天体観測

 012
息を殺していればいるほど、胸の鼓動はどんどん早まって乱れていくような気がする。
意識しすぎているのかもしれない。互いの存在をあまりに強く、熱く感じ取ってしまっているからだろう。

「さっきから、ずっと考えていたことなんだけれど…。君の世界ではどうなのか分からないが、こちらの世界ではね、妻は主のことを『殿』と呼んでくれて良いんだよ」
曙色を模したような色合いの扇を手に、友雅が言った。そういえば祥穂も、同じように友雅を呼んでいたような気がする。
「じゃ…あの……と、『殿』……?」
言われるままに口を開いてみたが、ぎこちなさと気恥ずかしさが抜けきれない。あかねが自覚している以上に、友雅の目から見ても一目瞭然だった。
「いきなりすぎたかもしれないね。まあ…いいよ、今のままで呼んでくれて構わないさ。ただ、私は君を今までと同じように、『あかね殿』と他人行儀に呼ぶわけには行かないからねぇ」
あおぐ扇の風に乗せて、ほのかに香が流れる。

「あかね」

初めて、名前で呼ばれた。
天真やイノリ達からは平気で呼ばれていたのに、友雅の声で呼ばれるのは初めてだった。
きゅん、と胸を締め付けられるような気持ち。そしてじわりと暖かく広がっていく何か。
それらがどんどん体中に流れ込んで行き、いつしかあかねの頬に暖をとるかの如く紅を差す。

「-----失礼致します。夕餉の支度が整いましたので、お伝えに上がりました」
障子の向こうに、しとやかな身のこなしで手をついている女の影と、声が聞こえた。友雅は一度そちらを振り向いて、もう一度あかねを見た。
「では、あかね、向かおうとしようか」
友雅は手を差し伸べる。そして彼の手に支えられるようにして、あかねは少し足に絡みつく袿の裾を後ろに流した。

■■■


友雅の地位と、これまで住んでいた藤姫の屋敷--つまり左大臣家の地位とでは、明らかに左大臣家の立場の方が上である。故に、華やかな生活習慣ということでは比べようがない。数人の姫が暮らしているという環境もあるが、見栄えのする風格は友雅の正五位下程度とは桁が違う。
何となくそれは分かっているつもりだったが、夕餉の卓に並べられたものはきちんとした造りのものばかりだった。
白米の強飯、アワビやハマチ、以前、観月の宴に呼ばれた際の仕立てとは違い、日常的に作られたものばかりだが上品な味付けのものが揃っており、あかねが今まで左大臣家で過ごした食生活よりも、もしかすると上級と言って良いかもしれない。
「いつもは殿お一人でらっしゃいますから、私たちも調理のし甲斐がなくて…。つい質素な造りのものばかりになってしまっておりましたのですが…これからは奥様のために腕を振るい甲斐がありますわ」
そう微笑みながら、祥穂は酒の入った白磁器の瓶子と杯を友雅のところに運んできて、彼の足下に置いた。

おそらくこういうときは、自分が酌してあげるのがしきたりなんだろう…と思い、あかねは友雅のそばに移り、彼の手に添えられる白い杯に酒を注いだ。
そういえば昔、お母さんがお父さんのお酒のお酌をしてたっけなぁ…こんな感じで……。
ぼんやりあかねは、遠い自分の記憶を思い浮かべる。
今、父と母のように…自分は同じような情景を描いている。これからずっと友雅のそばで、彼と共にずっと生きてゆくのだ。

「どうかしたかな?」
「えっ?ううん…別になんでもないです」
あかねは首を何度も横に振った。
いろいろな余計なことまで考えてしまいそうで、収拾がつかなくなりそうだったから。


■■■


寝所の灯りは、まるで蛍が数匹飛び回っているか、というほどのわずかな光があった。そのせいで外の闇の深さが一層引き立っている。
部屋が暗いから、あかねの白い寝着が浮き上がってくる。真っ白な、汚れのない薄手の衣に包まれて、息が詰まりそうな緊張感の漂う部屋で、友雅と二人だけ取り残された。
外からは風の音さえも聞こえない。不気味なほどに静寂が広がる。
少し動けば衣擦れの音がして、必要以上に神経が敏感に反応する。

「あかね、こちらにおいで」
友雅が手を広げる。名前を呼ばれて、あかねはそっと顔を上げる。
いつものように、友雅は静かに微笑みを浮かべている。

「………っ」
両腕で思い切り引き寄せられると、そのまま体が友雅の胸の中にうずまる。もえぎ立つような侍従の香りが胸元から漂って、あかねの鼻をくすぐった。
友雅のしなやかで長い指先が、頬に触れた。両頬を包むようにして顎の角度を上向きにずらされる。
言葉をつぶやく代わりに彼の唇はあかねの唇を塞いだ。

いきなりのことだったが、どことなく予想していた展開。受け止める必要性があると分かっているが、重なる友雅の唇の熱さに、目眩に近い感覚に襲われ、そして動悸が早まった。

ふと、ほどけた友雅の手があかねの細い手首をつかむ。一旦唇が離れる。
彼の髪が揺れて、一筋の河の流れのように肩から落ちる。長い毛先が、あかねの首筋に当たってくすぐったい。つまり---上から……見下ろされているのだ。
友雅に両手を捕まれたままで、あかねは御帳台の上に寝かされていた。天井は…見えない。その代わりに友雅の顔が見える。
再び彼の顔が近づいて、目の前に影を落とした。あかねはもう一度目を閉じた。
だが、友雅の唇はあかねの唇をすり抜けて、彼女の首筋へ場所を移した。

びくっと身体が大きく震えた。そしてそのあと、頑ななほど神経のすべてが硬直した。
まるで金縛りにあっているような…そんな感じだ。
なのに、体温は上昇してきて、そしてあちらこちらで脈打つ音が聞こえて。
だけど身体が動かない。友雅に手首を捕まれているからではなく、あかね自身の行動が何かの衝撃によって閉ざされてしまっている。
強く……目をつぶった。


ふっ、としばらくすると身体の一部を押さえつける力が急激に抜けた。友雅の手があかねの手を離したからだった。
意外と思える展開に、あかねは懸命に閉じていた瞼を開いた。今さっきまで上から重なり合おうとしていた友雅の身体が、彼女の横へと滑るようにずれていった。

「…友雅さん……?」
ほてるようにまだ熱い体を少し起こして、隣に横たわって無造作に髪をかきあげた友雅をあかねは見た。
「もう夜も更けてきた。夏の夜は明けるのが早いからね…そろそろ眠りにつこうか」
そう言った友雅は、いつものように静かに笑顔を浮かばせる。
あかねは少し戸惑いを残していたが、うなづいて床に入ることにした。

……でも、重なり合って触れた友雅の唇の熱さが、まだ首筋に残っていて眠るのには時間がかかった。






目を閉じたまま、物思いに耽った。
自分らしくないな、と何度思ったことか。
今更のことだが…あかねに関わると本当に今までの自分らしさが音を立てて崩れてゆく。
こんなに自分の身構えが緩いものだとは思ってもみなかった。

いつもなら……いつものように恋を気軽に楽しむことが出来たとしたらいいのに、真っ直ぐ目の前にいる彼女のことを真正面から捕らえてしまうと、何故かそれが出来ない。
すべて、自分のものにしてしまいたいと思っているのに。
こうして我を通して連れ去ってきたというのに………まだ、幼さが残る彼女を。

月明かりより、まだ太陽の下が似合う彼女を。


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Megumi,Ka

suga