君薫る風を待つ

 003
「今回の国交申請について、我欲の意図はないことを伝えねばなりませんね」
「そうだ。それには真摯な対応が必要であるし、向こうの意志に沿った答えをして行かねばならん」
そのためには、友雅の目が不可欠だった。
沈黙を保ちつつ、相手の言葉の隅々まで聞き取り、わずかな裏側の表情さえも見逃さない鋭さ。
透視や読唇という法力に似た能力者もいるが、そういう者を同席させれば逆に向こうに嫌悪感を与えかねない。
「本来ならば、既に護るべき者となったそなたには、渡航に連れ出すのはあり得ないことなのだがな…すまないな」
「いえ、私もまた側近の端くれでございます故。陛下のお力になれることは有り難いことです」
首に掛かる、緑の瑪瑙のペンダント。
その裏側に王国の紋章と共に刻まれた文字は、"attendant:Tomomasa Tachibana"。
彼が今現在も、側近であることを意味している。

「そう言ってくれるのは有り難いのだがな…実際は、穏やかでもなかろう」
湖を眺めていた王が、振り返って友雅を見た。
「あかね殿と、一時たりとも離れ難いだろう。隠しても無駄だ。私とて、それくらいは分かる」
二人が上級巫女と護るべき者、その役目以上の関係を築いていることは承知。
王宮を出る際に、どことなく寂しそうに見送っていた彼女と、その姿に背を向けながらも複雑そうにしていた友雅。
「まずは出来るだけ早く、穏便に事を済ませることだな」
「はい、そうでございますね」
庭をさえずる小鳥のように、翼があれば飛んで帰ることも可能なのだが。
……なんて、そんな詩的な発想をしてしまうほど、恋しさは拭えない。
「まあ、そなたも少しの間は開き直って、あかね殿への土産物でも探して来たらどうだ。珍しいものがあるだろう、喜ぶぞ」
滅多に外部に漏れない国の産物。
密輸品では出回っているだろうが、ここなら堂々と正規の品を買うことが出来る。
うさんくさいルートで取引されるものより、ずっと良いものもあるに違いない。


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「あかね様?まあ…どうなさいましたの?」
朝早く起こしに来てくれたのは、すっかりメイドの仕事も板に着いた藤姫だった。
目覚めに身体を清めるための聖水と、ラベンダーのオイルと新しいタオルを持って部屋を訪れると、あかねはぼーっとしてベッドの中にいた。
「何か…夕べはよく眠れなかったんだ」
「まあ、昨夜は早めに消灯されたのに、どうしたのでしょう?」
友雅がいないから、あかねが眠るまで藤姫が付き添っていた。
ベッドに入ったのを確認して、キャンドルの灯りを消したのは午後10時くらい。
今が午前7時だから、十分に睡眠時間はあったはずなのだが。
「お体、お疲れではございません?」
「うん…疲れはないんだけどね」
「無理はなさらないで下さいませね。もし、今夜も寝付けないようでしたら、ミルクを処方致しますわ」
詩紋から教えられた民間療法で、眠れない時はミルクを温めると良いと聞いた。
そこにオレンジのシロップを数滴たらすと、更に効果があるとか。
「では、今日も一日お努め頑張ってくださいませ」
藤姫から手渡されたタオルで、顔を静かに拭ってみる。
優しいラベンダーの香りが、肌の奥にまで染み込んで行く気がした。


いつものように、いつものことが進み、時間は午後となる。
今日も良い天気で青空が広がり、テラスでランチを摂るには格好の気候だ。
「お、久々のお一人様ランチか?」
トレイにどっさり山盛りの料理を乗せて、やって来たのは天真と頼久だった。
とは言っても頼久の方は、適度の量しか選んでいない。
「おまえ、これっぽっちしか食べねえの?そんなもんで足りるのかよ」
あかねの昼食を見て、天真はびっくりしてそう言った。
「天真くんと比べないでよー!私はこれくらいで良いの!」
「しかし、普段よりも少々量が控えめではありませんか?」
隣から、今度は頼久が口を挟んだ。
彼女のトレイの上には、グリーンサラダにハーブティー、そしてフルーツを刻んだヨーグルトだけだ。
いくら女性で肉体労働じゃなくとも、上級巫女の一日は心身を使うものだから体力だって必要だろう。
もう少しくらい、形あるものを食べても良いのではないだろうか。

「でも、これでお腹いっぱいなんですよねえ」
不思議と全然、空腹感が無いのだ。
朝は軽いリゾットとサラダで、昼はこんな調子。
夜は割としっかりしたものを用意してはくれるが、食べるものと言ったら鳥ささみのボイルとパンを数切れくらいか。
「おまえ、まさか病気じゃないだろな」
「ううん別に?毎日泰明さんや永泉さんに診てもらってるけど、異常ないって言われてるし」
「それならば良いのですが…」
あかねは普段から、こんな小食なのだろうか。
いつもは友雅が一緒にいるから、頼久たちはあまり同席することはなかった。
彼女と食事をするのは、何かしら晩餐会的な宴がある時か、或いは以前の旅の時くらいだ。

あんとき…か。
でも、あんときだって、こんな量で賄えてたか、コイツ…。
別に健康に問題もなくて空腹もないなら、それで構わないのだけれども。



その日の夜のこと。
昨夜に引き続き、藤姫があかねと一緒に部屋で雑談していると、ドアをノックする音が聞こえた。
こんな夜遅くに誰が来たのだろうか、とまず藤姫が入口に向かった。
「まあ!殿下…」
えっ?
びっくりして寝室から飛び出して来たあかねは、確かにドアの前に彼女が立っている姿を目にした。
「ごめんなさい、こんな遅くにお邪魔して。ちょっと渡したいものがあったのよ」
「わ、渡したいものですか?明日のことで…?」
「ううん、そうじゃないの。寝付きが悪いとか昼間聞いたものだから、特効薬を持って来たのよ」
「特効薬ですか?それならさっき、ホットミルクを召し上がりましたが」
詩紋のレシピに習って、厨房でオレンジシロップ入りのホットミルクを作った。
ほんのり甘くて香しい匂いは、身体を中から温めてくれて、今も良い気分になっているのだけれど。
「それも良いけど、これも効き目あるんじゃないかと思ったの」
彼女が差し出したものは、見慣れない小瓶だった。
薬品を入れる瓶のように色が深い緑で、そう…友雅のペンダントに使われている瑪瑙の色にも似ている。
「これはね、よく眠れる香料なの。これをちょっとだけ枕にふりかけると、よく眠れるのよ」
「…そういうのがあるんですか?」
「そ。試しにやってごらんなさい。悪いことにはならないと思うから」
その小瓶をあかねに渡し、すぐに彼女は部屋を去って行った。

「殿下がそう申されたのですし…きっと良い眠りに付けると思いますわ」
「うん、やってみよっか。アロマテラピーみたいなものなのかな…」
半信半疑だけれど、先輩の彼女が言うことは間違いないはず。
ミルクのおかげで暖まった身体で、その小瓶を持ったままあかねは再び寝室へと向かった。



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Megumi,Ka

suga