常夏ロマンス

 002
日付が変わる頃になって、四条の橘家に主が戻って来た。
「おかえりなさいませ。遅くまでお勤めご苦労様でした」
深夜に出迎えてくれるのは、いつもの通り侍女頭の椿。
こんな風に労いの言葉を掛けてくれるのは、愛しい姫君であって欲しいのに…と、もう何度考えたことだろう。
「殿のお考えは察しておりますが、生憎今夜はいらっしゃっておりませんの」
「分かってるよ。土御門の星の姫が、そう簡単に彼女を許してくれるとは思っていないよ」
だが、ごく稀にあかねが、友雅を出迎えてくれる夜がある。
夜遅くに戻ってくると、"おかえりなさい"と鈴のような清らかな声が出迎える。
太陽のように朗らかで、それでいて月のように穏やかに優しい笑顔で、自分の名を呼びながら駆け寄ってくる、最愛の姫君、
抱きしめ合ったまま二人で迎える朝は、目覚めた瞬間から満たされた一日になりそうな予感がして。
「そんな毎日を送りたいものだよねえ」
まったく情けないが、はあ…と、考えるたびため息がこぼれる。

「殿、残念ながらお会いすることは出来ませんが、奥方様よりお届けものがございますよ」
「あかねから?」
椿はそう言うと、一旦厨房に下がって小さな壺を手に戻って来た。
しっかりとした光沢のある壺だが、手のひらに包み込まれるほど小さい。
「そろそろ削り氷の季節でございましょう。奥方様が詩紋様とご一緒に、特製の蜜を作られたそうなのです」
蓋を開けてみると、ふわっと鼻をくすぐる甘酸っぱい春の匂い。
これは、野いちご…だろうか。
以前彼女を市に連れ出した時、買って食べては喜んでいたのを思い出す。
「氷が届いたら、是非これを掛けて召し上がってください、との事です。土御門の皆様も、それは美味しいと喜ばれてたとのことで」
彼女や詩紋が作り出すものは、京の常識では思い付かないことばかりだ。
考えれば出来ないことではなかったのに、まず発想が浮かばなかった。それを、彼らは簡単に切り開く。
「美味しいものが出来上がったので、殿にも味わって頂きたかったのでしょうね」
こんな小さい壺を届けるために、わざわざ来てくれたのか。
自分にこの味を、教えたいということだけで。

「氷はいつ頃、届くだろうね?」
「そうですわねえ…おそらく早ければ明日か明後日くらいには」
地位の高い者から、順々に氷は届けられる。
大臣クラスが今日だとしたら、それくらいが妥当なところだろう。
「では、姫君を今から奪いに行ってくるとしよう」
「は!?と、殿っ…!?」
脱ごうとした衣を再び手に取り、友雅は再び踵を返して入口へと向かう。
もうすっかり日付が変わっているのに、まさかこれからあかねを連れて来るなんてこと…。
いや、それくらい強引にでもやって見せるか、彼ならば。
「床の用意を直しておいてくれるかい。それと、朝餉の用意も一人分追加で」
「…承知致しました。それと、土御門家へのお断りの文も、ですわね?」
友雅は振り返り、何も言わず笑顔で応える。
たまには手厳しい彼女も、いざというときは心強い味方になるから有り難い。



こうして夜更けに、忍んで来ることには慣れている。
頼久がいようがいまいが、そこらは何とか上手く切り抜ける方法があるものだ。
しかし、出来れば協力者がいてくれた方がやりやすいのも本音。
「……あ、あらまあ、少将様!」
わざと几帳をかすかに揺らし、寝静まっている女房を気付かせる。
いつもあかねの世話をしている、物わかりの良い彼女を狙って、だ。
「もしや、あかね様のお部屋にお忍びに?」
「忍びというよりも、浚いに来たのだがね」
今宵は月が美しい。明るくて、夜が深いことさえ忘れてしまうほど。
その月明かりを背負い、艶やかな笑みで彼は答える。
「手を貸してくれるかい?姫を奪うには、星の瞬きから隠れねばならないのでね」
くすっ、と彼女は笑った。
彼の言う意味を、すぐに察したからだ。
「お待ち下さいませ。裏口を確保いたしますので」
例え手強い敵がいても、全部が敵とは限らない。
たった一人の味方であっても、その存在は貴重である。
彼女に感謝しつつ、この機会を無駄にするわけにはいかないな、と彼はあかねの部屋へと向かった。


御簾の掛かる部屋の向こうに、薄手の布で四方を覆われた御帳台。
姿さえよく見えない閉ざされたそこで、彼女は静かに眠りについている。
そっと部屋に上がり、中に足を踏み入れる。
寝息をたてる安らかな寝顔が、友雅の目の前で横たわっていた。

しばし、何もせずその姿を眺める。
穢れない無垢な瞳は、睫毛で閉ざされて。
夢の世界に旅立っている彼女は、現実の世界など気付くこともない。
…私は君の夢の中にも、存在しているのかな。
どちらの世界でも、君の一番近いところにいるのは、私でありたいのだが…ね。
「目を覚ましておくれ、私の月の姫」
耳元で、彼女を呼ぶ。
ここに自分がいることを、気付かせたくて。
抱きしめたい衝動を抑えつつ、何度も愛しい人の名を呼ぶ。
「あかね…?早くその目を開けて、私を見てくれないか?」
「……っん……?あ?」
「あまりに待たせると、有無を言わさず奪うよ」
つうっと指先が唇をなぞる。
弾くように弄られて、何度かそうしているうちに……ちゅっ、と柔らかな感触。
はっとして目が一気に開くと、そこにいた彼の姿に声を上げそうになったが、その指先で止められた。

「ごめんね、会いたくてたまらなくて、来てしまったよ」
「び、びっくりしました…よ。まさか友雅さんがいるなんて思わなくてっ…」
「そんなに大きな目をして驚かなくても。私が忍んで来るなんて、別に珍しくないじゃないか」
徐に、ぎゅっと腕の中に抱きしめられた。
そうして、さっき一瞬だけ触れた唇の感触が、今度は長く熱く重なって行く。

重なったら、離れることが出来ない。
互いにどちらも、求めることを止められなくなる。
愛おしさがあまりにも、熱すぎて。



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Megumi,Ka

suga