巷に花の咲く如く

 003
「泰明、おまえ今日の予定は確か、龍神の神子から物忌みの付き添いを頼まれていたのではなかったか?」
太陽が少しずつ頭上へと傾きかけてきた頃、屋敷の回廊でぼんやりと庭を眺めている泰明の姿を見つけた晴明が、ふと立ち止まって声をかけた。
「気分が優れませんので、早朝に本日の断りの旨を伝えて参りました」
「ほぉ…?気分が優れないとな……。おまえがそんなことを言うのは初めてのことだな。いつもなら、一度決めたことはどんなことがあっても、予定通りに進めるおまえが………これは珍しいことだ、はは」
そう言いながら、晴明は軽やかに背後で笑う。

師匠である晴明の陰陽道の威力は絶大なるもので、それは生みの親であるという意味以上に尊敬に値すると泰明は思っているのだが、どうもやや楽天的なところが強すぎると思う。人間とは、そういうものなのだろうか。

「それにしても…夕べは何かあったのか?おまえの目が、両方とも赤いぞ。寝不足か?」
思わず、ぎくっとする。…………背を向けているのに、何故そんなことが分かったのだろう?
「まあ、深いことは聞かないでおくか」

一度も目を合わさずに、晴明はその場を後にした。
寝不足………腫れた赤い目…天下の大陰陽師・安倍晴明。師匠とは言えど、侮れない。



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この世界にやってくるまで、抹茶などは殆ど飲む機会はなかった。
普段日常的に口にしていた飲み物と言えば、コーラや缶コーヒーなどの清涼飲料水である。とは言ってもこれまた慣れというもので、飲みつけるとほろ苦さが結構美味いものだ。
泡立つ入れ立ての茶をすすりながら、物忌みの一日。あかねは天真と差し向かいである。

「急に呼び出しがかかるとは思わなかったぜ。今日は泰明が担当だって聞いてたのによ。いきなりキャンセルするたぁ、結構なタマだな、あいつ」
「そんなこと言わないでよー。それよりびっくりだよ、泰明さんが仕事を断るなんてこと、一度もなかったのに」
「まぁ、びっくりだよな。あのカタブツが、んなことするとはなー」
座敷にあぐらをかいて…こんな格好で話を出来るのはあかねや詩紋と一緒の時くらいだ。さすがに藤姫がいたのでは、こんなにリラックスした格好はできない。天真は泰明の話をしながら、長く伸びた手足をぎくしゃくと動かした。
「どうしたんだろ?具合でも悪いのかな…心配だね…」
あかねは物忌みの自分の様子よりも、どうやら泰明のことが心配らしい。心配…というか気になるんだろう。いつもの泰明らしくない行動が、多分引っかかるんだろうと思う。それは天真も同じだ。

「ねえ天真くん…泰明さんのお屋敷に行ってみたい…………って………」

言いかけて、ちらっと天真の顔を覗く。じろっと横目でにらみ返される。
「ダメだよね★また藤姫に心配かけさせちゃうもんね★」
気まずそうにあかねは顔を伏せた。
でも、気になる。どーしても気になる。泰明に一体何があったのか、どうしても気になって仕方がない。

「………明日だったら、着いてってやってもいいぜ」

ぼそっと天真が小さな声で言ったが、あかねは聞き逃さずにすぐに顔を上げた。
「ホント?!」
「俺も気になる」
「じゃ、約束ね、明日の予定は泰明さんのお宅訪問に決定!!」
所詮この京という世界で、現代の高校生の好奇心を止めることは出来ない。
たとえ偉大な陰陽の力を使ったとしても。


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静かな夜だった。風の音が少しも聞こえない。だからと言って暑苦しいわけでもない。なのに、呼吸に紛れた心音は早くなる。
月に薄曇りがかかる時刻…………今夜もまた。
また………またやって来る………………………と思っていたのだが。
泰明はずっと、障子を開けて庭先を眺めていた。朝日が射し込んでくるまで。
しかし、思い切り肩すかしを食らった。彼女は……現れなかった。
そんなこんなで、二日続けての寝不足である。
全く、どうにもならない。こんなことが続いたとしたら、八葉としての仕事が全くダメになる。
安倍晴明の弟子である私が、毎夜の迷い事に流されて意識の平常を保てなくなるとは。ここで鬼が牙を立てて来たら、どうなるのかと思うと頭まで痛くなってくる。

