天体観測

 007
退くことが出来なかったのは、この想いが真剣だったからこその結果だ。
相手が中将であったということに特別な意味はない。どんな男が相手であったとしても、きっと結果は同じだっただろう。

朝もまだ早い。霧がうっすらと庭に漂って、まだ夢の中にいるような幻想的な世界が広がっている。
彼女をこの手から離れないようにするための、最終手段はこれしかなかった。
あの日の中将の驚いた顔が、まだはっきりと脳裏に焼き付いている。

「君に出会ったおかげで…私は自分でも驚くくらいに情熱的になってしまったようだよ……」
あかねに似た小さな庭先の花に向かって、ぽつりと友雅は苦笑いを浮かべてつぶやいた。

■■■


その日の朝、藤姫の父、つまり左大臣があかねの部屋を訪れた。後ろには藤姫も着いてきている。
しかも二人の表情は、清々しい朝とは不釣り合いなほどに硬い。

「一体、いつからそんな約束をされておられたのだね?」
いつもなら穏やかそうな彼の表情が、異常なほどに真剣な面もちだ。そして藤姫も柔らかな表情が見られない。
「……な、何のことですか?約束って一体…何のこと?」
あかねは、うろたえた。
何かあっただろうか?忘れていたことなど……別に思いつかない。そんなに二人が真剣な顔つきを浮かべるくらい、重要なことなら尚更忘れたりなどしやしない。
「あかね様…せめて一言、この藤にご相談して下さればよろしかったのに……」
「え?ちょ、ちょっと待ってよ…ねえ、どうしたの?」
寂しそうに藤姫はうつむく。あかねは立ち上がって彼女の肩に手を伸ばそうとした。
小さな肩を落とした彼女の姿は、とても小さなものに見える。

「貴女も年頃の娘だ。いずれ…いや、近いうちにそのような話が聞こえてきても不思議ではなかったが………」
左大臣が神妙な顔で話を続けていると、かたん、と廊下の方から音が聞こえた。それに続いて、数人の侍女が足早に歩いてくる足音と衣擦れの音。

「友雅殿………!」
最初に振り向いた藤姫が、そこにいる彼の姿を見つけて名前を呼んだ。それまであかねを見つめていた左大臣までもが、即座に反応して振り返る。
「橘少将殿……」
何とも表現しがたい表情を浮かべた二人の視線を交わして、友雅は部屋の奥にいるあかねの姿を見た。
「あ、いらっしゃい友雅さん」
あかねは無邪気に笑って、小さな手を振ってみせる。
おそらく例の話題は、当の本人にはまだ耳に入っていないのであろう。
一瞬でこの場の雰囲気を悟ることなど、誰でも出来ることだ。まさに、その瞬間に今足を踏み入れたと言っていいだろう。

「あかね殿、お迎えに参ったよ」

そう言って友雅はあかねの前に手を伸ばした。何の疑いもなく、彼女はこれまでと同じように彼の手を握って立ち上がった。
「あれ?今日お約束していましたっけ?私……」
あかねは首をかしげて、あれこれと想い出してみる。が、これと言って何も思いつかない。
しかしさっきの左大臣と藤姫の事といい、もしかして本当は何かを忘れているんじゃないだろうか?とも考える。
こちらの空気の流れに馴染んできてはいると思ったが、現代から比べたら時間の流れは小川の流れよりもゆるやかだ。そのせいで思考回路が少しのんびりしてきているのか…などと、あれこれ考えつつ顔を上げると友雅はあかねの手をしっかりと握って微笑んだ。

もう決めてしまったことだ。逃げる道はない。

友雅はあかねの手を握ったまま、後ろを振り向いた。
「左大臣殿、既に今回のお話はお耳に入っておられるでしょうね」
友雅の目が藤姫と左大臣二人を同時に捕らえる。しばらくこわばった表情を崩せなかった左大臣だったが、彼の今までにない真剣な瞳に、圧倒されるが如く肩を落とした。

