Trouble in Paradise!!

 第1話 (2)
武官という立場上、ある程度の緊急回避は心得ている。
怪我、そして病の際の処方等、簡単な手当ならば困ることはない。
しかし、こんな土地勘のない場所では、必要なものを揃えることも難しい。

「ようやく雨が止みそうだな…」
あれから一時間ほど過ぎた頃、小雨は止んで雲が明るくなってきた。
幸い、あかねはあれから眠りに落ちて、それ以来目を開かない。
時々彼女の額に手を当ててみる。
熱は酷くなってはいないが、引いてはいないようだ。顔もまだ赤みが残っている。
「取り敢えず…雨が上がったら、少し近くを歩いてみるか…」
せめて近くに湧き水か川でもあれば、熱を冷やしてやることも出来るのだが。

とは言っても、例えそれが可能であるとしても、何もないこの場所にあかねを置いておく訳にはいかない。
酔狂な輩が近くを通りかかってくれることを、僅かながらの可能性と思いつつも願わずにはいられなかった。

水たまりに、青空が映り込んでいた。
腹立たしいほど、数時間前の雨の名残など消えてしまっている。この水たまりと木々の雫だけが、あの土砂降りを記憶していた。
「う…ん…」
寝返りは打つけれど、まだ熱が引く気配はなさそうだ。彼女のそばにいられるのは良いが、病に奪われつつある姿を、何も出来ずに眺めているのは酷だ。
幸いにも庭の岩にあるくぼみには、泥に触れずに雨水が溜まっていた。
飲み水には出来ないが、苦肉の策で衣を浸して彼女の額に乗せてやった。
出来ることは、この程度。
いつになれば、ここを出られるのやら……。


友雅は、外に降りてみた。草木に残る雨の露は、きらきらと輝いて美しい。
屋敷にいるときは何とも思わない、白い橘の花の香りも、今はどこか違った香りに思える。
「雨乞いが必要な時には降らないで、降って欲しくない時に一気に降って来るなんて、意地が悪いよ。」
初夏の太陽が放つ青空への光を、眩しそうに見上げて友雅はつぶやいた。


「ん?誰か…そこにおられるのか?」
「こんなところにか?人家など見当たらないが…」
若い男の声がした。それと同時に、鈍い蹄の音と嘶き。
どこの誰かは見当もつかないが、馬を連れた男が二人ほどいるらしい。

一人が馬から降りて、朽ち果てそうな屋敷の方へと歩いて来た。
「……如何なされたのか。このような場所で、一体何をされておるのです?」
まさか本当に人がいるとは思わなかったらしく、男はそこにいる友雅の姿に驚いたようだ。
「ああ、まだ神には見放されていなかったか…ホッとしたよ。」
随分と適当な人生を送って来たものだから、天罰でも下ったのかと冗談まがいに思ったりもしたが、それも思い過ごしだったことに肩の力が少し和らいだ。
「実は少々遠出をして、ここに辿り着いたのだが、生憎さっきの土砂降りに遭ってしまってね。雨宿りの場所を見つけたのは良いが、連れが熱を出して寝込んでいるのだよ。」
「それは…何とも気の毒な事。お連れの方は、どちらにおられる?」
もう一人の男も馬を連れて、後からやって来た。
見た限りでは、頼久と同じくらいの年か。彼らもまた、どこぞの名家お抱えの武士だと思われる。

「緊急な容態ではないのだけれど、こんなところに置いておく訳にも行かないのでね。どうしたら良いものかと思っていたところだったのだよ。」
男たちは静かに屋敷の中に上がり、横たわるあかねの様子を伺った。
友雅がさっきやったように手を額に当ててみると、二人は顔を合わせて渋い表情を浮かべた。
「おっしゃる通り、容態は急を要してはいないようですが、このままでは酷くなることも考えられるでしょう。」
「そう。そこで、通りすがりの見ず知らずのお二人に、図々しいとは思うが頼みがあるのだが…」
ここで出会った機会を、あっさり逃す訳にはいかない。自分は良いとしても、あかねだけはこのままにしておけない。
友雅は、ひとつの頼み事を告げた。受け入れてくれるか半信半疑ではなったが、彼らはそれを快く承諾してくれた。

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「そうか、そのような事態ならば遠慮はいらぬ。浩孝、浩貴、客人を早く中に上げて差し上げたまえ。」
一人の男の馬を借りて、あかねを抱いたまま連れられて来たそこは、素朴だが小綺麗に整っている山荘だった。
主に事の説明をする為に二人は姿を消したが、すぐに揃って足早に戻って来た。
「どうぞお上がり下さい。主が是非と申しております。」
「すぐに、お連れの方の床を用意させますので、早く中へ。」
まず、友雅はあかねを一人に預けて馬上から降りた。そして再び彼女を受け取ると、もう一人が率先して中に案内してくれた。


