月と甘い涙

 002
現代の時間で言えば、多分やっと午後二時を回ったくらいだろうか。
太陽の傾きの加減で、何となく最近は時間の流れが読めるようになってきた。
「神子殿、申し訳ありません。今しばらくお待ちいただけますか?」
「うん、大丈夫です。しばらく鷹通さんのお仕事、眺めててもいいですか?」
「興味がお有りですか?ええ、結構ですよ。お気に召されると良いのですが」
したためた筆が乾いたことを確認すると、鷹通はもう一枚の和紙をめくり、記帳の複写を始めた。
夕べ遅くに降り出した雨は、もう跡形もなく消えている。
もうすぐ梅雨に入ろうかという噂が囁かれる、そんな日常の一日。
あかねは鷹通に誘われて、京散策へと出掛けることになった。
逃げようとしても逃げ切れない、近づいてくる鬼との決戦を前に、緊張の糸を張り巡らせていることを八葉の鷹通が見抜いていないわけもなく。
気晴らしにでもという彼の配慮もあり、今日一日はずっと気ままに時間を過ごすことをあかねは許された。

どこへ行きたいか、と尋ねられたが、だからと言って特別行きたいところがあるわけでもない。
ならば鷹通の仕事場を覗きにいく、なんてことはダメだろうか?
そんなあかねの問いかけを、鷹通は快く承諾した。
そして今、二人は鷹通の職場である治部省へとやってきていた。
あいにく今日は休みと届けを出していたはずが、同僚達の仕事の手伝いをするはめとなり、さっきから鷹通は新しい戸籍の書き写しを続けていた。
鷹通は自分の仕事に対しては真面目すぎるほど真剣に取り組むために、あかねはそれらが片づくまでの間、暇を持て余すことになった。

とは言っても、こんな場所などあかねには全く縁がない。
全く見ず知らずの赤の他人である者の戸籍を見たところで、興味が涌いてくるなんてことは無茶だ。
だが、鷹通の手はしばらく止まりそうにない。となると、やはりここでじっとしているしかできない。
あかねは少し考えた。それなら…自分の知っている人の戸籍を見るんだったら、少しは暇つぶしにでもなるかもしれない。
…勿論、あかねの知っている人なんてものは、数限られた程度だけれど。

だが、役人ではないあかねが、戸籍を勝手に手に取るなどということも出来ない。仕方なく、鷹通に頼むしかないか。
「ねえ、鷹通さん?あのね、ここってみんなの戸籍があるんでしょ?だったら、八葉のみんなの戸籍も、ここにあるんですよね?」
「ええ、もちろんですよ。それがどうか致しましたか?」
「うーん、ちょっと覗かせてもらえないかなーって。別に意味はないんだけど…」
鷹通はやや考えた。
「あまり他人に戸籍を広げるのは好ましくないですね…」
やはり、すんなりと首を縦には振っては貰えないようだ。
確かに、人それぞれに家庭には事情があるのだし、それを見るというのは、あまり良い趣味とは言えないだろう。
ならばどうすれば、この時間を有効に使うことが出来るだろうか?。
再びあかねが考えを改めようとした時、鷹通のそばに置いてある処理済みの文書の中に、見慣れた名前があるのに気が付いた。

「あ…ねえ、鷹通さん?これ…もしかして…友雅さんの戸籍の書類?」
あかねが手に取った書類を受け取り、鷹通は少しだけ緩くなった眼鏡を指でかけ直した。
「ええ、そうですね。しかし、いくら神子殿でも友雅殿の戸籍を、勝手にお見せするわけには…」
鷹通は、二枚ほどにまとめられた書類を束ね直した。
「じゃあ、あのー…誕生日とか、どこに住んでいるのか、とか…それくらいならダメですか?」
「…仕方がありませんね。それくらいでしたら問題はありませんでしょう。ですが、これだけですよ?」
あかねはこくり、とうなづいた。


しばらくずっと共にしていた割には、基本的なことを結構知らなかったりする。
誰がどこに住んでいるのか、とか。誰かの誕生日はいつなんだろう、とか。
確かに知っていて何があるわけでもないのだけれど、新しい発見につながることだってあるものなのだ。
五月も終わりが近づいている。
偶然とは言え、初めて知った友雅の誕生日。
「そっかぁ…6月11日なのかあ…じゃあもうすぐですよね。何かプレゼントとかしたら、喜んでくれるかな…」
もう少しかかる、と言われた鷹通の仕事だが、上手い具合にあかねには暇つぶしになる情報をゲットすることが出来た。
そう、友雅の誕生日がもうすぐだった。
彼へ何か贈り物でもしようか、などと、少女らしいことを頭にめぐらせてみる。
それだけで十分時間を有効に使える。