「……そのような約束をされていたのならば、何も申せることはないだろう。こういったことは、お二方の気持ちの問題であるのだから。」
複雑な顔をしながらも当然のことを口にする左大臣とは正反対に、藤姫の方はと言えば友雅の顔を見上げようともしない。機嫌が悪いというよりも、あかねがこのようなことになってしまった事に寂しさを抱いているせいなのだろう。

「ねえ、みんなどうかしたの?友雅さん……今回のお話って、何かあったんですか?」
ぽかんとして、この空気の中に混じっていけないあかねは友雅に尋ねる。しかし彼は華やかに笑顔を返すだけで、何も答えてはくれない。
「あの…お義父様?何かあったんですか?約束とかなんとか……私、全然話が見えないんですけど……」
今度は義父である左大臣に尋ねようと彼の方を向いた。しかし硬い表情のままだ。いつもの優しい表情がない。

「あかね…よく聞きなさい」
左大臣が、これまでになく強く、そして厚みのある口調で姿勢を正してあかねを見た。

「あなたは、橘少将の北の方となるのだよ」

「………………………は?」

一瞬、何を言われたか把握できなかった。
「これからは少将殿と共に、生きて行くのだよ」
そう言われても、この目の前の状況があかねには不透明すぎて見えてこない。
北の方に…なる?友雅の北の方………それは、婚姻の意味ということ……か?

理解できない現状の進行に唖然としたままのあかねをよそに、友雅たちは難しそうな会話を続けている。
「ところで、いかがなさいますかな少将殿。婚儀が済んだ後は、あなたが今まで通りに屋敷に通って頂くことで構いませんのか?」
まだ婚儀についての詳細も決まらないままだが、これからのことは早いうちに決定していた方が何かと用意もしやすいものだ。今まで我が子のように慕い続けたあかねのことである。それなりの儀式を終えさせてやりたいと左大臣は親心を強く抱いていた。
そんな想いは、友雅にも痛いくらいに伝わってきた。しかしあかねに対する想いは友雅とて引けを取らない。
「……いや、左大臣殿がお許し頂けるのであれば、彼女は私の屋敷に住まわせたいと思うのだけれど。」
「…少将殿のお屋敷に、ですか」
「ああ。元々彼女はこの世界の者ではない。いわばこちらでは孤児と同じ様なものだ。ならば共に屋敷で暮らすことも問題ないだろう?」
左大臣は何も反論は出来なかった。これまでずっと娘のように思っていたあかねではあるが、彼女が自分たちと血のつながりがないことは間違いなく、今後他の貴人と縁を結ぶことになったとしても、そのことが彼女にとって枷になってしまうことも考えられる。
それならば友雅の言うように、何もかも知っている彼のそばで暮らしていくことがあかねにとっては一番良いのではないだろうか……。

「ならば、これから忙しくなりそうですな…。あかねが不自由せぬよう用意を整わなくてはならぬ」
「左大臣殿、私が彼女を不自由させるなんてこと、させると思いますか?」
友雅はそう言って微笑む。その笑顔を見上げ、左大臣は苦笑してホッとため息をついた。

「藤、侍女の芙香たちと共に、あかねを連れて支度をさせなさい。それと、一番良い袿を手配するように。」
藤姫は父の言葉を聞き、あかねの顔を見上げた。
今にも崩れそうに、寂しげで、その大きな瞳から涙がこぼれてきそうなほどに潤ませて。
「……はい、父上…」
立ち上がって、あかねのそばに行く。続いて数人の侍女たちがあかねを取り巻く。
「では、あかね様、あちらへ……」
「ちょ、ちょっと待って……あの…これって一体どーなってるの?私、話が全然分からないんだけど……」
きょろきょろと慌てて周りを見渡す。

友雅は笑顔。
左大臣は寂しげな笑顔。
藤姫は…泣きそうな顔。
多様すぎる笑顔の色に、あかねは自分がこれからどんなことになっていくのか、不安よりも何よりも、足下が浮き上がっていてしっかりと前を見ることが出来なかった。



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Megumi,Ka

suga