朧月夜

 002
月の満ち欠けは、全ての世界に影響を与えるものなのだ、と晴明は泰明に教えた。
海の潮の満ち干や、時の刻みまでと幅広い。
そして月明かりは、人の心を狂わせると聞く。満月が来ると、鬼に豹変する者もいないとも限らない。それほどに争いや怪しが後を絶たない。
特に女は、体の中から月の影響を受ける。そのために怨霊や鬼に捕らわれることが多くなる。気を付けなくてはならぬ。

いつぞや鬼が暴れ出すやもしれない、そんな満月の夜。
いつもより思慮深く、目を光らせなければいけない夜なのに。
原因の分からない、妙な感情らしきものがたちこめていて意識が晴れない。

「泰明、休んだらどうだ。今夜のおまえは、いささか気持ちが上擦っている」
薄暗い灯籠の明かりを受けて、晴明が言う。
「満月の夜は、眠る余裕などありません。一晩中、鬼と怨霊の気をさぐらなくては」
「今のおまえでは、それも無理だろうに」
晴明には、泰明の変化が全て分かっていたに違いない。彼が、目覚めはじめていることに。
そしてまた、目の前に異変が起こった。

カサ…。雑草のしげみをかき分ける音。
カタカタ…。何かの足音がする。
そして静寂。
二人は、音のする方向を見据えた。
「泰明、今夜のおまえには無理なことかもしれんが、気を整えておけ。来るぞ」
晴明は立ち上がり、庭の先にある暗闇を見た。



■■■


「あかねちゃん、ホントに一人で大丈夫?」
大きな青い目を開いて、詩紋が心配そうに言った。
「大丈夫だよ。だってこの門をくぐったら、もう安倍晴明さんのお屋敷なんでしょ?怨霊なんて心配ないじゃない」
「しかし、万が一のこともございます。もしものことがあったら…」
詩紋以上に頼久は、この満月の夜の気配が気になるようだった。
「二人とも心配性だなぁ。何かあったとしても、中には泰明さんだって、お師匠さんの晴明さんだっているんだよ?だからそんなに心配しなくても平気だってば!」
それは確かにそうなのだが…。
「分かりました。もしも何かありましたら、大声でお呼び下さい。すぐにこの頼久が参ります」
「うん、僕も急いであかねちゃんのところに行くから、何かあったら叫んでね!」
「オッケー。じゃ、取り敢えずそこで待ってて。行ってくるから。」
あかねは二人に笑顔で応えて、屋敷の門をくぐった。


足下がチクチクする。荒れ放題の庭の風貌。
「ここ、マジで人が住んでるところなの〜?少しは手入れすればいいのにー。うちの庭とは偉い違いだよ〜☆」
雑草は無鉄砲なほどに、強い生命力で息づいている。
遠くに水の音が聞こえる。池でもあるのだろうか。荒れてはいるが、庭はかなり広い。門をくぐって歩きだしても、屋敷にはなかなかたどり着かない。

しばらく歩いているはずだ。でも、水の音の距離は変わらないし、屋敷の明かりもぼんやりと見えるだけで、全く近くにはならない。
「ちょっと…何で?どうしてお屋敷にたどりつかないの…?」
おかしい。確かに広い庭ではあるが、迷いほどの広さがあるわけじゃない。それなのに、何故さっきから同じ距離のままで近付いていけないのだろうか。
「どうしよう…頼久さんたち、呼んだ方がいいのかな…」
今来た道の方向を振り返ってみると、ふわりと明るい小さな光の玉が現れた。

「あ、ホタル…今頃?」
ホタルはあかねの周りをふわふわと舞いながら、目の前にさっと進んでいった。
「もしかしたら、あのホタル追いかけていけば…どこか違うところにたどりつくかも」
不思議なことにそのホタルは、あかねが動きを止めるとその場に留まり、動き出すと先頭を切って飛んで行く。まさに、彼女の道案内をするためにやってきたようだった。

ホタルに付いて行くと、水の音が大きく鳴り始めた。近付いている。
草むらをかき分けて、音を頼りに歩いて行くと、こじんまりした池が現れた。ホタルは水面の上を、舞うように飛んでいる。
池の規模は小さい。しかし底は暗い。結構深いんだろうか。
覗き込もうとした、その瞬間。
「きゃあああっっっ!」
あかねの声が、闇に響いた。


■■■


ガタン。
晴明が振り返ると、泰明が立ち上がっていた。
「どうした、何か感じたか」
「……」
泰明は、目を閉じた。そして呪文を唱え始めた。
真っ暗な頭の中から、意識だけが飛びだして行く。確かに聞こえた。悲鳴だ。
感じる。微量だが強い神気。この神気は-----------------------------。
「泰明!」
晴明が声を上げたときには、既に泰明は庭に飛び出していた。
結界が破られている。
確かに怨霊の気が感じられる。そしてそのすぐそばに、あの神気が-------。
間違いない、あの悲鳴は………。
意識を頼りに、泰明は庭の中を走った。あかねの存在を見つけるために。

無数のホタルに包まれた幻想的な雰囲気とは裏腹に、あかねは池から飛び出してきた怨霊に身体を捕らわれて、身動きが取れなくなっていた。
魚のような蛇のような、生々しい大きな怪物はあかねの身体を締め付けて、力を強めてきている。
------息が…で、きな…苦…し……--------
意識が朦朧としてきた。
こんなところで倒れるなんて…こんなにだらしないから、私は泰明さんに心配ばっかりかけちゃうんだ…もっとしっかりしなくちゃいけないのに…バカみたい…泰明さんのお屋敷で、こんな形で終わっちゃうなんて……龍神の神子の力なんて、全然役に立たなかったよ…私、何のためにここに来たんだろ…いやだよ…ここで終わるのなんていやだよ…………。
ぐるぐると頭の中に、言葉が回り始める。苦痛の中で、苦悩と、後悔と、悔しさと、惨めさと……………。

「神子!!」

塞いだ瞼を、どうにかして力を入れて開いた。
真っ暗な闇の中。雑草に覆われた庭の中。細くて長い髪が夜風になびいている。

泰明さ……来て、くれ…た。

泰明の気に気づいた怪物は、あかねを締め付ける力を弱めた。ふっ、と気が抜けて、身体が草むらへと雪崩れ落ちて行く。
「神子、大事ないか」
身体を抱き上げる手。泰明の声。助かった……?良かった…泰明の屋敷で、命を落とすことなどなくて…ほっとして呼吸が整い始めた。
しかし妖怪の気は、絶えてはいない。
「陰陽師・安倍晴明の屋敷と知っての侵入か。満月の気の乱れで結界が一部解けたとは言えど、この屋敷に侵入したのは不幸中の不幸だな」
月明かりが、流れる雲に遮られて行く。闇が多くなる。泰明の指先が、月光の中で光った。
「森羅万象の全ての気をこの手に。雨・風・嵐と炎を我に。我が師、安倍晴明の名に置いて!」
ぐらり、と地が揺れた気がした。突風が吹き抜けた。
目をしっかりと開くことは出来なかったけれど、苦しみに満ちた奇声が聞こえた。
「怨霊は始末した。問題ない」
泰明の声が聞こえる。頬に指先が触れた。
終わった。もう大丈夫。もう怨霊はいない。全身の力が抜けた。意識もはっきりして来た。
起きあがろうと、腕に力を入れた時。

ぽとん。

頬に落ちてきた水の感触に、あかねは目を思い切り開いた。
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Megumi,Ka

suga