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天体観測
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| 010 |
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巷ではかなり話題が尾鰭を付けて、華やかに彩りを加えられて広まりつつあった。
何せあの、京の女人の羨望の中心と呼ばれた橘友雅左近衛府少将が、ついに正室を迎えたというのだから賑わいが止まるはずがない。
大内裏ではあちこちの女房たちが、あの少将の心を射止めた姫君とはどんな方だろうか、と囁き合っている。
そしてまた、貴人の殿方たちは口を揃える。
-----少将の射止めた、土御門の姫とは…一体どんな姫だったのか?
友雅は清涼殿に呼ばれていた。帝より、命が上がったからだ。
廊下を歩くと、あちらこちらの部屋から女性の声がかかる。
「貴方様の心を支配した姫君は、あの太陽のように眩しい美しさを放っておいでなのでしょうか」
その言葉に、友雅は立ち止まって笑った。そして、几帳の向こう側に聞こえるような声で答える。
「…太陽というよりも、月のような光を持っているようです。闇を明るく照らす灯の偉大さ……輝き、貴女もご存じなのではないですか?」
そう、言わば闇の中に差し込む月の光のようだ。あかねの存在は、それほどに明るく、そして友雅の心を和ませる。
しかしその反対に、締め付けられる熱い切なさまでも与える。
■■■
「おまえもついに、腹をくくった…というわけだね。清涼殿でも女御たちの話題はそのことでもちきりだよ」
友雅が腰を下ろしたとたん、笑いながら帝が言った。
「引く手数多の女人たちの白指をはね除けて、友雅が心を奪われたのはどんな姫なのか、私に教えてはもらえないものかね?」
「……話好きの方々に囲まれた帝の事、少々はお耳に入っているのではございませんか?」
「まあ、な。土御門の…左大臣の姫君と聞いたが…?」
「おっしゃる通り、相違ございません」
目を伏せて少し笑みを浮かべて答えた友雅に、帝はますます興味をそそられたようだった。
「会ってみたいものだね。この頑固者を崩した姫を拝んでみたいよ。一度連れて来ると良い。盛大にもてなして差し上げようではないか」
「帝にそこまでおっしゃって頂ける立場ではありませんよ」
「いやいや、せっかく楽しみにしているのだから遠慮などしなくて良い。私も友雅には世話になっているからな。奥方にも礼を言わねば」
「……そのような勿体ないお言葉を」
帝と友雅の会話をそばで聞き耳を立てている、侍女たちの好奇心も半端ではなかった。何せ友雅が清涼殿に上がる時には、集まる侍女や女房たちが二割ほど増える始末だ。
それほどに女人の心を惹き付けた友雅が選んだのは、どんな女性なのか……帝だけではない。誰もが気になっていることだった。
■■■
帝に言われては断る事もできない。あかねを清涼殿へ上がるためには、またあれこれと用意を調えねばならないだろう。婚儀を盛大に行うなど考えてもみなかったが、こういうことが続くと何かと面倒だ。
「やれやれ……もう一式、袿をあつらえてもらわねばならないかな」
あかねが屋敷に来る前に、数着の袿は用意して作らせてはおいたが、帝の前に行くとなれば別問題だ。まさかこんなことがあるとは考えても見なかったのだから当然といえる。
友雅は知人の口利きで知り合った袿の誂え屋の所へ向かおうと、内裏内を歩いていた。
「友雅殿、しばらくぶりですね」
聞き覚えのある声が耳に届いて、友雅は振り返った。
長い髪を束ねて、理知的さを際だてる眼鏡をかけた真面目そうな青年----鷹通の言うとおり、八葉の役目が終了してからは、同じ内裏での仕事に就いているというのに顔を合わせることは滅多になかった。
「鷹通か。随分と君の顔を伺っていなかったような気がするね。昨年の今頃は神子殿と共に毎日のように会っていたというのに」
「そうですね、久しくお会いしておりませんでしたが……友雅殿のお噂はかねがね耳にすることがありましたので、お元気でおられることは存じ上げておりました」
どんな噂か…と考えて、おそらく良いものばかりではないと思うが、そんなことまで気を使っていても仕方がない。友雅は静かに笑みをこぼしてその場を凌いだ。
が、鷹通が口を開いた。
「ところで……御結婚されると、噂で聞きましたが……」
やはりここまで噂は広がっていたらしい。多分帝の言うとおり、大内裏では隅から隅までこの噂が広がってしまっているだろう。納屋に巣くっているネズミでさえ耳にしているかもしれない。
「……お相手の方のことも、お聞きしましたが………」
「……既に私の屋敷で共に暮らしているよ。全て事もなく済んで、晴れて私も本当の『殿』になったというわけさ」
夏風には珍しく、吹き抜けた風は涼しく感じる。天気は暑さを増幅させるほどに青い空が広がっているが、何故か今日は蒸し暑さを思い出させない。
「神子殿とは……ずっとそのようなお付き合いをされていたのですか…?」
友雅は風を顔全体に受けた。そして目を閉じた。
いつだって思い出そうと思えば、すぐにでも浮かんでくるあかねとの日々。
出会ったときのこと、少しずつあかねと自分との距離が近づき始めた頃のこと、あかねに対する想いに気付いたときのこと……忘れることなど出来ない。
「私はずっと、こうして一緒に生きていくことを考えていたよ…ずっとね」
「…神子殿を幸せにして差し上げるつもりで…のことなのですね?」
念を押すように強く問いただす鷹通に、友雅は笑顔で答えた。
「その自信がなかったら、決断なんてしないよ。それと…鷹通、もう彼女は神子ではないのだから、名前で呼んで差し上げた方が喜ぶよ」
多分、いや…きっと友雅が本心で言った言葉なんだろう。何一つ、人工的な言葉などではないのだ。彼が本気で目の前のことに手を触れた時、誰一人として簡単には近寄れなくなる。
友雅の手は、あかねに触れている。それは彼女に一生を捧げることに違いなく、彼の目には浮き足だったものなどなにもないことを鷹通は確信した、
「友雅殿も…あかね殿も…どうぞお幸せに」
そう一言鷹通は告げてその場を去ったが、たった一つ彼が気になったことは………早急に決断を下した彼の焦りが、一体どんな意味があったのか、それだけが解読出来ないことだった。
■■■
夕暮れとは言っても、まだ空は明るい。星も見えず、月さえも覗かない。小鳥達は庭をさえずっているし、もうすぐ夕刻だとはとても思えない。
ばたばたと母屋の方では侍女たちが忙しそうだ。部屋にいても何一つすることもなく、暇を持て余していたあかねは立ち上がって母屋の御厨へ顔を出した。
竈から吹き上がる白い湯気。夕飯の支度をしているらしい。
「あの〜……何かお手伝いしましょうか〜?」
「きゃあああっ!奥様!なりません!お部屋にお戻り下さいませ〜っ!!!!」
とたんに何人かの侍女があかねに飛びかかってきて、総出で彼女を取り囲んで部屋へ連れ戻そうとした。
その時、玄関先から祥穂が足早に戻ってきてあかねに言った。
「奥様、殿がお戻りになられましたよ」
牛車の音が、外から響いた。
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