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巷に花の咲く如く
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| 008 |
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見たこともない色鮮やかな蝶が、庭先から入り込んで部屋を漂っている。
開けた御格子からのささやかな陽の明かりが部屋に差し込んでいた。泰明はぼんやりと、舞いながら飛んでいる蝶を眺めていた。
昨夜晴明に言われた言葉を、幾度か繰り返して考えた。
自分は神子に恋していると、晴明は言う。
それは人間ならば当然のように抱く感情だと、そう言った。
そんなことがあり得るんだろうか。自分は人間ではないというのに。
だが、毎夜彼女がやってくる度に感情が揺れ動いて平静を保てなくなる。
そもそも、恋というのはどんな感情を言うのだろう。泰明にとっては全く分からないのだ。
自分の目が神子を捕らえると、ずっしりと重い何かが胸の底へ沈み込んでいく感じだ。その何かは熱を帯びていて、神子と目を合わせると次第に熱くなる。そしていつしか、身体の温度さえも上昇させる。
心臓の奥が高鳴りと共に、その鼓動を全身に響きわたらせる。そして誰かの声を聞く。
「神子に触れたい」と。
その言葉は何度も繰り返し聞こえている。
カタン。
その音に、泰明は我に返った。蔀戸の方に目をやる。回廊に映る薄暗い人影。
「泰明さん…」
甘い声が聞こえた。そしてそっと音を立てずに戸が開く。ゆっくりと………開くのを泰明は息を殺して見ていた。
桜色の少女が顔を出した。甘美な香りと共に。
■■■
晴明の屋敷に上がり込んでも、天真は気が気で仕方がない。理由は勿論、あかねの消息についてである。
「天真殿と言ったか。ともかく落ち着かれよ。そんな焦っても結論などすぐには出てはこんぞ」
「あーっ!んな呑気なこと言ってられっか!!あんたの力がすげえってのはよく理解してっけどさ、そのあんたの屋敷であかねのヤツが行方不明になっちまったってことなんだぜ!?ってことは、それだけ強え何かがここらあたりに漂ってるってことじゃねーか!そうなったら、あいつの身だって無事かどうか…」
「天真殿、そのような冗談を言うものではありませんよ」
鷹通がたしなめようとするが、一度気力上昇してしまった天真を平静に戻すことは第三者には無理なことだ。
「冗談なんか言える場面じゃねー!おい、晴明さんよ、一体あかねはどうなってんだよ?あんたの屋敷の中だろう?主のあんたの責任管轄だろうが!」
容赦なく天真はまくりたてるが、晴明はその声も冷静に受け取って一筋も乱れぬ呼吸のままに振り向いた。
「お二人が申されるまでもなく、我の屋敷は我の力の中にありますゆえにな、そうわずらわしきことを起こさたりはいたしませぬよ。私の力にかけてでも」
そう穏やかに晴明は答えた。
普通であればすぐにもう一言くらい言い返せる気力の残っている天真であったが、何も言えなかったのは、晴明の身体から発している強い気に圧倒されたからである。
しかし、本当に神子はどこに消えたというのだろう。全く神気というものが伝わってこない。何故にふと消えてしまったのか、晴明にも全く分からない。
とは言えど、神子についての問題であるが故、泰明に黙っておくわけにも行かないだろう。取り敢えず部屋に向かうとするか。
「何にしても、神子殿の無事を確認しなくてはなりませぬな。八葉である弟子を持つ者として、黙っているわけにも行きますまい。天真殿、鷹通殿、我と共に泰明の部屋までお付き添い願えますかな?」
「や、泰明の部屋に!?」
ゆるやかに晴明が立ち上がると、同時に声を上げて天真が立ち上がった。
「泰明殿は落ち着かれておいでなのですか?」
鷹通が尋ねる。晴明は扇で口元を隠して笑みを浮かべて答えた。
「ああ、泰明の異変は理解した。まあ、やつにしてみれば変わったことであるが、普通の者からすれば別段変わったことでがありませんでしたわ」
「?」
鷹通と天真は、晴明の笑い声を聞きながら顔を見合わせた。お互いに、その言葉が何を表現しているかは全く理解できていないらしい。
■■■
恋しているという感情は、どんなものなんだろう。泰明は考えたが、やはり答えは出ない。
細い華奢な腕が泰明の身体を抱きしめる。甘い花の香りに包まれて目を閉じる。
「泰明さん……私、泰明さんのことが好き」
