな微塵のものさえも通り過ぎたりはしない。その潔さを羨ましいと私は本当に思う。」
気づかない振りをして、本当は分かっていた。あかねのように、なりたいと思った。
彼女のように他人の心のわずかなかけらさえも、見逃さない力を。
そして、それらを手のひらで暖めてやることを。
人間ではない自分を現実として捕らえすぎて、周りの目を見ることを自分から避けていた。
そこにあかねがいなかったら……ずっと自分は作り物の人形のままだっただろう。

「おまえのような人間に、私はなりたかったのかもしれない…。憧れというのだろうか、こんな想いは」
不思議な気分だ。胸の奥から暖かいものがあふれ出して来る。春の日差しのような、人肌に似た暖かさだ。
「泰明さんも変わったね。お人形さんみたいに綺麗だったけれど、今はずっと優しい顔になったよ」
少し腫らした赤い目をこすって、あかねは笑った。
「今の泰明さんの顔、私……大好きだよ」
あかねの手が、そっと泰明の頬に延びた。涙をいくつか染み込ませた目の下の宝玉に、指先が触れる。この暖かさ。胸から溢れる暖かさと同じだ。
「おまえの存在は………私には大切だった。おまえに逢えたことが…」
あかねの手に自分の手を添える。少しだけ、言葉を考えて飲み込んだ。
だけど、これ以上に思いつく言葉なんて見つからない。

「神子、私は……おまえが------------好きだ」。

見上げた月が、ぼんやりと黄金色に輝いている。
風に踊る草の音。かすかな水の音。
そして、泰明の鼓動。触れる長い髪。あかねの手。言葉もないまま、抱き合ったままで。

月光は二人を包むように照らし、いつのまにかそばに咲いていた一輪の桔梗の花が、彼らを見守るように、朝まで咲き続けていた。

--------おまえが龍神の神子であり、そして私が八葉である。
そんな意味ではなく、私はおまえを護る。
それは、おまえに出逢って気づいた。
愛する人を護るということ----------------------------

------おまえを護る。おまえひとりを。おまえだけを。-----





-----THE END-----




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