 |
 |
天体観測
|
|
 |
| 018 |
 |
 |
 |
以前に屋敷に来た時とはうって変わって、庭の手入れは美しく行き届いていた。
池の水の澄みきった色も太陽を受けて輝きを増し、常緑樹の鮮やかな緑も目に眩しいほどだった。
「この間やってきた時に見た庭と同じものとは思えないね。貴女が手入れのお願いをしたのかな?」
中将は振り返ってあかねにそう言うと、少しためらいがちに彼女は答えた。
「い、いえ…あの…友雅さんが……お手入れを頼んだみたいで……」
「なるほど。そういうことに関しては……良い趣味をしている男だな、あいつは。」
木々と池の配置感覚や、四季の花の彩り等の構成を改めて考えてみると、常に何かしらの花が部屋から臨めるようになっている。
もうすぐ秋がやってくる。池にしだれるほどこんもりと生えている萩が花咲けば、どれほど美しい景観が眺められるだろうか。
「あの……友雅さんじゃなくて、私に…用事って………」
「ん?ああ…失礼した。貴女のためにやってきたというのに、庭などに見とれてしまうとは…」
そう言って彼は身体の向きを戻し、あかねと対面する形になった。
「…貴女にね、逢いたかったものだから…やってきてしまった」
ゆるりとした風と共に、彼の声が漂った。
「昨日お会いしたばかりじゃないですか。それじゃ毎日逢わないといけなくなっちゃいますよ」
中将の言葉を受け取ったあかねは、そう言って明るく笑って答えてみせた。
華やかで艶やかな雰囲気ではないが、素朴で暖かな色合いの愛らしい花が一斉に咲いたような、そんな面影のあるあかねの笑顔だ。
「……毎日ね。そう、友雅が羨ましいね。毎日いつも、貴女の笑顔を側に置いておけるなんて夢のようだ」
つぶやいたあと、中将は腰を上げてあかねの近くに移動した。
肩が触れるほど近づいてから、馴染んでいる香りが違うことにあかねは気付いた。
たまに伽羅を合わせる友雅の侍従よりも、もっと伽羅が強く香る。それが中将の香りなのだろう。
龍神の神子の頃、八葉はそれぞれ好きな香りがあるのに気付いた。
しかしそれは単に『香りが好きだ』という意識だけであって、常に香をたいて香りを身体に染みこませて楽しむほどの者は殆どいなかった。
だから、いつも香りを携えている友雅の侍従の香りは強く印象に残っていたのだ。
ふと物思いにふけっていると、中将の手があかねの袿の袖に伸びた。そしてその衣に、彼は唇で触れた。丁寧に染め上げられた紅梅色の衣に、若々しい香が忍ばせてある。
「ちゅ、中将さん!?ど、どうしたんですかっ!」
うつむいた顔を上げて、彼はあかねの大きな瞳を見つめる。そしてその頬に手を伸ばす。
「貴女の笑顔を、私も毎日…とは行かなくてもいい。側で…眺めていたいのだが、それはならないだろうか?」
「えっ……………?」
いつもよりも、中将の瞳は優しかった。決して強い眼光などは帯びていないのに、しっかりとした視線を感じるのは、その瞳自身の力が強いからなのかもしれない。
その瞳で彼はあかねを見つめ、静かに言葉を続けた。
「貴女を見ていると、私は不思議な気持ちになる。心が暖かくなって行き、次第に胸が熱くなってくる。そして…貴女から目が離せなくなるのだ。」
彼はあかねの手を取り、自分の両手でそっと包み込む。
「ずっと…貴女の事が頭から離れずに…今日もここまでやってきてしまった。もっと近くで、貴女と知り合いたいのだ。」
「ま、待ってください!それって…あの……」
あかねが尋ねる言葉を言い終える前に、彼は一つの歌を詠んだ。
--------夜もすがら 物思ふこころは明けやらで 閨の隙さへつれなかりけり---------
「私の心を受け入れては…もらえぬか?」
歌の意味は分からなかった。しかし、その後に続いた彼の言葉の意味がどんなものなのか、さすがにあかねにもすぐに分かった。
そしてそれに連動して、さっきの歌が恋の歌だったのではないかと悟った。
