そばで顔を覗き込む彼が、少し困ったような表情をしてためいきを付く。
「いつから具合が悪かったんだい?まさか、今朝出掛ける時には既に…なんて言うんじゃないだろうね?」
寝汗が湿らせるあかねの頬を、静かに撫でながら友雅が尋ねる。
「……ごめんなさい。実はちょっと、夕べから"おかしいな"って感じはあったんですけど……」
申し訳なさそうにあかねが正直に答えると、友雅は頭を抱えて、さっきよりも深い二度目のため息をついた。
「どうして言わなかったんだ…。それならそうと言ってくれれば、こんなところまで連れて来るような無理はしなかったのに。」
「……ごめんなさい…。」
まさか、ここまで悪くなるなんて思わなかったのだ。
今日一日くらいはしのげるだろうと、それくらい平気だと思っていたが、それは過信でしかなかった。
慣れて来ていたと思っていたが、やはりまだ体質がこの世界に馴染んでいないのかもしれない。
それに、まだ緊張感とは切り離せない日々が続いているのだし。
でも、だからこそ……数少ないひとときだけは大切にしたくて、どうしても出掛けたくて仕方がなくて。
「怒っているわけじゃないんだよ。ただね、こんな風に倒れた君のことが心配なだけだ。私だって、そんな君を近くで見ているのは気が気でならないよ。」
顔を撫でてくれる手のぬくもりと、彼の言葉が自分を心配してくれているのだ、と嫌でも痛感させる。
無理をすればやり過ごせると、そう思っていた過信から派生した事例は、結局のところ友雅までにも迷惑をかける事になってしまった。
結果は独りよがりでしかなくて、好きな人の気持ちまで乱して、これじゃ何の意味もない。
横たわったまま、情けなくて少し目が潤んで来た。
「ああ、そういうのは反則。そんな目をされたら、咎める気も失せてしまうよ。」
「だって…」
友雅はそんな風に言うけれど…。
「私の事は別に気にしなくて良い。問題は、君の事なのだからね。体調が優れないと言ってくれれば、せめて近くか…または土御門の屋敷で過ごしても良かったのだし。」
「そう…ですよね……。つい、私…」
涙がこぼれる手前で目をこすって、少し詰まった喉を咳払いでごまかす。
「せっかく…友雅さんと二人だけで出掛けられるんだから…どうしても行かなくちゃって…」
突然、目の前が薄暗くなった。
気付くと、枕の両側に彼の手。そして、真上から見下ろす瞳。
「あのね、さっきも言ったけれど…そういう言葉は罪になるよ?」
何気ない彼女の一言が、今度はこちらの胸に熱を籠らせる作用を持っていることなど、まだ気付いていないだろうか。
「そんな言葉を聞いたら、私の方が熱にうなされてしまうよ。」
体調をごまかして、少し無理をしてもいいから、それでも二人で出掛ける時間を優先したい…なんて、そんな風に言われたら緊張も不安も木っ端みじんに砕け散り、熱いものだけが心の奥底に残る。
身体に沸き上がる恋の熱は、重なる唇の体温によく似ていると思う。
+++++
「とにかく…さっき土御門家に連絡が行くように、文を頼んでおいたからね。明日になれば、誰か迎えによこしてくれると思う。それまでは、朝比名殿の御厚意に遠慮なく甘えることにしよう。」
あかねは、友雅からこの山荘の主について、簡単に説明をしてもらった。
彼は元大納言として宮中に上がっていたので、友雅の事を知っていたのだと。
隠居してからは度々この山荘に、静養を兼ねて訪れているそうだ。
「今夜一晩ゆっくり休めば、熱も下がるかもしれない。そうそう、せっかく用意してくれた薬湯も忘れずに飲むようにね。」
朝比名が持って来てくれた、黒塗りの小鉢に入った薬湯は、あかねの枕元に置かれたままになっていた。
すっかり冷めてしまって入るが、薬益は充分残っているだろう。生薬独特の香りは、小鉢を近付けただけでも鼻の奥をくすぐる。
身体を少し起こして、手渡された薬湯を少しだけ口に含んだ。
ほろ苦くて、少し青臭い後味があって、それでいてシナモンのような、ツンとした刺激もあるような……。
「おそらく、口当たりはあまり良くないだろうね。でも、薬だから我慢して飲んでもらわないと。」
貴重な生薬で、それだけよく効くものだと友雅が言うので、何とか飲み干そうと頑張ったけれど、簡単に喉に通り抜けてくれない。濃度が高いために、苦みもクセも強いのだ。
シナモンは好きだが、ここまで強いと抵抗感がある。
「苦い?」
「はあ…昔はお菓子とかお茶とかで、この味には慣れてたんですけどね…。でも、これはちょっと濃くて…」
時間をかけて少しずつ飲んでみるけれど、なかなか量は減らない。
「仕方がないな。それじゃ、少し手伝ってあげようか。」
友雅はあかねの手から、小鉢を取り上げた。中身は、それほど残っていない。ただの水なら、一口二口で終わってしまうくらいの量。
それらを口に含んだ彼は、即座にあかねの身体を引き寄せる。
「………っ」
少しずつ、苦みのある薬湯が口の中に流れ込んで来る。でも、これまでよりも苦さを感じないのが、不思議。
