Trouble in Paradise!!

 第1話 (3)
「客人の様子は如何なものだ?」
呉羽の夫、つまりこの屋敷の主人が、戻ってきた彼女をつかまえて尋ねた。
「ええ、お連れの方に付き添われております。この天候に左右されて、お体が弱ってらしたようで。薬湯をご用意して、しばらく落ち着かれるまでお引き止めしようかと思いましたの。」
山荘には限られた数人の付き添いと、簡単な生活必需品しか備え付けられていない。元々、長居をするような場所ではないからだ。
しかし、逆に人里離れた場所では、もしものことを第一に考えて医薬品ならぬ処方箋等は欠かせないものである。
呉羽は壺の中に仕込んである生薬を、煎じて飲ませようと思った。

その隣で、落ち着いた雰囲気の主人が口を挟んで来る。
「それは構わんがな……。それより、そなたは客人の名は尋ねたか?」
彼に言われて、呉羽は少し天を仰ぐ。
「ああ…はっきりとは、まだ。ですが、文をお届けになる先はお聞きしましたので、おそらくそちらの方ではないかと。」
「ふむ。何と申されておった?」
自分の名は名乗っていないが、文を預ける相手とは何かしら関係があるはず。
「確か……四条の橘邸、と申されてましたが。」
「橘……?」
彼の脳裏に、おぼろげな記憶がよぎった。


昨年彼は大納言を辞任し、気ままな隠居生活を始めたのだが、まだ現役で内裏内を行き来していた時の事。
左近衛府に、華やかな話題の絶えない男がいた。
正五位下の少将の中で、一人四位少将の名を持ち、帝の懐刀と名を馳せた男。

「殿、お心当たりがございますの?私もどこかで、お見かけしたような気がしないでもないのですが…」
もしかしたら、その客人というのは…。
その時、突然甲高い二つの声が、戸を開ける音と共に部屋の中に響き渡った。薬湯を用意していた侍女たちが、その言葉を聞いて驚きの声を上げる。
「奥方様、ご存知なかったのですかっ!?」
「まあ、貴女方…あの方をご存知ですの?どちらの殿方?」
侍女たちの騒ぎように、呉羽の方も少し驚いた様子だったが、主である彼は平然としている。
呉羽のそばに身を乗り出して、彼女たちは熱弁を振るい始めた。
「奥方様?!あんなに有名なお方を、本当にご存知でらっしゃいませんの!?あの方こそ、京で一日とも名を聞かない日はないというのに…。女性ならば、知らない者はおりませんわ!」
ねえ?と互いに顔を合わせてうなづく。
意気揚々と話す侍女の表情は、どこかうっとりと夢心地という感じだ。

「ああ…私のような者が、まさかこんなにお近くでお姿を目に出来るなんて…!至福以外の何者でもございませんわ…」
いやはや、そこまで言わせる男の正体は、如何なる者か。
呉羽はさっき目の前で見た、彼の姿を思い出しながら侍女たちの様子を伺う。
「一度目にしたら心まで奪われてしまう…お噂が真実だと身をもって確かめられましたわ…。何て艶やかな御方…橘少将様…!」

「やはり、そうか」
彼女たちが名を唱えたあと、彼は納得してうなづいた。
「殿もご存知で?」
「いや、まことに彼女達の言う通りでな。おそらく名を知らぬ者はおらぬよ。特に…女人はな。」
彼は少し苦笑いのような表情を浮かべながら、そう答えた。
歌、楽、武芸共に優れ、見目麗しい雅やかな男ゆえに…引く手数多の色事師。
彼の後ろに付いて行く女人は数知れず。そんな噂の高い男を、知らない者などいなかった。
だが、それもまた宮中の花のようなもの。
噂が高ければ、それだけ人物に価値があるという裏返し。遠目にそんな話題を目にしながら、楽しんでいた昔も今は懐かしい。

「どれ、ならば挨拶の一つでもしておこうか。その薬湯、わしが持って行こう。」
久し振りに、あの頃の気分を味わってみたいものだ。
彼がそう言って立ち上がると、侍女たちは揃って残念そうな顔をした。
二言三言でも、一瞬でも、近くで友雅の姿を見たくて仕方がないのだろう。
「まあまあ、貴女方もその間に、御連れの方の着替えをご用意して差し上げなさい。熱が引くまでは、何度か取り替えて差し上げないといけませんから。」
呉羽が指示をすると、それまで賑やかだった侍女たちの表情がぴたりと動かなくなった。


「奥方様……少将様が御連れになられている御方は、どちらの御方でしょうか?」
呉羽は、あかねの姿を思い出してみる。
見た感じの第一印象は、随分と年の若そうな少女だったが、普通の娘とは雰囲気がまるで違っていた。
髪も短いし、紅も差していないようだし、着ている装束も幼い少年のようで。
袿姿に長い黒髪が普通である呉羽達にとっては、あかねの風貌は物珍しさをを覚えるのも当然かもしれない。
「さあねえ…。それは、直接少将殿にお尋ねしてみなければ。私も存じ上げておりませんしねえ…」