彼女の声が頬の近くでかすかに聞こえて、とたんに心音が律動を乱し始める。
「だから泰明さん……私を…………」
細い指先が泰明の頬を包む。大きな瞳の輝きの中には、艶やかな女の色が見えた。
重なる唇を、泰明は拒めなかった。それは、多分どこかで自分自身が彼女を受け止めたいと思っていたからだ。
■■■
渡殿をさっさと晴明は歩いてゆく。天真たちもあとに続く。相変わらず外に見えるのは荒れ放題の枯れ草や野草の群生。カエルやヘビまで出てきそうな気配だ。
「ったくこんなでけえ屋敷持ってる金持ちのくせに、よく庭の手入れもしねえでいられるよなー。客だって多く来るだろうに………うわっ!」
ぶつぶつ言いながら歩いている天真が、いきなり立ち止まった晴明の背中に顔をぶつけてよろめいた。
「ったく、いきなり立ち止まるんじゃねーよ!」
文句を言いそうになった天真を、鷹通がたしなめた。彼は晴明の異変に気付いていたのだ。
「天真殿、お静かに。晴明様が何かを感じ取られたようです。もしかすると神子殿の気配を察知したのでは…」
冷静に真剣に言う鷹通に、天真も声を閉じた。
晴明は立ち止まって、庭の一番奥まで視線を伸ばした。天真たちも同じ方向を見るが、背の高い雑草に覆われていてよく見えない。
「天真殿」
いきなり晴明に名前を呼ばれ、神経がぴんと張りつめられた。
「ここから直線上に真っ直ぐ行ったところに、石楠花の花が咲いておる。そこに向かってみなされ」
「あ?何だって?この先に花が咲いてるだぁ?そこにあかねがいるってのか?」
半信半疑で尋ねた天真だったが、晴明が黙って頷いたので即座に庭へと飛び出した。
ちくちくと雑草が足や腕にからみついて気持ちが悪い。この一件が終わったあかつきには、泰明に頼み込んで屋敷の庭整備でも徹底するように願おうと天真は思った。
しばらく晴明の言うとおりにまっすぐ歩いた。そして鮮やかな紅色の花が、草木の間から見え隠れした。
あった、と思った次の瞬間。天真はもう一つの何かを見つけて声を上げた。
「あかね!」
草藪の中に倒れているあかねが、そこにいた。
しかし傷らしいものも見つからず、苦しさはおろか安らかに眠っているような表情でそこに横たわっていた。
取り敢えずこのままにはしておけない。無事は確認した。とにかく屋敷の中に連れて行かなくては。天真はあかねを抱きかかえて、今やってきた道を再び戻って屋敷の方へと向かっていった。
「神子殿…!」
あかねを抱えた天真の姿を見つけたとき、鷹通はこの上ない安堵感を表情の中に浮き上がらせた。遠目で見ても無事が確認できる。ほっと一安心だと思った矢先、今度はまた晴明に異変が起きた。
「泰明……?」
「…え?どうかなさったのですか?晴明殿」
鷹通の声は聞こえていない。とたんに晴明が足早に渡殿を走り出した。
「晴明殿!?」
叫んだ声さえ振り向こうともせず、晴明は泰明の部屋に向かった。
この感覚は何だ?不可思議な気を感じる。悪意などなく、ことのほか純粋な気。しかし、どこかで感じたことのある気だ。何かに似ている。泰明の部屋から感じる。
一体何が起こっているのだ?泰明、おまえに何が近づいているのだ?
何度も問いかけたが返事が返らない。
そうこうしているうちに、泰明の部屋が目の前に見えてきた。
■■■
彼女の髪の毛先が顔を何度かくすぐる。少し身動きするとそれらは泰明の唇をからかうようにして、右往左往に舞い踊りながら目の前を惑わす。
「泰明さんが私のことを少しでも好きでいてくれるのなら………」
何度目かの口づけのあとに、ささやいた彼女の言葉が身体を酔わせる。
このまま、どうなっても構わない。
彼女の意志に任せたままで、自分もまた、自然のままに手を伸ばして、そのあと繰り広げられる世界がどんなものかも知らないが、この甘美な空間に二人で溶けてしまえたらどんなに心地よいだろう。
恋とは、そんな感情を言うのだろうか。
泰明は目を閉じて、彼女の指先が次の行動を探るのを待った。
「泰明!!」
とたんに音を立てて戸が開いた。眩しい太陽の光が、泰明の部屋全体に差し込んで明るく照らした。
思わず目を細める。そしてそこに晴明の姿を見つけた。
「お師匠………私は………」
何を言おうとしたのか、泰明にも分からない。
しかし晴明の目は彼の方を見ていなかった。泰明のそばにいる、神子の姿をじっと捕らえていた。
「そなたは……………」
晴明の声が、静かにとぎれた。
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