「中将さん!私は……私…は、友雅さんの………」
あかねは強く言いかけて、ふと思いとどまる。そんなことは彼も周知の事実だ。ここで口にしたところで何も変わることはないだろう。
あかねが友雅の妻であることを承知の上で、友雅と夫婦だということを知った上で…彼は恋の歌をあかねに捧げた。それは………そう、そういう意味だ。
「しのぶ恋でも構わぬのだ。私には妻も子もいる。それは貴女も存じていることだ。それでも…私は貴女への想いを断ち切ることは出来ぬのだ。」
彼の手が両肩を掴む。そっと優しく、触れるように。
「友雅と別れてくれとは言わぬ。だが…ひとときでも良い。わずかな時間で構わぬ。私と……逢瀬を重ねる時を、ほんの少し割いてはくれないだろうか?」
薄い唇を近づけながら、あかねにそう囁くように彼は言った。
甘い言葉。優しくて、艶やかな声。聞いていると心が落ち着いてくる。
だけど……本当に欲しいのは、この声じゃない。
もっと甘美で………心が躍るような……あの人の声での囁き。
唇が触れ合う寸前で、中将はきらりと光るものを目にした。それは、閉じられたあかねの瞼の奥からすっと流れ落ち、頬に触れていた彼の指先を濡らした。
「……ごめんなさい。私……考えられないです。」
瞳を閉じたまま、あかねは少し声を上擦らせて答えた。
「私を嫌っておいでなのかな……?」
「そんなことないです!そんなこと…全然ないです……でも……」
「ならば、想いを少しで良いのだよ?二人だけの……秘め事としてでも…」
「でも…駄目です。私……私は………っ……!」
中将が手を緩めてくれるとは思ってはいなかった。おそらく本気で力を出せば、友雅よりも上にいる武官である彼のことだ。簡単に組みしだかれてしまうかもしれない。
だが、それでもあかねは精一杯に上体をよじって、彼の誘いをはねのけようとした。
「……どうしても……ここで生きていくと決めた時から………私…友雅さん以外の人を…想うことが出来ない……!」
涙の混じったあかねの声が、部屋の中に響いて途切れた。
-----------どうしてこの京に残ることを決めたのか。
何がここへ自分を引き止めたのか------------------
あの時のことを思い出せば、すぐに分かることではなかったか。
-----------------------『行くな…神子殿!!』
今も胸に焼き付いている声。
それが自分を思いとどまらせたのだ。
友雅が自分を呼ぶ声が聞こえたから、戻る道を引き返したのだ。
彼の声でなくてはならなかった。
彼でなくてはならなかった。
引き止めてくれたのが彼だったから。
好きだった人が、自分を呼び止めてくれたから………ここに残った。
そこに愛や恋がなかったとしても、例えそれがとっさの思いつきの叫びだったとしても、この世界に残って彼の姿を見ながら生きて行ければ良いと思ったからだ。
この想いが実らなくても良い。
元の世界に戻って、友雅の姿をどこにも見つけられない世界で生きていくことが嫌だった。
何かしらのつながりを持ちたくて…神子と八葉として出会った絆を、少しでもつなぎとめておきたくて………。
涙があふれ出してくる。止める術など思いつかない。
こんなにまで友雅を好きでいた自分に、何故気付かなかったんだろう。そんな自分が悔しくてたまらなくなる。
素直に友雅の心を受け止めて、それを笑顔で抱きしめれば良かった。
本当はそうしたかったはずなのに、妙な固定観念が邪魔をして身動き出来ずにいるうちにタイミングを失った。
それもまた……彼を愛しているからこそのことだったのに。
※文中の歌。小倉百人一首より引用。詠人/俊恵法師
歌の意味……振り向いてくれない貴女を想い、この頃はずっと夜通し物思いに耽っています
夜は長くなかなか明けず、部屋の戸の隙間さえも白んで来ない…つれない日々を過ごしています。
|
 |
|
 |