「こっちの世界では、どんなのをあげるのがいいのかなあ…何てったって相手は友雅さんだし…変なものを贈ったら、またからかわれちゃうのがオチだし…」
薄暗い鷹通の仕事部屋を出て、明るい庭へと向かう。
大内裏の中の木々は緑を増して、雅やかな京人の歩く姿が見えた。
「花とか好きだって言ってたよね…でもなぁ、どんなお花が良いのかも分からないもんねえ。こっちだったら、お香とかの香りもあるんだろうけれど…それもなんだし…うーん…お父さんの誕生日のプレゼントみたいに、ネクタイなんてものがあるわけもないし…」
悩みは解決しそうにないが、それでもこういうことは考えているだけで結構楽しいものだ。時間があっという間に過ぎてしまう。

「申し訳ありません、お待たせしました。仕事の方が終わりましたので」
人の影が傾き始めた頃、やっと鷹通は休日出勤から逃れることが出来たらしい。


「そうですか、友雅殿のお誕生日が近いのですね」
あかねに聞かされて、鷹通はやっとそのことを知ったらしかった。
「そう、だからね、何か贈り物ができないかなぁなんて、ずっとさっきから考えていたんだけど…鷹通さん、何かいいもの思い付きませんか?」
「そうですねぇ………」
朱雀門の近くまで歩きながら、鷹通は考えた末に答えを返してくれた。
「神子殿からの贈り物なら、どんなものでも友雅殿は喜んで下さるのではないでしょうか?」
「ええ〜?それ、一番難しいですよ〜!!もっと具体的に、物の名前で答えてくれませんか?」
この世界でどんなことが通説とされるのか、現代の人間であるあかねには全く分からない。でも、贈り物をする限りは、やっぱり相手に喜んで貰いたいものだから、そんな品物を用意したいのだけれど。

「あの方は、女性にはお優しい方ですから。それに、神子殿が直々に選んで下さったものを頂けるのなら、きっと友雅殿は喜んで下さいますよ」
にっこりと笑って鷹通に念を押されては、それ以上問い返すことも出来なくなった。

土御門殿へ帰ると、藤姫が茶を点ててくれた。
二人で夕膳のあとに、こうして茶を楽しむのも日常のひとつとなっている。
今夜も月明かりがまばゆく庭を照らしていた。
「まあ、友雅殿のお誕生日がお近いのですね」
「そうなの。だからね、何かプレゼ…じゃなかった、贈り物をしようかなーって思っているんだけど、なかなか良いものが思いつかなくってねー…」
「そうでございましたか」
藤姫は入れたばかりの茶碗を差し出して、あかねが飲み干すのを待ってから話を始めた。

「神子様は、どのようなものがよろしいと思われます?」
「え?そんなの全然分からないよ…さっきも鷹通さんに言われたけれど…だってこっちの世界にどんなものがあるか、なんて知らないもん…。それに…一番困るのは…私、お金なんて全然持ってないから、高価なものも買えないし、どうすればいいのか全く分からないし〜…」
そう、友雅は貴族の生まれ。
庶民の出ではないというわけで、日常のたしなみの感覚もあかねたちとは違う。
友雅には当然である日常のことが、自分たちにとっては特別なことであったり。
そんな相違が少なからずあるはずだ。
となれば、ここは同じ貴族である藤姫からのコメントが一言欲しい。
あかねにとっては、彼女が唯一の味方である。

「そうでございますね…それとなくお尋ねするのがよろしいのでしょうが……」
「絶対にバレちゃうよ、友雅さん、そういうところするどいもん」
「…ですわね…」
隠さなければいけないことではないが、やはり驚かせてみたい。
それがプレゼントを贈る方の楽しみでもある。最初から中身が分かり切っていたら、面白くも何ともない。
「じゃあ…藤姫が何か、物をいくつか選んでみて。その中から、友雅さんにはこれがいいな〜っていうものを、私が選ぶから。」
「それならよろしいかもしれませんですわね。私も…殿方へ献上するものなど詳しくはありませぬが…侍女たちにでも、遠回しに尋ねてみますわ」
藤姫の笑顔の答えに、あかねも同じように笑顔で応えた。

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Megumi,Ka

suga