「いらっしゃいませ。どうぞ中にお入…………っ」
入口を入ると、年若い二人の侍女と奥方らしき年配の女性が、揃って友雅達を迎え出てくれていた。
だが、こちらの姿を見たとたん、侍女たちが声を失って、更に目を見開いて呆然とその場に立ち尽くしている。
「ほらほら、貴女方!早く床の用意をなさい!」
奥方に背中を叩かれて、はっと我に返った二人はそそくさと中に消えて行った。
「すみませんね。ちょっとした気分転換でこちらに来ているものですから、本宅と違って手薄でございますの。」
「いや、面識もない私どもを受け入れて下さって、有り難く思っておりますよ。」
腕に抱いたあかねを眺めながら、友雅はそう答えた。


……どこかで、見かけたことがあるような。
彼女は、友雅の姿を見ながら、ふとそんな事を考えた。
身に付けている装束も、その立ち振る舞いにしても、下々の者とは全く違う雰囲気がある。
これほどの雅やかな物腰を持つ公達も、なかなかお目にかかれない。
一度目にすれば、そう簡単に忘れたりはしなさそうだが…。
「あ、あのっ!とっ…床のご用意がっ出来ましたっ!」
さっきの侍女が舞い戻って来た。あかねを寝かせる用意が出来たらしい。
だが、わざわざ二人で戻って来なくてもよさそうなものだが。しかも、それほど広い山荘ではないのに、二人揃って息を急がせて。
「では、どうぞお上がり下さいませ。」
奥方に勧められた友雅は、あかねをしっかりと抱き上げると、そこにいる侍女たちの間をすり抜けて、足早に奥へと姿を消した。

彼らがその場から去ったあと、残された侍女二人が甲高い驚喜の肥を上げたのは、誰も知らない。

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桶に汲まれた水に何度も衣を浸して、床に横たわるあかねの顔をそっと拭く。
「ここのところ温暖の差が多かったので、お身体に障ったのではないかしらね。しばらくお休みなって、熱が下がれば大丈夫でしょう。」
自らを『呉羽』と名乗る彼女にあかねの着替えを任せて、ようやく一段落した友雅は、ここに来てその言葉を聞き、やっとの事で本当に気が楽になった。

まったく、一時はどうなるかと思った。
それは、あかねの容態のこともあるし、自分の意識の混乱にも通じることだった。
このまま彼女にもしもの事があったとしたら…と、そう考えただけで平常心を失う。そんな自分の砕け方に戸惑った。
そして改めて、思う。
自分の中にある彼女の存在が、どれほど重要なものになっているかを。

「ご遠慮せずに、落ち着くまでこちらでお休みになって下さいな。薬湯をご用意致しますので、お連れの方がお気づきになられましたら、飲ませて差し上げて下さいね。」
どうやら、結構な名家であることは確実のようだ。滅多に手に入らない生薬を常備していることで、ここの主の地位がある程度判別は出来る。
「そうそう、お屋敷にご連絡をしておかなくては、心配されるのではございません?よろしければ、うちの者を使いで向かわせますが?」

…確かに、あかねが目が覚めるのは、いつになるか分からない。まずは熱が下がることが最優先だが、それもいつになるか見当は付かない。
もし、夜になっても様子が変わらなかったとしたら……。
何も連絡しないままでいたとしたら、土御門家の大パニックは目に見えている。
「御厚意感謝致します。では、お言葉に甘えて一筆、お届けして頂けますか」
「ええ、今からでしたら、夕刻のうちにお届けできるかと思いますよ。ところで、お住まいは、どちら?」
「住まいは……」

友雅は、『土御門家』の名を告げようとしたが、一寸前でためらった。
あかねの様子を知らせなくてはならないのは、まず第一に土御門家だ。
しかし、そうなれば否応でも彼女の正体を説明せざるを得ないだろう。
時が過ぎて、この京に龍神の神子と八葉の存在があることは、多くの人に知られるようになっている。
だが、その正体が誰なのかということは、まだ知らぬ者も少なくはない。

この屋敷の主がどんな位の者かは分からないが、それなりの殿上人であろうから、内裏の噂を伝って広まった時には、面倒な事にも成りかねない。
ここは、少し策を投じておいた方が身の為か。
「では…四条の橘邸まで、お届け願えますかね?」
「四条ですわね。それでは、お書き終わりましたらお声を掛けて下さいませね。」
質の良い蒔絵の文箱を友雅に手渡して、呉羽はそっと部屋を去った。

まあ、後は文の中に事の起こりを記しておこう。
おそらく、屋敷の誰かが土御門家へと連絡を伝えてくれるに違いない。
取り敢えず、あかねの身体を休ませるのが優先だ。


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Megumi,Ka

suga