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天体観測
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| 020 |
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あかねは、懸命に両手で目をこすって涙のあとを削り取ろうとした。しかしそのたびに瞼は赤くなり、泣いた痕跡をなくすことはより不可能になった。
「よしなさい。それ以上続けたら、せっかく澄んだ瞳が淀んでしまうよ」
友雅がやっと口を開いたのは、二人きりになってから十分ほど過ぎてからだった。それまでの間、あかねは涙を止めようと息を鎮めることに集中し、友雅は目の前にいる彼女をただ見つめているだけだった。
「聞いてもいいかな?」
かけられた言葉に、あかねはうなづいて答えた。
「涙の意味を、教えてもらいたい。彼に…何か言われたのかい?」
今し方去っていった中将に…言われた言葉。
………こくりと息を飲む。
「……歌を……詠まれました」
「どんな内容の歌だったのか教えて欲しいね」
「……………」
嬉しいはずの歌。好きな人が囁いてくれたなら、どれほど幸せになるか分からない歌。
「………恋の歌…でした」
あかねがそう答えると、友雅は深くためいきをひとつ吐き出した。
どことなく感づいては居たのだ。彼があかねに惹かれるのではないかと。
以前にも逢瀬の仲介を頼まれたこともある。幾度か逢って話しているうちに、多分彼はあかねを見初めるだろうと思った。
だからこそ、早急にあかねを奪ってきてしまったのだ。
しかし、それでも手に負えないときが来る。友雅が思いもしないところで壁が崩れれば、彼はあかねと向かい合うだろう。そしてそのうち、彼女の瞳に心が吸い込まれていくに違いない。
自分よりも地位が高く、各方向からの評価も高い彼に友雅が勝るものは………なんだろう。
帝のそばに上がることが出来るくらいのことか。それさえも今の地位がなくては何もならないのだ。
彼よりも優位なもの。彼より強いものは……あかねへの想いくらいだ。
「歌を返さないのかい?」
あかねは友雅の顔を見た。彼は足を崩してゆるやかに姿勢を崩し、少し立てた膝に扇を持った手をかざしている。
「歌を頂いたので有れば、それに対して返事を出さなくてはならないよ。思いつかないので有れば、誰かの読んだ歌に意味を込めて送ればいい。言ってくれれば、私が君の心に合った歌を代わりに探してあげるよ。」
歌詠み会や和歌集を読みながら、覚えてしまった恋の歌はいくつかある。情熱的な歌から切ない歌まで、それらを読みながらいつかあかねに捧げようと何度思ったことか。
「返事は……さっきしたから…いいです」
あかねは、そう答えた。
「少し、ゆっくりと話をしよう」
そう切り出した友雅の背中に、かげりつつある夕暮れの空が見える。時間はゆっくりと、気付かないほどのなだらかに過ぎてゆく。
「君は、幸せになりたいと思ったことがあるかい?」
突然、友雅はそんなことを口にした。あかねは顔を上げると、彼の視線はどこか遠くを見るように庭先へと向かっていて交差することはなかった。
「どうすれば自分は幸せになれるだろうか、どうしたら一番自分は幸せでいられるか、そんなことを考えたりしたことはないかい?」
「……そりゃ…誰でも一度くらいはあると思いますけど……。不幸になるより、幸せでいた方が良いじゃないですか……」
あかねのそれは、当然の返事だと思った。友雅自身も必死になって願うわけではないが、不幸よりは幸せであった方が良いに決まっている。
だが、その想いに弊害が連鎖として生まれるとしたら。
「自分が幸せであるために、他の誰かの心が虐げられるとしても……幸せになりたいかい?」
そう言った友雅の言葉は、あかねの心に突然の静寂を促した。
「例えば----誰かを愛したとする。その想いを相手に捧げて、向こうが悩み苦しみ、到底幸せとは言えない生活を続けることとなったら……どう思う?自分は幸せでも、愛する人を幸せにすることは出来ないよ。それでも----自分の幸せが欲しいかい?」
言葉を紡ぎながら、友雅は自分に何度もそれらを繰り返し聞かせている気分になっていた。
あかねを愛した。
そして奪い去ってきたけれど……それがあかねにとっての幸せにつながっていたのだろうか。
得たものは自分一人の幸せ。だが、あかねが幸せに生きられないのであれば、友雅の幸せさえもいつか輝きを失う。
自分は正しかったのか、これまでの足跡を恐ろしくて振り返ることが出来ないでいる。そこにいるあかねの顔が、笑顔でなかったら…と考えるのが辛くて。
「どうしたい?」
「え?」
「これから……君はどうしたい?」
友雅は緩やかに視線をあかねに戻し、少し憂いだ色の瞳でこちらを見つめた。
「この屋敷で、私と一緒に生きていくことは……君にとって幸せにつながるのかい?」
ふわりと漂ってくる侍従の香り。
それは明らかに、一番あかねの意識に馴染んだ友雅の香りだった。
「私は少しのぼせ上がっていたみたいだ。今、私は…幸せだけれど、君がこれからうつむいて生きていくのなら、想いを切り捨ててしまったほうが良いのだろうかと…そう考えている。もう一度、君の幸せを願いたいんだよ。君をどうすれば……幸せに出来るのかな。」
どうすれば幸せに……なれるか。
今以上に……幸せになれる場所が他にあるものか。
友雅と共に生きる場所以外に、幸せなどあり得ない。彼と同じ時間を生きるために、この世界に残ったのだから。
あかねがどうやって答えようと考えていると、先にまた友雅が口を開いた。
「ここへやってきてから、あまり君の笑顔を見ることがなくなったような気がしてね。もしかすると君にとっては、左大臣家で過ごした日々の方が幸せなのではないかい?」
たまに逢いに出向けば、必ず笑顔が出迎えてくれた。それを見るためだけに、たいした用もないのに何度も通い続けたこともある。
幼さが残る素直なあかねの笑顔に、友雅は心から惹かれた。その笑顔を見られないのは、友雅にとっても苦痛以外になかった。
それ故に、自分の冒した行動に疑問を残さずにはいられなかった。
強く抱きしめた腕の力をもっと緩めれば…きっとあかねは自由に動けるだろう。
そうしたら、またあの笑顔を見られるだろうか。幸せそうに笑ってくれるだろうか。ならばこの手を離さなければならない………。
相容れない幸せの形に戸惑い、どこかで退かなければならないこと、何かを犠牲にしなくてはならないことを知った。
「左大臣家に帰りたいかい……………?」
言い出せなかった言葉を、友雅はやっと口にした。
吐き出してしまったからには、もう後戻りは出来ない。願わくばその先に、友雅自身が一番愛したあかねの笑顔があることを望まずにはいられなかった。
そうでなくては……この手の幸せを無駄にしてしまう。
唯一友雅が、自分の心を抑える手段はそれにしかなかった。
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