夢の終わりに

 004
せっかくこんな風に出歩いてるのだから、寒いところだけは避けようということで、北以外の場所を歩いてみようという意見で一致した。

訪れた春の緑萌ゆる丘には、いくつもの小さな蝶が飛んでいる。
「ああ、ここは何もかもが心地良いね。暖かい空気も、生き生きした花や緑も…心を和ませてくれるみたいだ。」
「"桃源郷"って、こういうところなんでしょうかね?」
そう言ったあかねの言葉に、友雅はふと笑みをこぼした。

桃源郷…か。昔はそんな夢物語を、密かに憧れたりしていたな。
誰にも構われることもなく、ただ自分だけの世界を持って、自由に漂うように生きられる場所があれば良いと。
永遠に続く美しい景色に身を投じて、俗世など捨てて生きられたら幸せだろうと思っていた。
「そうだね。桃源郷というのは、こんな世界のことを言うのかもしれないね。」
甘い香りを放つ果樹の花が咲き乱れ、生きとし生けるものすべてが穏やかで美しいと感じる。
何よりもここには…彼が欲していたものが存在する。

「手が届くと思わなかったのに、こうして私の傍らには桃源郷の月姫がいるのだから、本当にここは良いところだよ。」
花咲く野原に腰を下ろして、もたれかかる彼女の肩を抱いて。
言葉の代わりに、時折唇同士の触れ合いで会話をしながら、思い掛けなく巡ってきた幸せを確かめ合っていた。


「もし。そなた方は…もしや南斗様と北斗様に招かれたご夫婦かの?」
ゆったりとした足音が近付いてきて、後ろを振り向くと、そこには白い髭を生やした、いかにも仙人という風貌の老人が立っていた。
「ええ、いかにも。さきほどお二人の御前で契りを結び合ったばかりの、若輩者同士ですよ。」
「おお…やはりそうか。これはめでたい。わしもそなた方を祝福しようぞ。」
彼はそう言って二人の肩を叩き、しわの寄った顔をほころばせた。
「南斗様と北斗様に祝福を賜るとは、未来永劫の幸せを約束されたようなものじゃ。ほんに幸せ者のお二人よのう。」
「あ、ありがとうございます…」
照れた顔を袖で少し隠しながら、あかねは老人に感謝の意を述べた。

老人はせめてもの祝いの気持ちだと、手持ちの茶道具をその場で広げ、二人に花茶を振る舞ってくれた。
白い陶磁器の茶碗の中で、小さな花が開いていく。それと同時にふんわりと、紅色の花が湯の中で開いた。
「どうじゃ。天界は常にこうしてあちこちに花が咲き乱れ、穏やかな四季が方角によって護られておる。良いところじゃろう?」
「はい。暖かくて…春の景色があれば、秋の紅葉とか真っ白な雪原とかもあったりして…いろいろな景色が眺められて、素敵ですよね。」
包みから出して契り分けてくれた菓子は、しっとりしてふわりと柔らかく、まるでシフォンケーキのような口当たりで、ついついあかねは調子に乗っておかわりまで貰ってしまった。
甘い菓子と甘い花茶。
周りに自生する白と桃色の小花の香りに包まれて、柔らかで温暖な気候。
……隣を見れば、そばにいてくれる彼。
なんて……幸せな世界なんだろう。

そうあかねが実感していると、老人が茶入れの手を止めて二人を見た。
「それなら二人とも、ここで暮らすつもりはないかの?」
急にそんなことを言われるとは思わず、あかねは驚いて声を失った。
だが、一拍置いてから友雅が、冷静に老人へと返事を返した。
「私たちは所詮、下界の人間だよ。あなた方のような天の恩恵を受けた天人ではない。ここに住むことは出来ないよ。残念だけど、ね。」
天と地は相容ることはない。元から、生きる世界が違うのだ。
もちろん、こんな世界で一生暮らして行けたら、どんなに幸せだろうかと思ったりもする。
だが、所詮はやはり"桃源郷"だ。夢の世界にだけ存在する世界だ。

「いやいや、そなた…何を言っとる。南斗様方が下界人にあれほどの施しをされることなど、今まで一度もないのじゃよ。しかも、わざわざこうして再び招いて、そなた方の結婚を祝うくらいなのじゃから、望めばすぐに神仙として受け入れてくれるはずじゃ。」
………。友雅は、あかねと顔を見合わせた。
まさか、そんなことがあるわけが…ないだろう。
普通の人間が、そんな簡単に天人になることを許されるはずがない…終住処としてなら別だが。