繋がる唇の隙間から、喉を通っていく薬湯がすんなりと流れる。妙な甘さを後味に残して。
「さ、これで全部飲み干したから、明日には熱も下がるよ。」
唇を離して、あかねを抱きとめたままで、あっさりと友雅が言う。
こちらが呆然としているというのに、彼は全く動じていない。
「……熱、もっと上がっちゃいそうですよ…」
「それは大変だな。ゆっくり休めるように、朝まで腕枕でもしてあげようか?」
「友雅さんが、そんな事言うからですよっ。余計酷くなっちゃいそ…」
めまいを起こしたような振りをして、伏せた瞼に手をやってひとつため息。
だけど、決して嫌な気分はない。
昔なら、とことんからかわれているんだ、と少し拗ねたりしたけれど…今は、素直に少しは甘えたい気分もあったりするのが本音。
彼の手が、優しくあかねの背中に添えられている。
「ま、今のは冗談じゃなくてね、君の都合の良いように、本気に取ってもらって良いけど。」
意味深な言い方をしながらも、身体を抱えてくれている彼の仕草は、暖かくて心地良くて安堵感を思わせる。
自分の容態を案じてくれているのが分かるから、そばにいてくれるのが嬉しい。
「私に出来る事であれば、望むことは全部引き受けるから心配しなくて良い。腕枕でも何でも、遠慮なく使ってくれて構わないからね。だから、今夜は安心して休みなさい。」
「……はい、ありがとうございます…」
迷惑をかけてしまったのは心苦しいけれど、でも、ホントは少しだけ良かった、なんて。
こうして、彼の想いを一番身近で感じられる現状が、ちょっとだけ嬉しいんだ…とは、とても言えないけれど。
「あら、萩乃…どうなさったの?御着替えを届けに行かれたのではなくて?」
小走りに部屋へ戻って来た萩乃を、夕餉に使う山菜の仕込み中の菊代が不思議そうに見た。
「や、やっぱり……!間違いありませんわよっ!」
「え?何をおっしゃっているの?」
あかねの着替え用に揃えた寝着を入れた籠を、その場に放り出すように置いた萩乃が、目を見張って菊代の両肩を掴んだ。
「しょ、少将殿が御連れになられた御方っ…!やはりあのお二人、ただならぬ関係ではございませんわよっ!!」
それまでは萩乃の取り乱し方に、首を傾げていた菊代ではあったが、彼女の口から友雅の名前が出たとたんに、同じように表情に血気が戻って来た。
「な、何をご覧になったの!?それとも、何かお話を聞かれたの!?」
「私…お着替えをお届けに伺いましたら…戸の隙間からお二人のお姿が目に入りまして……」
そこまで言いかけて、萩乃は赤い顔を両手で隠してしまった。そして、菊代にこっそりと耳打ちで、自分の見た様子を告げた。
きゃあきゃあと、相変わらずの賑わいをみせる部屋の前を、通り過ぎようとした朝比名が足を止めて覗き込んだ。
「これ、何をそんなにはしゃいでおる?病を抱えた客人がおられるのだから、あまり騒がしくするものではないぞ」
さりげなく嗜めるつもりで、そう言ったつもりであったのだが、彼女たちは全く動じずに、彼の顔を爛々とした瞳で見上げた。
「殿!やはり少将殿とお連れの御方は、特別な間柄なのでございましょう?」
「…ん?何だ、そなた達も聞いていたのか?さっき私と話していたのを。」
彼は、萩乃が見て来た情景など、全く知らない。なので、てっきり先程自分と会話をしていた時に、友雅が言ったことでも聞き耳を立てていたのか、と思った。
「『今までとは違う特別な相手』だと、そう申されていたからなぁ。」
『特別』という言葉に、萩乃たちが並んで同時に反応を示す。
「これまでは、どこぞの姫やら女房やら、すぐにでも噂が流れるような御方だっだが、最近はめっきりそういう話も伝わって来ぬし、連れの御方の素性さえも分からぬ。それだけ、特別な間柄なのかもしれん…」
変に騒ぎを大きくしたくはない、とか。噂の種になって騒がれたくはない、とか。いろいろな理由が考えられるが、そんなことさえ気にしていなかったこれまでの友雅を思うと、やはり今回は特別ということか。
それだけ、深い間柄ということ…も、考えられるか。
「いやー!少将殿が身を固めてしまわれるなんてー!」
「…おい、それはちと、早合点ではないか?まだそこまでは……」
二人を宥めようと声を掛けたのだが、すっかり舞い上がっている彼女たちには、そんな声も耳に入って来る訳がない。
「ああ、でもなんて羨ましい〜!!少将殿に娶られるなんてーっ!!」
…随分と盛り上がってしまっているようだが…。
まあ、近からず遠からずという雰囲気には違いないだろうし、たかだか隠居の身である自分の屋敷の侍女が騒ぐ程度なら、面倒な事にもならんだろう。
そう気楽に考えていた朝比名ではあった。
……が、噂はどこから漏れるか、分かったものではない。
そして、噂は拡大していくにつれて、更に内容が誇張されていくものである。
そんな一騒動が待っているなど考えもしないあかねは、友雅の手枕で寝息を立てていた。
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