天体観測

 019
「何故、お泣きになるのだ、貴女は……」
中将の手のひらが、再びあかねの頬を撫で上げる。こぼれてくる涙に濡れた指先が、しっとりとした雫に覆われる。
潤んだ瞳であかねは彼を見上げた。

「……私、友雅さんが……好きなんです……」
ぎこちなく答えるあかねを見て、中将は微笑んだ。
「今更何をおっしゃる?だからこそ夫婦となられたのではないですか」
あかねは中将に頬を支えられながら、何度も横に首を振った。
「違うんです…私、まだ……友雅さんに…好きだって…はっきり言ってもらってない……」
「言葉にしなくても通じ合うこともあるでしょう。友雅は貴女のことを、それはそれは想っていることは外から見ても分かること……」
彼がそう何度もなだめても、あかねは首を横に振ることを止めない。
「……分からないです。だって……私、まだ友雅さんに全然相応しくない…。友雅さんの奥さんでいても良いのか…自信ないです…。」
普通でも華奢なあかねの身体は、涙でしゃくりあげるたびにきしみ出しそうで、今にも崩れてしまいそうに弱々しく見えた。そのせいで、中将も手を離すことが出来ないでいた。


「友雅さんには…もっと似合う人がいるんじゃないかって…そう考えちゃうんです。今は…こうして一緒にいられるけど……もしもそんな人が目の前に現れたら……私……は…」
置き去りにされるかもしれない。
一人取り残されて、帰らぬ友雅を待ちながら老いていくのかもしれない。幾夜も袖を涙で濡らし、知らぬどこかの姫を腕に抱いて、愛の言葉を囁いている友雅を待つだけの身になるかもしれない。

自分が…もっと大人だったら。もっと自信があったら……。
自分がもっと……友雅に相応しい女性であったなら、その腕にしがみついて行かせないのに。今の自分では…無理だ。
もっと時間があったのなら良かったのに。

もっと大人になってから……一緒になれたら良かったのに。
悔やんでも悔やみきれない。悔やむことも出来ない。
--------彼が抱き上げて連れ去ってくれた瞬間、確かに嬉しいと思ったのだから。





泣き続けているあかねの肩を、中将はためらいながら抱こうと手を回した。
その時である。
一瞬あかねの身体から立ち上がる暖かい気を感じて、中将は彼女から手を離した。はっきりは分からないが、うっすらと白くあかねの身体が輝きを放っているように見える。


彼はふと、何かに気付いた。どこかで……この輝きを見たことがあった。似たような光を見たことが…確かにあった。

……以前確かに、友雅の身体から同じような光が放っているのを見た。

「もしや貴女は……………」


中将はそう言いかけて、声を止めた。
重なり合った二つの存在は、何一つ食い違いを持たない。
左大臣家の娘、土御門家、星の一族………龍神の神子。
-------そして、八葉。
淡く白い光が何よりの証。それらは二人を強く結びつけていく。



現実を目の前にして、彼は肩を落とすしかなかった。
そして、自然に微笑みを浮かべてあかねに手を伸ばした。
「運命には…逆らえぬな。」
一度静かに目を伏せてそうつぶやくと、彼は諦めたように首を横に軽く振った。


………私では、最初から相手にはならなかったのだ………

今になって自分が彼女を見初めようと、選ばれて動き始めた運命は戻しようがなかった。
二人が出会ったときから、引き離すことなど出来ないのだ。そして、惹かれ合う運命も変えることができないのだ。
例えそれが龍神の神子と八葉という関係を取り除いて考えたとしても、彼らが選ばれたときに歯車は動き出した。
それだけでも断ち切ることの出来ない運命だと言うのに、その中で惹かれ合った互いの想いを、壊すことなど……無理なのだ。

「貴女は、私にとっては月のような存在だ」
中将がそう言うと、あかねは彼の顔を不思議そうに見上げた。
「……それって、何か意味があるんですか?…前に、友雅さんもそんなこと言ってた……」
彼女は分からないだろう。それが愛しいという意味と相通じていることを。
愛しくてたまらないのに、手に掴むことの出来ないもの。諦めれば済むことなのに、瞳が追ってしまうこと。
月にはそんな不思議な力がある。そして、人は古来からその光に捕らわれるように惹かれる。
すぐ目の前にあるからこそ、諦めきれない。