「寝不足は身体に一番毒なのだぞ、泰明?」
通りがかりに、また晴明が一言残して行った。
毎日毎日投げかけられる晴明の言葉が、ずさっと音を立てて身に染みこんで来るのは何故だろう。
こんな調子では神子のところへ出掛ける気にもならない。しかし出掛けないわけにもいかない。
どうしようか。ため息がでる。


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「うーん…どうやらここらしいんだけどよー……」
陰陽師・安倍晴明邸。堀川通りのそばに立つ邸宅は、広々とはしているが、門をくぐると一面が雑草で覆われている。
「おい、マジでここ、人が住んでんのか?」
同行してきた天真が、思わず呆気にとられて口を開いた。屋敷自体は小綺麗ではあるが…それにしてもあまりに無法地帯のように荒れた庭に包まれている。

「夜になったら、なんだか怖そうだよね……こんな所に泰明さん、住んでるのかぁ…」
一緒に着いてきた詩紋までもつぶやく。確かに真っ暗だったとしたら、幽霊屋敷と囁かれても否定できない。
「と、取り敢えず入ってみよ。きっと誰かいるよ」
ここまで来たのだから、泰明に会わないまま帰るわけにはいかないだろう。あかねは先頭を切って、屋敷の中へと足を踏み入れた。

しかし、この手入れが全くされていない雑草をかき分けて、入り口へ向かうのは結構大変である。何故ならあかねの装いは、膝が完全に露わになっているからであって、つまり藪蚊の格好の標的なのである。
「あ〜も〜……袴とかはいてくれば良かったかなあ…」
あかねはぶつぶつ言いながら、両手で草をかき分けた。

だが、妙だった。こんなに荒れ放題の庭を歩いているのに、藪蚊が全くいない。少し大きめの池があり、そこには蚊の発祥地があってもおかしくはないのに、入り口にたどり着くまでの間、あかねは全く藪蚊におそわれることはなかった。両腕をまくり上げている天真も同様だ。詩紋に関しては…全身を衣で覆われているので例外だが。

「お待ち申し上げておりましたぞ、龍神の神子殿」
「ひゃっ!」

入り口に立ったとたん、目の前に一人の男が立っていて、あかねたちの来訪を受け入れた。
白いつややかな髭を鼻下と顎に生やし、澄んだ目は見えないものさえも見逃さないように思う。
もしかしてこの男が………

「急にあなた方がこちらにやってくる姿を拝見しましたので、荒れ庭の藪蚊達もしばらく姿を変えていただくことに致しましたよ。さされることはなかったでしょう?」
藪蚊を他の姿に変えてしまう。そんなとてつもない力を操る男。安倍晴明。そして、泰明自身の創造主。

「まあ、お上がり下され。泰明の様子を伺いに参ったのでありましょう?」
扇をちらつかせて、晴明は奥から女を一人呼び寄せたかと思うと、彼女にあかねたちのもてなしの用意と、自分用の酒の用意を指示した。
「おい、あかね……あのジジイが、泰明を創ったジジイなんだよな…?」
小声で天真が耳打ちする。間違いない、とあかねも黙ってうなずく。

彼の手から、彼の力が、泰明を生み出した。自分たちの思いも寄らない方法で、泰明がこの世に誕生した。何度もその現実を繰り返すが、それらを素直に受け入れるほど単純なことじゃない。
理解するには、あまりに…ファンタジックな展開である。

「今日は、泰明さんはどうしているんですか?土御門の方へもいらっしゃっていなかったみたいですし、昨日のこともありますので…」
「泰明を気遣って、ここまで訪ねて来て下さったわけですかな?神子殿は」
天下の大陰陽師と噂にも高い安倍晴明は、あかねの顔をにこにこと眺める。
一見普通の初老の男。でも、全身から放出されている強い力を感じ取ることが出来る。
「あ、はあ……何か、昨日も物忌みの付き添い、断られちゃったんで気になって…」
「ほほほ、ありがたいことありがたいこと。全く、泰明の奴…このような女の子に不必要に気を使わせるとは、なっとらんな」

………。妙な男だ。本当にこの男が、京の魔界でさえ恐れられるような力を持つのだろうか。
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Megumi,Ka

suga