月と甘い涙

 003
「神子様、何がよろしいと思われますか?」
わずかに身を動かすだけで、シャラン、とした軽い金属音が近くで聞こえる。
藤姫の冠の飾りが揺れる音だ。
あかねは、藤姫が持ち寄ったものたちを目の前にして、さっきからずっと悩んでいる。
その中にある一枚の布を、藤姫は手に取った。

「こちらの布は、衣かつぎに用いられるものです。雨や夜露などをしのぐために使われますわ。
友雅殿のように外出をなさる方には、よろしいかもしれませんわね」
あかねは、まだ黙っている。続いて藤姫が扇に手を伸ばす。
「こちらは扇でございます。宴や日常にも手放せぬものですわ。絵師が手を加えたものや香木を使ったものや、布を用いたものなど…たくさんの種類がございます」
金色のふさがついた扇を、一度開いてあかねに見せてから元に戻す。
「あとは…あの方は琵琶を奏でられる楽を好む方ですから、そのような楽器などもよろしいかと思いますけれど…楽器はご本人の手に馴染んだ物しか受けつけない方も多くおられますから、少々選ぶのには難しいかもしれませんわね」
藤姫はいくつもの品の説明を、こまやかにあかねに聞かせてくれているが、それらを見るたびに迷いが増幅してしまっている。
どれもどれもが素晴らしいものばかりで、収拾がつかなくなっていた。

一体どんなものを贈ったら、友雅に喜んで貰えるだろうか。
出来れば高価なものではなくて、ずっとそばに置いて貰えるような、そんなものがいい。


だって………友雅の誕生日の日に、ここに自分がいるのかどうか、そんな確証はないのだから。

早く見つけなくてはならない。鬼との決戦が近づく前に。
友雅の誕生日の6月11日。
暦を見ればその時はすでに、決着はついているはずだった。
そして天真と詩紋と共に、自分たちの世界に戻ってしまっているかもしれない。
どんなことが起こるか、分からない。
この世界から去ったあとに、今、ここにいる自分たちの存在が消えてしまうかもしれない。
何もなかったかのように、忘れられてしまうかもしれない。

だから……何かを残しておきたい。
ずっと彼のそばで、自分の存在がここにあったことを記憶する何かを。

いつからだったか、もう思い出せない。
こんな気持ちを持ってしまったことを、ずっと目を背けて過ごしていた。
いつか必ず、離れてしまう運命だと。
決して受け入れては貰えない恋心だと知っているから。
だけど、それを自覚するたびに……恋心は大きくなっていく。
隠せないほどに。

「ねえ、藤姫…この衣や扇って…色とか注文できるかな?」
「色ですか?ええ、勿論、仕立ての方にお頼みすれば、どんな色でもご用意出来ますわ。」
「うーん……みっともない事、聞いちゃうけれど…お金とか高い?」
「そのようなことは、神子様はお気になさらなくてよろしいのですよ。当家と代々お付き合いして下さっている仕立て屋にお頼み致します。神子様のお申し出と告げれば、ご厚意で仕立てて下さいますよ」
「…いいの?そんなわがまま言って…」
申し訳なさそうなあかねに、藤姫は何も言わず花のように微笑んだ。




また一つ、雨の滴が天から舞い降りてきた。
突然の雨に、陽明門の辺りも騒がしく人が行き来している。
もうすぐ梅雨に入る、との噂を聞いた。
これからの時期、こんなかすかな小雨では済まされなくなる。
流れるように河を作り、地が湿る。それが天地の理で不変の世界だ。

春は時と共に夏となり、秋が来て冬になる。
その繰り返しを続けながら、日々は少しずつ流れていく。
季節のように変わるものと、変わらない絶対的なもの。この世には理不尽にも、変わりたくはないものほど変化を続ける。
この手の中で大切に包み込んでいたいものは、時間とともに姿を変えて消えて行く。
ならば目を背けていればいい。過去も未来も欲しくはない。
この現実だけを生きていればいい。今を見る瞳だけしかいらない。

「橘少将殿、本日はもうお帰りでございますか」
門をすり抜けようとすると、どこかから必ず声がかかる。
友雅の艶やかな容姿は、内裏の中でもあちこちの目を引く。彼を知らない者などいやしない。
「雨が強くならないうちに、屋敷に帰ってゆっくりくつろぐよ」
細い金糸の刺繍をあしらった衣をかつぎ、友雅は門の横に止めてある牛車へと急いだ。

友雅の屋敷はこの時期になると、真っ白な小さい橘の花で囲まれる。
屋敷だけは神々しい時代の名残を思わせる大きさを保ち、家の名を象徴する橘の木々は、小雨に打たれながらも咲き続けている。

屋敷に着くと、あまり見覚えのない牛車が門の前に止まっていた。
「なんだい、我が家に客人とは珍しいものだね。誰がおいでになっているんだ?」
自分の屋敷に呼び寄せて、酒を楽しむ相手がいるほど深い付き合いの輩はいないし、どこぞの姫君の屋敷に通うことはあっても、やってくることはないだろうに。
小雨を吸った衣を侍女に預け、友雅は客間にかかっている几帳を上げて中に入ったとたん、一瞬だけ彼女との間に漂う空気が静止した。

「神子殿…どうしてここに?」
「あ、ちょっとー…友雅さんに用事があって、お邪魔しちゃいました」
「私に?」
友雅があかねの姿を目に捕らえたとき、息を飲み込んだのは彼女の装いが普段と違っていたからだ。
いつも見慣れていた、彼女の性格を表すような活動的な水干の姿とは違い、今、この目の前にいるあかねの姿は、とても同じ女性とは考えられなかったからだ。
十二単とまでは行かないが、丁寧に仕立てられた細長を身にまとい、あかねはそこに腰を下ろしている。
髪の長さが肩にかかる程度しかないのが、いささか残念なところではあるが、それは愛嬌と言える。

「しかし驚いたね。いつもの神子殿とは思えない。目を疑ってしまったよ」
「ちょっと気分転換に、藤姫に用意してもらったものを着付けてもらいました。似合います?」
あかねは友雅によく見えるようにと、両袖を軽く持ち上げて微笑んでみる。
「ああ、とてもよく似合ってるよ。」
そう、この世界に生きる者たちのように。


***********

Megumi,Ka

suga