朧月夜

 001
「泰明、どうかしたか」
振り返えると、晴明がそこにいた。
彼は京の陰陽師の中でも、稀代と唱われる存在だった。
そして、泰明は彼の一番弟子だった。
…とは体面上の肩書きでしかない。真実を語ったところで、信じる者はいないだろう。

「鬼の一族との戦いが、不安か?」
「そのようなことはありません」
「そうか?私にはおまえの心が、波打っているのが見えるぞ」
「私はそんなに弱くはありません。常に知恵を持ち、一瞬の中でも無駄を作ってはおりません。」
晴明は、したたかに笑みを浮かべて泰明を見る。
「知恵があるほどに、無駄という雑念は増えて行くものなのだぞ。人間とはそういうものだ」
「御師匠、私は人間では------------」

泰明は、晴明に創られた。
彼の力の全てを注ぎ、彼の力によって生まれた。
つまり、人間とは呼べない生き物だった。

『安倍晴明』と名を言えば、京の誰もが振り返る。あまりにも名の知れた陰陽師。
変わり者という噂も京中を漂っている。
うっそうとした、手の施しようのない雑草まみれの屋敷。
晴明の住居には式神が住んでいる、と囁かれる。
鬼さえも住んでいるのではないか、とも言われている。
しかし実際は………涼しげな風貌の美しい青年が住んでいた。

普通の人間との価値観のズレにも、泰明は全く気づかなかった。無駄な感情がなかったからだ。
故に、彼を生意気な陰陽師と誹謗する殿上人も多かったが、彼自身からそのまま受け継いだ絶大なる確かな力と、師匠である晴明の名を持って、その体裁は保たれていた。

京は、怨霊に支配されつつあった。その怨霊を手に集め、『鬼の一族』と呼ばれる者たちが京の壊滅を企てていた。
彼らの力は膨張してゆき、都を守護する四神をわが手にした彼らの計画は、完成される寸前までやってきていた。
そんな時、土御門の星の一族の姫君より、泰明は『龍神の神子』と呼ばれる少女を援護する聖なる任務、『八葉』の一人として命を受けた。
目の下に埋め込まれた、龍神の宝玉がすべての証。彼女の力が、京を救う。
そして自分は彼女のために尽くす。それが泰明に命じられた任務だった。
それだけのはずだった。泰明の仕事は、それしかなかった。

なのに、ここ数日毎日のように、足は土御門の屋敷へ向かう。
気の乱れが感じられるわけではないのに、神子の元へ毎日通うようになっていた。
四神のうち、青龍・朱雀・白虎の三神は手元に戻ってきた。
最後の玄武を、泰明は取り戻さねばならない。そのために、神子を護らなくてはならない。その命を引き替えにしたとしても。
失敗は一切許されることではない。ここで足を踏み外したら、全ては無となり、京は滅んでしまう。
不安などは今まで、一度も感じたことなどなかった。
常に精神は静寂を保ち、揺れる波など生まれなかった。
だが。今はどうなのだろう。
泰明には、分からない。



■■■


「泰明殿…何か急なご用事でも?」
いつものように土御門の屋敷を訪れると、迎え出るのは藤姫である。
「神子はいるか」
「神子様ですか?本日は鷹通殿と詩紋殿とご一緒に、お出かけになられました」
主のいない部屋はがらんとしていて、風が外から吹き込んでくる。
美しく整えられた庭には、藤の花が咲き誇っていた。

そういえば、以前はこんなことさえ考えたこともなかった。
庭を眺めて、『美しい』と思うことなどなかったし、そんな感情さえ浮かんだりはしなかった。
いつのまにか、感情が生まれてくるようになった。
神子とともに過ごす時間が増えるに連れて、確実に泰明の中で変化が始まっていた。
ただし、彼にはその変化を受け止める感情がなかった。


■■■


夕暮れが京を橙色に染める時刻、あかねは鷹通たちに送られて屋敷に戻ってきた。
「おかえりなさいませ、神子様」
あかねが戻ってくると、藤姫は必ず笑顔で迎えてくれる。まだ十歳程度の幼い彼女の笑みが、この京で過ごすあかねの心を、いつも安らかにさせてくれていた。
彼女の未来のためにも、あと一頑張りしなくては。あかねは心から、そう思った。

「本日はいかがでしたか?何も危険なことなど、ございませんでした?」
「うん、大丈夫だったよ。怨霊も結構封印できてきたから、あまり嫌な気もなくなったしね。結構安心して町を歩けるようになったよ」
「それは良うございました。最後の玄武が鬼から戻すことが出来れば、おそらく京は平穏を取り戻すことでしょう。神子様、どうぞお願い致します」
「大丈夫!絶対この京を守ってみせるよ。泰明さんもいるから、最後の戦いも頑張れるから」
不安がないわけじゃないが、ここで気分までくじけたら失敗しそうだ。常に成功と失敗は表裏一体であるのだから、今回成功しても、次が成功するとは限らない。
でも、誠心誠意を尽くせばきっと…大丈夫だ。

「そういえば、泰明殿といえば…神子様がお出かけになられたあと、こちらにいらしたのですよ」
「え?泰明さんが?何か用事でもあったのかな?」
「さあ…神子様がお出かけになったと申し上げましたら、何も言わずお帰りになってしまわれたのですが…」

実は、あかねには気がかりなことがあった。
最近泰明が尋ねてくる回数が、頻繁になってきていたからだった。
何せ泰明はああいう性格であるから、自分から無意味な行動は取るはずがない。
もしかすると毎日のように、泰明がここにやってくる理由は…何か自分に問題があるのではないか、ということだ。

最後の戦闘が近付いている。だからこそ、油断や余裕を持つことが許されない。
泰明にとっては…まだ自分は不安材料なのだろうか。だから、毎日のようにここを訪れるんだろうか。

ダメだ、その迷いが気持ちを波立たせてしまう。
何度も泰明に言われたのに。『思慮深く行動せよ』と。
でも、違うことばかりが頭に浮かんで、全く集中できない。
こうなったら、直接本人に聞いてみるしかないんじゃないのか。
外は満月、まだ宵の口だ。今なら出掛けても大丈夫だろう。
藤姫を心配させては申し訳ない。せめて詩紋か頼久に付いてきて貰えば、きっと彼女も承諾してくれるはずだ。
本当は、なんとなく一人で会いに行きたい気がしたけれど、仕方がない。
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Megumi,Ka

suga