だが……そこに運命があるのなら。運命が月読人を選んでしまったのであれば…彼以外に彼女が受け入れる者はいないだろう。
知らず知らずのうちに、彼女自身は気付いているはずだ。そして友雅も、彼自身が既に理解していることだ。
二人が想い合うこと、愛し合うことを決めたときから、その運命は永遠に続くことなのだと。





「……中将殿」
御簾を上げた向こう側で、橙に似た夕暮れの光を背に受けた友雅が顔を出した。中将もあかねも、彼の足音に気付かなかったらしい。
しばらくの間、友雅は言葉を発することが出来ずに立ちつくしていた。
こんな状況の目の前で、一体何を言えばいい?
瞳から涙を溢れさせているあかねの姿と、彼女の背を撫でながら宥めている中将の姿と。
自分がここにいない時、二人の間にどんなことがあったのか知ることは出来ないが、それを何と尋ねればいい?

何故だろう。
以前ならこんな風にあかねが肩を落としていれば、すぐにその細い肩を引き寄せて、いつもの笑顔になるまで抱きしめてやれたのが、身体全体の神経が硬直してしまったかのように動かない。
澄んだ瞳が赤く潤んでいるのに。崩れそうに肩を落としているのに。何故それを支えるために動き出せない?

……原因は中将か?
ならば彼を責めればいいことだろう。今更階級などに未練などない。元々たいした貴族の家柄でもないが、ここで地位を剥奪されてしまったところで痛みを感じて生きることになるほどではない。
なのに、どうして手を挙げることが出来ないのか。………何故詰め寄ることが出来ないのか。
…………あかねの涙のせいだ。

自分に彼を責める権利があるか。あかねを泣かせたことを咎める事の出来る立場か。
自分はどうだ?あかねを泣かせたりしなかったか?ずっと、その笑顔を護り続けていられたのか?

……………………………………違う。

ここに連れてきて間もないというのに、あかねの涙を見たのはこれで二度目だ。
今流している涙の原因が中将にあったとしても、最初に彼女の瞳から涙を溢れさせたのは誰のせいか…………考える余地もない。友雅自身だ。
それは自分とあかねの間にある距離に恐れながら、その隙間から他人の気配が入り込む時を常に怯えて過ごし、自分を見失いながら我が侭に熱情を形に表して…それを彼女に押しつけたせいでこぼれた涙だ。

最愛の彼女から涙を溢れさせた意味は、友雅の心の中に重苦しい闇を落としていた。もはやわずかな光しか差し込まず、右往左往するにも足下がおぼつかないほどだ。
手が触れるほど近くにいるはずなのに、これほど想いを募らせているのに……今の友雅にはあかねとの距離がどれほど空いているのかも計れないでいる。

幸せにすると言って連れてきたことを……その言葉を守り抜けるだろうか……。


ぽん、と肩に何かが当たった。
我に返った友雅が顔を上げると、すぐ隣に中将が立っていた。おそらく彼の手にある扇が友雅の肩を叩いたのだろう。
「何をぼんやりしている。奥方がお心を病んでいる様子だ。慰めるのはおまえの役目だろう?」
そう言っていつものように彼は穏やかに微笑むと、もう一度リズミカルに扇で友雅の肩を叩いて御簾を上げた。それはまるで、友雅をあかねの方へ誘導してるかのようだった。
「中将殿………」
部屋を出ていこうと背を向けた彼は、友雅の声に立ち止まって静かに振り向いた。
「奥方の涙をぬぐうのはおまえだろう?運命に逆らわずに、その腕で抱きしめてやると良い。おまえにしか出来ぬことだ。」

そう言った中将の言葉は、何故か友雅の胸の奥にゆっくりと染みこんでいき、わずかにその闇の色を薄めたような気がした。

そして、友雅は姿勢を御簾の向こうに移した。

そこには、誰よりも愛おしい少女がこちらを眺めていた。



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Megumi,Ka

suga