天体観測

 016
牛車に辿り着くまで、一度たりとも友雅はあかねを抱いたまま離さなかった。『重いだろうから』と何度も言ったが、友雅は聞き入れてくれなかった。
やっとのことで牛車に乗り込み、ようやく身体が引き離された。幾度かの振動ののち、車はゆっくりと町中へと走り出した。

黙って屋敷を抜け出してきたこと、誰も供をつけないで出歩いてしまったこと。きっと友雅は呆れているに違いない。
さっきこぼされた溜息が重くのしかかって、あかねは何も話しかけられなかった。

「……これ以上、心配させないでもらえるかい?」
ごとり、ごとりと車が揺れる。上から下がっている吊り香炉から、かすかに侍従の香りが漂っていた。
「私がやってきたから良かったけれど、内裏は広い。迷って曲者にでも連れ去られたらどうにもならないよ」
「…ごめんなさい…。でも、中将さんがいてくれたから………」
あかねがそう言うと、それまで目線を反らしていた友雅が真っ直ぐにあかねの方を見据えた。
「中将殿と、ずっと話をしていたのかい?」
「あ、うん……。色々と…なんか話し込んじゃって。すごく穏やかに色々聞いてくれるから、なんだかこっちも話そうかなって気持ちになって…ホント、いろんなことずっと話してて………」

嫌な気分がした。
耐えられなかった。
心の抑制ができなくなった。
全身が、心のすべてが--------自分の本心だけで動き始める。

「友雅さ……っ!!」
強い力で引き寄せられた腕の動きに戸惑って、そのまま姿勢が後ろに崩れた。
さっきの香炉から漂う香りじゃない。もっと強い…侍従の香りがあかねの身体を包み込む。きつく抱きしめられた友雅の腕の感覚と、覆い被さる全身の重み。そして、激しく求められた唇。

昨夜、床の中で受け止めた唇とは別物だった。熱い。熱が口を通じて流れ込んでくる。
燃え上がる感情が、容赦なくその力と唇からあかねに注がれてくる。
「やっ…だ……友…っ」
顔を反らして唇を引き離そうとしたが、仮にも武官の友雅の力にあかねがかなうわけもない。そのまま押しつけられた唇はあかねに再び重なり、言葉さえ発せなくなった。

はじめて、友雅を怖いと思った。それと同時に、彼から差し出される『男』の愛情の心の破片が、どれほどに女の自分に手に負えないものなのかを知った。
気付くと、瞳から一筋涙がこぼれ落ちていた。

「……悪かった」
ふっと体に自由が戻って、怖々と目を開いた。上から見下ろしている友雅の瞳が、あかねの一筋の涙を見つめていた。
そっと親指でこするように涙のあとを拭く。しかしまた、涙は続いてこぼれ落ちてくる。そして、ついに頬が涙でいっぱいになった。
友雅はあかねから離れた。そしてゆっくり目を閉じて、天を仰ぐように呼吸を整えた。

どうしようもない。何故、こんなに激しい愛を知ってしまったのだろう。
あかねの口が中将の話を始めたとき、言いようのない気分の悪さを感じた。
その唇を塞いでしまえば良い。何も話せないように、塞いでしまえば………と考えた瞬間だった。

-----大の男が嫉妬に狂うなんて…ね。我ながら情けないこと極まりないよ…。

何度、こんな想いを繰り返しているのだろう。
一生、二人で生きていくことを決めたばかりだと言うのに。

■■■


屋敷に帰ると、侍女たちが揃ってあかねの姿を見て胸をなで下ろした。特に祥穂はあかねの無事を知ると、その場にひれ伏して喜びを噛みしめた。
「もうお一人でお出歩きになるのはおやめくださいませ。」
まるでこの世界にやってきた頃に、藤姫があれやこれやと自分に世話を焼いてくれていたように祥穂は言った。その姿を見ていると、来たばかりの頃が懐かしくなった。

----あの頃の友雅さんと…今の友雅さんて、何だかちょっと違う人みたいな気がする。
そう感じたのは何故だろう。
あの頃の、少し離れたところで物事を眺めている、傍観者のような風貌。それが今はないような気がする。
情熱を抱くことをあざ笑っていた彼の姿は、もうここにはいない。抱きしめてくれる腕や、重ねられた唇に…確かに燃える何かを感じる。

さっき……。『悪かった』と友雅は言った。
本当はあの時、どういう風に対処すれば正しかったのだろう。どう受け止めれば、友雅と対等になったのだろう。
この京の女なら……友雅の熱情を怖がらずに受け止めなければならなかったのではないのか。
それを友雅は望んでいたのではないのか。

情熱に慣れていないあかねの体と心は、どうしても無意識のうちに抗うことを思い出してしまうのだ。
大人にならなくてはいけないのだ、友雅の考えに追いつかなくてはならないのだ。
何度も中将に言ったではないか。
それなのにいざとなると、阻止することしか考えられなくなるのが情けなくて、悲しい。
いつまでたっても、友雅との距離は近くならない。いつまで経っても、大人になれない。

「殿は……優しくしてくださいますでしょう?」
着替えの手伝いを終えた祥穂が、あかねの髪をすくいながら尋ねた。あかねは、どう答えて良いのか分からなかったので、そのまま黙っていた。
「本当に殿は、奥様のことをずっと想ってらっしゃいましたからね。」
「……いました…?」
あかねが振り返ると、祥穂は微笑んでうなづいた。
「八葉のお勤めをされていた頃から、ずっと…想っていらっしゃいましたよ。それまでの殿のお姿から思いつかないほどに。そのお姿が微笑ましくもありましてね、私達も様子を楽しんでおりました。」
祥穂は昔語りをするかのように、友雅のことを語り出した。

庭先で花が咲けば、その中で一番美しい一輪を摘みあげて、朝にでも届けに行ってやろうか考えていたり。
清涼殿に上がれば、そこで見かけた女房たちの袿の重ねを見て、あかねならどのようなものが似合うかと考えてみたり。
いつもどこかで、あかねの姿を重ねていた。ずっとどこかで、友雅はあかねのことを想っていた。
「八葉のお勤めをなさってから、あちこちの姫様のお屋敷に一切通わなくなりましたしねえ。これはもしかすると本命のお方が現れたのでは…と、私達もあれこれ考えたものです。」
「そんな……。ただ、八葉のお仕事が大変だから…じゃないんですか?」
あかねがそういうと、突然祥穂は何かを思いだしたようだった。そして、『少しお待ち下さい』と告げたあと、あかねを残してその場を立ち去った。

しばらくして祥穂が、小綺麗な蒔絵の施した小箱を持ってきた。そしてその蓋を開けると、いくつかの文が後生大事にたたんで仕舞われていた。すべて、見覚えのある文だった。
「奥様から送られたお文ですよ。全部きちんと、この箱に仕舞われておりますのです。それに、添えておられた花の小枝も、この中にしまっておられます。」

懐かしい想いがよみがえる。藤姫と何度も相談しながら、どんな和紙と花を添えれば友雅が喜んでくれるか悩んだこと。物忌みの日に友雅を呼ぶ時、どんな出で立ちでいたら友雅が喜ぶか……。

同じだ。祥穂が言っていた友雅の姿と同じ。
いつも、どんな風にしていれば友雅の喜ぶ顔が見られるか……と考えながら、悩みつつも楽しく時間を過ごしていたこと。
喜ぶ顔が見たくて。喜んで欲しくて。その笑顔を見られたら、幸せな気持ちになれるから。
その人の笑顔が、何よりも自分にとって大切なものであるから。

好きだから…………。




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Megumi,Ka

suga