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巷に花の咲く如く
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| 007 |
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頬に指先の感触を感じた。
そっと、静かに泰明の頬を撫でている。
「神子………?」
ゆっくりと目を開けた。まだ夜は明けていないらしく、ぼんやりとろうそくの明かりが薄暗い部屋を照らしているのが分かった。
「何を寝ぼけておる。少しは正気を取り戻したか?」
床の上に寝かされている泰明を、上から見下ろしているのは晴明だった。もちろんさっきから感じていた指先の主も彼に違いない。
「私は一体何を……?」
右手で自分の手のひらを押さえて、ためいきをこぼすようにか細い声で泰明は言った。
「それはこちらが聞きたい。胸騒ぎがしておまえの部屋の前に来たが…開けてみたらひれ伏しているおまえがいた。何事だと久々に焦ったわ」
一度開いた瞼だったが、何となく重苦しい。すぐに目を閉じてしまった。
「お師匠……私は……どうすればいいのか分からない…」
「?何がだ」
横たわる泰明の呼吸の律動は整っており、無のままに倒れていた面影はなかった。どうやら平静を取り戻しているらしい。
「毎夜のように…ここに訪ねてくる姿を見ると、私はどうすればいいのか分からない…。近づいた時に漂う香りを感じると、目がくらんでしまう。自分を見失ってしまいそうになる……」
晴明はしばらく、泰明の姿を眺めていた。
珍しいこともあるものだ、と感じた。
どんな術を加えても彼に植え付けることの出来なかったものが、今の彼には芽生え始めている。感情が、表情として形になって現れてきている。
「誰がここに来るという?鬼か?怨霊か?この私の結界が張り巡らされている屋敷の中へ、そんなものが入り込めるというのか?」
少し笑い声を交えながら晴明が言う。泰明は目を開かずに、黙って首を横に振った。
「そんなものではない…。あの者なら、お師匠の結界でも通り抜けることも出来る。」
「……龍神の神子、か?」
泰明は声を出さずに、ただうなづいて答えた。
晴明は穏やかな目で、静かに語りかけた。
「この真夜中に、神子がここにやって来られるはずがないだろう?この結界を乗り越えようとも、さすれば私とて彼女の神気を感じるはずだが、そんな雰囲気は見られないぞ?しかも共を連れずにやってくるなどもってのほかだ。おまえもそろそろ、夢を見るようになったのではないか?ならば随分成長したものだと誉めるところだが」
「……確かに神子が、私の部屋に毎夜のごとく現れる。そして…私を………」
その先の言葉を続けようとして、泰明は声を止めた。
「泰明?」
晴明は尋ねたが何も答えない。仕方が無く、顔を覆っている片方の手のひらをそっと避けさせて顔色を見た。
「……泰明、おまえ………」
その時、晴明は確信した。泰明が変わりつつある原因が、神子の存在に関係していることを。
「はっはっはっ!おまえは、神子に恋しておるのだな?」
大きな笑い声を上げながら、晴明は泰明の額を軽く小突いた。その感触に、やっと泰明は目を開けた。
「……恋?」
言葉の意味が分からないのか、自分に実感がないから半信半疑なのか、泰明は半分体を起こしたがぼんやりとしている。
「男が女を愛おしいと思うことだ。それが恋というものだ。おまえは神子に恋しているということになる。だから神子の幻影が見えるのではないか?」
微笑ましく晴明は言うが、泰明は何度も首を横に振った。
「違う、あれは幻影ではない!この手に触れた指先の感触も覚えている。それに…………」
声に出しては言わなかったが、強引に重なった唇のぬくもりも忘れられないほどにしっかりと記憶の中にある。
そんな泰明に、晴明は黙って手を伸ばした。
そして、乱れて肩にまとわりつくしなやかな泰明の髪を、そっと指先で背中へと流れさせた。
「泰明、恋するという心は人間のもつ感情だ。もうおまえは…他の者に引け目を取るようなことは考えなくても良いのだぞ?」
静かに目を閉じると、晴明の声が体の中に響いて沈んで行くのが分かった。
幾重にも反響しながら、その言葉が泰明の体の奥深くへとゆっくり沈んでいった。
■■■
昨夜の一件で、泰明の異変については大体の検討がついた。しかし、まだどこか引っかかるところがあるのは否めない。
次の日の朝。今日も一日雨は降りそうにはない。そろそろ京の穢れも限界に近づいているのが晴明にも肌で感じられるようになってきた。
