月と甘い涙

 001
春の日差しや、吹き抜けて行く風の肌触りが、やや暖かさを増してきた頃。
桜はとうに散ってしまった。季節は変わって行く。
土御門の庭園は、うっそうとした薄紫の藤の花に覆い尽くされている。
「全く見事に咲き誇ってくれるものだよ…。」
枝下藤に手を伸ばし、一つ一つの花弁を眺めながら友雅はつぶやいた。

「友雅殿…今朝はお早いのですね」
「それはまるで、私がいつも時間に遅れてくるような言い方に聞こえるね」
「遅かれど早かれど、来ていただけないよりはずっとよろしいですわ」
「…姫もなかなか言ってくれるね」
門をくぐると、小さな姫君が友雅を出迎えてくれる。それはいつも通り、毎日のように繰り返されている儀式。一日が終わっても、また新しい日々の始まりは今日の始まりと同じ。
そんな代わり映えのない、平凡な日々など退屈だと思っていたのに。
今は、むしろ…それが楽しいと素直に思える。

渡殿を抜けて東の対屋へ足を忍ばせると、ぼんやりと庭を眺めているあかねの姿を見つけた。
友雅は声をかけず、しばらく彼女を瞳に捕らえることにした。
彼女と出会ってから…季節は共に過ぎていった。
春霞は薄らぎ、岩清水から湧き出るせせらぎが耳元に涼しさを感じさせる。
夏が近付いてくる。時間が流れる。彼女と共に日々が過ぎて行く。
幼い土御門の姫と同じ、ただの愛らしい少女だと思っていたのに。

「あれ?そこにいるの…友雅さんですか?」
龍神の神子の前では、気配を隠し続けるのは難しいようだ。もうしばらくここからの眺めを楽しんでいようかと思っていたのだが、そうは行かないらしい。
「どうしてそんなところにいるんですか?こっちに来ればいいのに…」
「いや、ここからの神子殿の眺めが美しいと思っていたものでね、しばし見とれていたのだよ」
「またそんなことばっかり言って。もう友雅さんの甘い言葉には乗りませんよ」
悪戯した子供のように、桃色の舌をちらつかせてあかねは笑った。
「ふーん…では、どうしたら本気だと信じてもらえるのかな?」
「信じる信じないじゃなくって、からかわれてるくらい分かります」
「困ったもんだ…では失礼して実力行使と言うことで………」
「きゃあああああああ〜〜〜っ!!!!!」

あかねの悲鳴と共に、その場に駆けつけた者二人。十二単に足を取られそうになりながら、慌てて走ってきた藤姫と、物騒にも手に刀を握った頼久。
「み、神子様っ!!いかがなされたのですか!!」
「神子殿!!」
二人が目の当たりにした光景は………あかねの唇を塞ごうと顔を近づけた友雅の姿。
「友雅殿っ!!神子様にそのような無礼はせぬようと、あれほど申し上げておりますのに!!」
藤姫の雷が、いつものように友雅の頭上に落ちた。頼久はその隣で、複雑な顔で頭を抱える。
「八葉という立場であるのに、神子様にこのようなことばかりなさるのであるなら、私も考えを改めなくてはなりませぬ」
「これはこれは…藤姫殿、この友雅にどのような仕打ちを与えて下さるのです?」
抱き寄せようとつかんだあかねの腕を手放し、友雅は目を藤姫の方へと移す。
「事によっては、友雅殿には八葉を退いて頂くことも考慮いたしますわ」
幼いながらも星の一族の姫君は、大人にも負けぬ堂々した言葉を発す。
「ふ、藤姫、大丈夫だってば…そんなことまでしなくたって…」
「なりませぬわ、神子様!!!。友雅殿のご無礼は今始まったことではありませぬ。幾度にも渡るようでは冗談では済みませんわ。鬼との戦いを目の前にして、こんなことでは京を救うことはとうてい叶いませんではありませぬか!?」
無気になって怒りを露わにする、素直で純真無垢な幼い姫の表情を、友雅は静かに笑みを浮かばせながら眺めていた。
「もう…大丈夫だってば…落ち着いてよ藤姫。私は全然平気だし、それに友雅さんのことはちゃんと信じてるから、そんなに心配しなくても大丈夫だって…」
あかねは、藤姫の奮い立つ気を落ち着かせるのに必死だ。自分を大切に思ってくれる藤姫のことは、確かに有り難いと思っている。それに、自分を信じてくれている一途な彼女の事を、愛おしいと思っている。だからこそ、彼女の気をもませるようなことはさせたくないのだ。
「でも、神子様……」
藤姫はけなげな瞳で、あかねの顔を見上げる。
「ここまで一緒にやってきたんだもん。それだけで、友雅さんがどんな人なのか、私は分かったから。だからずっと一緒にいるんだから。大丈夫だから、最後まで一緒に頑張ってくれるよ」
「神子様〜………」
どことなく藤姫は複雑な表情を浮かべているが、親愛なるあかねに優しく説得されてしまっては、反論する理由などなくなってしまう。
「分かりました。神子様のお言葉を信じて差し上げますわ。ですが…友雅殿、神子様のご加護に背くようなことは、今後一切許しませんわよ」
「はいはい。姫君の仰せのままに」
目を伏せて笑みを浮かべ、友雅はその場を凌いだ。

「藤姫様は、よほど神子殿をお気に召しているご様子だね」
再び二人きりの静寂が訪れると、友雅はあかねの横に腰を下ろしてつぶやいた。
「私も藤姫のことは大好きですよ。いっつも一生懸命になって、私のこと支えてくれてるし。最初にここにやってきた時からずっと、私のために尽くしてくれているるし。あんなに小さいのに、それを思うと…頑張らなくちゃって思うから…」
「そこまで思われるとは、羨ましいよ」
あかねは友雅に向かって、何も言わずに花のように笑った。
二人は宛もなく、藤の花が生い茂る庭を眺めていた。時間がゆっくりと、立ちこめる香の煙のように流れる。
ずっとこうして、漂うように時が過ぎて行くのなら、きっと心地よいだろう。
季節に咲き誇る花を見つめ、吹き抜ける風の手触りを感じて、そこに………彼女がいたら。
「もう少しだけど、頑張りましょうね、友雅さん?」
うつろげに物思いにふけっている友雅の名を、あかねの声が呼ぶ。
「ああ……私に出来る限り…ね。」
友雅は慌てて答えを口にした。

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Megumi,Ka

suga