「ここは幸せに満ち溢れた世界じゃ。そなた方の御子も、こんな所ならば健やかに暮らして行けるぞ?」
「そ、そんな話はまだ先のことですよっ!!」
赤くなって弁解するあかねを、ひやかすように老人は笑いながら交わしている。
微笑ましい光景…。
しかし友雅には、思い掛けない迷いが沸き上がっていた。

ここで生きることを選べば…何不自由なく生きて行ける。
誰の目も気にせず、今こうして結ばれた彼女と共に、永久にこの楽園で暮らして行くことが出来る。
老人が言うように、北斗星君や南斗星君に祝福されたなら、きっとこの天界では絶えない幸せに囲まれて過ごすことが出来るのだろう。

後ろ髪を引かれるものが、自分にはあるか?
元の世界に戻ろうとする大切な何かが…今の自分にはあるだろうか。
あるとしたら……彼女だろう。
だが、彼女はここにいる。
ここで、自分のそばで、妻として存在している。
……これ以上に求めるものが、他にあるだろうかと考えたら……思い当たらない。

いっそのこと、こんな常世の国に根を生やしてもいいんじゃないのか------------。
それを自分は願っていたのではないか…?


「でも、本当にここで暮らせたとしたら…幸せですよね。人も植物も動物も、みんな生き生きしてて…」
春風にはためくあかねの領巾に気付いて、友雅は我に返った。
老人に茶の入れ方を教えてもらったあかねは、そんなことを言いながら、新しい茶を友雅に差し出した。
「そうじゃろう、そうじゃろう。迷うことなどありゃせんよ。二人で幸せに暮らせるところが一番じゃ。」
「確かに、これなら夢から醒めなくてもいいかな−って、そんな気分になっちゃいますよね。」
笑いながら話す彼女の表情は、いつものように明るくて優しい。
彼女が永遠にこんな笑顔で過ごせる場所なら、それで十分だと思う……けれど。

もし、ここにとどまったら------自分たちはどうなる?
目覚めない本体の身体は、やがて朽ち果てて消えていくのではなかったか。
心地良い夢に抱かれて、俗世を捨てて天界で生きることは至福かもしれない。
だが……。
「そなたはどうじゃ。奥方は結構、その気のようじゃぞ?そなたも二人で、恙無い人生を送りたくはないかの?」

違う。ここを定住地として選ぶのは、許されない。
何故か…とっくに分かっていたじゃないか。
「いや、やはり私たちには、こんな何不自由ない世界に住むのは早すぎるよ。」
さほど先が長くない自分は良い。だが、彼女は…彼女にはまだ先に未来が続く。
このまま夢の中に閉じ込めて、瑞々しいその命が、潤い続ける途中で息絶えることになると考えたら-------。
目を覚まさずに、朽ち果てて行く彼女の姿なんて…想像するのも嫌だ。

「まだ…やり残したことがあるんだ。少なくとも、彼女には……」
「友雅さん?どうしたんですか?」
彼が徐に手を強く握ったので、その力にあかねは顔を覗き込んだ。


「そろそろ、南斗宮に戻ろうか。あまりにここは気持ちが良くて、ついうたた寝をしてしまいそうだからね。」
友雅は茶器を片付けて立ち上がると、あかねの手をゆっくりと引き上げた。
「昼寝をするには、格好の場所じゃぞ?良い夢が見られるからのう」
老人の言葉を聞いて、友雅は静かに目を伏せて笑った。
「もう十分、良い夢は見られたからね。これ以上夢を見たら、それこそ目覚められなくなりそうだ。」

見上げた空には白い雲が浮かび、眩しい太陽の光が輪郭を輝かせている。
理想的な世界がここにはあり、誰もがこの土地で暮らしたいと思うだろう。
自分も以前は、そんな人間だった。
抱えるものなど何もなく、欲するものさえもない、空虚な人生をたゆたっていた頃であったなら。

だが、今はもう違う。抱えたいものも、欲するものも存在する。
その存在が、人生を変えたことを……彼はようやく思い出した。



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Megumi,Ka

suga