のんびりはしていられない。早々にも泰明を目覚めさせなくてはならない。
「露綺、昨夜はどうした?おまえには泰明の部屋を見張っているよう命じたはずだが」
石楠花の女は黙って、申し訳なさそうに美しい顔を伏せた。
「まあ良い。今夜も頼むぞ。しっかり見張っておれ。何か異変があったときは、私を呼ぶことを忘れずにな」
女はこくりとうなづいて笑顔を見せた。
■■■
結局ここまでやってきてしまった。
もちろん一人で来たわけじゃなく、後ろからあかねの背中を押す役目の男たちも付いてきている。
「ほれ!さっさと入れよ。ここまで来ちまったんだから引き下がるわけにもいかねえだろ!?」
晴明の屋敷前で立ち止まったまま動かないあかねを、押し出すように天真が声を掛ける。隣にいる鷹通の顔を伺うと、静かに笑みを浮かべてうなづいている。
そんなことを言われなくても十分分かっているつもりだ。ここにやってきた意味は他でもない、泰明に会うためのそれ以外にないもない。
逢って、それからどうしようか。取り敢えず、話をしてみよう。最近はどんな調子なのか、とか、何をやっていたのか、とか、そんな他愛のない内容で構わない。
まさか…面と向かっては言えないだろう。自分をどう思っているのか、などとは。
「俺達は外にいるからな。おまえ一人で泰明と話してこい。俺達がぞろぞろいたら気が散るかもしんねーし。」
「そうですね、一対一でお話をされた方が良いかもしれません。神子殿、気になることがおありでしたら、何でも泰明殿にお尋ねした方がよろしいですよ」
「……わ、わかってます……」
いよいよ行くしかなくなったようだ。覚悟を決めて、あかねは屋敷の門をくぐった。
足を踏み入れると、すぐそばに美しい女性があかねを見て微笑んでいた。おそらく晴明の使いの式であろう。彼女のあとを着いて行けば、屋敷の中へと案内してくれるはずだ。
言葉は交わさなかったが、長い黒髪の女性のあとをあかねは着いていった。
それからどれくらい歩いただろう。辺りはうっすらともやのような白い空気が漂い始めた。
晴明の屋敷はさほど広いわけではない。庭を歩いていたとしても、こんなに長く歩く必要はないはずだ。それなのにいっこうに先に見えてくる建物はなかった。
「あ、あの、どこに行くんですか?」
思い切ってあかねは女に声をかけた。とたんに、彼女の足が立ち止まった。
ゆっくりとそのままの姿勢で振り返る。つややかな黒髪が輝き、重ねの衣の裾をたくしあげて微笑む。
気づかなかったが、彼女の手には一輪の花が添えられていた。
「あの…あなたは………」
鮮やかな色の花のように女は微笑む。そしてそっとその指先であかねの頬を撫で上げた。
とたんに意識が揺らいで、足下がぐらついた。どこかの神経が麻痺してゆくような、そんな不思議な雰囲気が全身を駆けめぐったが、何故だか嫌な気分には成らない。
これは一体…?今何が起こっているんだろう?彼女は一体何者?ここは……どこ?
目を閉じた瞬間と同時に、あかねは意識を失った。
■■■
随分時間がかかっているようだが、どうしたのだろう?
先ほど一条戻り橋で神子の姿を確認したので、入り口に式を向かわせたのだが屋敷に気配が近づいてこない。
「やれやれ…弟子があんな状態にいるというのに式も使えんでは困ったものだ。」
晴明は重い腰を上げて、自ら屋敷の門前まで出向くことにした。
「あれ?あんた泰明の師匠の…」
門の外では見覚えのある青年が二人立っていた。赤茶色の髪の活動的な少年と、知的な雰囲気を思わせる和やかな風貌の青年。
「お久しぶりでございます、晴明殿」
鷹通は晴明の姿を見ると、静かに笑みを浮かべて頭を下げた。
「地の青龍と…天の白虎のお二人ですな。いかがなされた?このような場所で何をされておりますのだ?神子はいかがなされました?」
「あ?いかがなされたって…さっき屋敷の中に入ってったまんまだぜ?泰明のところにでも行ってんじゃねえのか?」
泰明の部屋に神子がいる?そんなわけはない。
神子のような神気の塊が屋敷の中に入ってくれば晴明の体が何かを必ず察知するはずだ。そんな傾向は全くない。
しかし、八葉の二人の言葉に嘘や偽りは感じない。現に一条戻り橋で神子の気を感じた。
ならば彼女は一体どこにいる?
「おい、師匠さんよ?あいつに何があったんだ!?」
天真が晴明の様子を伺う。
「……ともかく、お二人とも中にお入り下され。それから少し考えてみたほうがよろしいだろう」
うっそうと手の掛かっていない荒れ放題の庭を越えて、二人は晴明に導かれながら屋敷へと向かった。
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