だが、彼女たちにとっては、あかねが普通の格好かどうかなど、どうでも良い話でもあった。
問題は、あかねと友雅の関係について、だ。
「あの少将様が御連れになられているのであれば、それなりの出の御方なのでしょうか?ですが、少々普通の方とは違ったご様子の方にお見受け致しましたが…」
「そうですわねえ…。失礼ではありますが、ちょっと違った感じの方ですわね…確かに。」
侍女の一人が、そわそわした目をして呉羽を見た。
「で、でも…その、あの、少将様とふ、二人きりでお出かけになるというのは、その…普通の間柄ではありませんわよね!?」
彼女たちにとっての、一番の重大な問題。
羨望の的である友雅とあかねは、何故二人でこんな所にやって来ていたのか。
それはつまり…普通の価値観で考えれば、まず思いつくことはただ一つ。

「きゃー!いやー!どうしましょー!二人きりでそんなーっ!!」
「いやーっ!羨ましいーっ!憧れちゃうーっ!!」
いつにも増して、二人のきゃんきゃんした騒ぎようは凄まじい。
でも、まあ男女の色事については一番興味が出る年頃だ。それに加えて、相手が相手なのだから気持ちも盛り上がるというものだろう。
「噂話は構いませんけれど、客人であらせられるのですからね。あまり度を過ぎた非礼は禁物ですよ?」
取り敢えず、賑やかな二人を宥めるかのように、呉羽はそう言った。

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「奇遇というか…まさか、朝比名殿の山荘だとは思いませんでしたよ。」
「はは。私とて、少将殿がこんなところに来るなどとは、思いも寄らなかった。まるで宮中に舞い戻ったような気分だな。」
さっきまで気持ちが落ち着かなかったが、久しぶりに顔見知りと会ったことで少しは気が晴れた。
あかねはといえば寝返りを打つこともなく、静かに眠りに着いている。

「しかし、相変わらず話題に事欠かないな。今回は、一体どちらの姫君をお相手にされているのだ?」
朝比名は、ちらりとあかねの姿に目をやった。
確かに先程話に聞いた通り、以前彼が噂を流した相手を知るところでは,随分と若い娘に見える。
何となく、これまでの彼から考えると雰囲気の違う相手だが……やはりこんなところまで二人でやって来るということは、侍女たちが騒いでいたように、そういう関係なのだろうか、などと詮索したくもなる。

友雅は、かすかな微笑みを浮かべたままで、横たわる彼女の顔を静かに眺めた。
「まあ、何というか…ちょっとね、今までとは違う特別な相手なものだから。」
そっと伸ばした手のひらで、瞳を閉じるあかねの頬に触れる。
その光景は、どこか穏やかで目映い絵巻のようだ。


……思わず、首を傾げた。
自分の知っている友雅は、こんな表情をしていだろうか?。
とは言っても、大納言だった頃でも頻繁に言葉を交わした親しい間柄ではないので、それほど豊かな彼の表情を知っているわけではないのだが。

しかし、それでも…艶のある彼の姿から思うと、やはり少し顔つきが違うのではないか?
友雅のなめらかな視線は、そこに眠る彼女をそっと見つめている。
今し方、彼は『特別な相手』と言ったが…その『特別』という言葉には、一体どんな意味が含まれているのだろう。


「うー……ん…」
寝返りを打ったあかねの声に、二人が同時に視線を移した。
先に、その声に反応したのは友雅の方だ。
「どうだい?気分は」
「………あ、友雅さん…。あれ?ここ……どこ…ですか?」
まだ少し重い瞼を開けて、最初に目に入ったのは友雅の顔だった。
しかし、そのあとゆっくり鮮明になってくる周囲の景色と、彼の隣にいる男の姿を捕らえることが出来た。
そこにいるのは、誰だろう?落ち着いた感じの男性。
そして、見覚えのない部屋。
「偶然、知り合いの山荘があってね。こういう状況だから、ご厚意に甘えて休ませてもらったんだよ。」

…そうか。確か雨が酷くなって、雨宿りをしていたのだ。
そうしたら身体が妙に熱くなって……ぼうっとしてからの記憶は、あまり残っていない。
「顔色が少し良くなったようだ。あとは、薬湯を飲んでもう一眠りすれば良いだろうな。文を届ければ、明日には迎えの者が来てくれるだろうし、今夜はゆっくり休まれて行かれると良い。」
友雅の書いた文を受け取った朝比名は、そうあかねの顔を覗き込んで微笑むと、ゆっくり腰を上げて立ち上がった。

「すまないね朝比名殿。せっかくくつろいでいた所を、邪魔してしまったようで。山を下りたら、改めて御礼に伺わせてもらうよ。」
「なになに。困った者を放っておけない、お節介なタチなものでな。それに、そなたがいると大喜びする輩もおりますからな。」
妙な事を言い出したな、という顔の友雅を見て、『こっちのことだ』と彼は笑った。
「お連れの姫君殿も、お身体は大切にな。」
「あ…ありがとう…ございます…」
まだ少し声に力が入らないが、そう言ったあかねを見ると、微笑みを残したまま彼は部屋を出ていった。


「うーむ……」
部屋から出た朝比名は、腕組みをしながら廊下をゆっくりと歩いていた。
雨上がりの雫が、軒下からぽたりと輝きつつこぼれ落ちる。
「『特別な相手』とはなぁ……。まさか、あの少将殿からそんな言葉を聞く事が出来るとは。いやまあ、何が起こるか分からぬご時世というものかのう…」
独り言をつぶやきつつ、足を進める。

雨に濡れている草木の香りは、太陽の光を浴びて清々しく昇り立っている。



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Megumi,Ka

suga