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天体観測
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| 006 |
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久しぶりに夢を見た。
そう遠くない過去の夢だった。
離れそうになった手を引き留めた瞬間。はじめて彼女を抱き留めた時の感触。
既にあの時から、友雅の心の中では暖かい火が灯りはじめていたのだ。そんなことは今更ながら自分でも理解していたけれど。
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特にこれと言って大掛かりな事件は、今の京には存在していない。武官である友雅の仕事も比較的暇だと言える。
取り敢えず帝の御前にご様子を伺うために内裏に上がり、あとは気ままな自由時間と言ったところだろう。
「町は活気に溢れていると聞く。夏の暑さは厳しいものだが、それでも鬼の穢れが薄らいだせいだろうか、空気はとても澄んでいるように思えるよ」
友雅を前にして、帝はそうつぶやいた。
夏の太陽の光は暑い。田畑も乾ききっているだろう。そんな時に時折降り注ぐ雨が大地を潤し、やがて黄金色に豊かな実が顔を出す。-----自然が正しく動いているという証だ。
今宵も月が綺麗なことだろう。見上げた青空を瞳に照らして友雅は思った。
声を掛けられた何人かの女房たちと会話を楽しんでから、友雅は清涼殿を出て左近衛府へと向かって歩き出した。
「やあ、友雅。昨夜は失礼したね」
清涼殿を出て左近衛府へ向かおうと歩いていると、背後から肩を叩かれて振り返ってみると唐花の中将が雅やかに微笑んでいた。
「突然にいらっしゃるものですから、たいしたもてなしも出来ずに失礼致しました。一言いらっしゃると分かっていれば、それなりのお支度をご用意も出来たのですがね」
「そうだな。次の機会には早めに尋ねておこう。その際には私も手土産を片手に伺うよ」
「では、私も楽しみにお待ちしておりますよ」
こんな風な気の知れた男同士の会話も、こんな夏の日には清々しくて良いものである。
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散歩をするには日中の日差しは厳しすぎる。場所を移して大内裏へと戻った二人は、涼しそうに池の中を泳ぐ魚たちを眺めた。色とりどりに刺繍をあしらったような紋様の鯉たちは、彼らの視線も気にせずに軽やかに泳ぐ。
「見事なものだ。我が屋敷にも数匹池に放している鯉がおるが、さすがに艶やかさにはかなわぬな」
「確かに、この色合いに勝るものは女御殿方の衣模様くらいですかね」
「うむ。夏のこの時期は華やかな紋様よりも涼やかな色合いの衣が多いがな。それもまた良いものだ」
飾りの華美なものが美しいというわけではない。その底にある素材の色が全ての美しさを左右させる重要なものである。衣に関しても同じ。確かに女御や命婦たちのような宮仕えの女人たちには、この錦鯉のような美しい華やかな衣が似合うだろうが、紋様の少ない、色の美しい衣が似合う女人もいる。
あかねに着せるとしたら………薄い若草を溶かしたような、春らしい色が似合うだろう。はじめて出会った頃に咲いていた、淡い色をした桜のように。
「ところで友雅…夕べ、君の屋敷におられた姫君についてだが……」
友雅が思いに耽っていると、隣にいた中将がぽつりとそんな言葉をこぼした。
「あかね殿…と言ったか。彼の姫とは親しいのか?」
少し上目遣いに視線を上げて、中将は夕べの光景を想い出そうとしている。
「ああ、あの姫は……………」
中将の問いかけに、何と言って説明をした方が良いだろうか。友雅は声を詰まらせた。
何人もの男たちに彼女のことを詮索されて来た。この中将にも尋ねられたこともある。その度に上手く交わしてきた。素知らぬ振りをして、あかねの存在をやみくもにさせていたのだ。
それなのにここで、『彼女が、皆々の噂の中心にいる土御門家の姫君だ』と紹介など出来るはずがない。
もし、素性を知られてしまったとしたら。
そうしたら…………………。
「実に面白い姫君であったな。物腰はやや、粗雑な部分も見られたけれど、身につけている袿は良い仕立物だった。そう下の階級の家柄でもあるまい?」
「……まあ、それなりのお家筋の姫でございますよ。まだ幼さが抜けませんけれどね」
「見た目はね。でも既に十六と夕べ申されていたではないか。良い年頃の娘ではないかね?」
十六と言えば既に子を授かっていてもおかしくない年頃。中将の言うことはもっともであると思う。
だが、あかねの場合は。
「中身がまだまだ年に追いついていないようでしてね。私としても姫君扱いするのは少々かみ合わないかと考えていますよ。これからもうしばらく修行が必要かもしれませんね」
笑いながら友雅はそう答えたが、黙って中将は遠くへと視線を泳がせている。
「噂にも聞く唐花の大輪と歌われる美しい北の方をそばに置かれている、中将のお眼鏡にはとうていかなわないでしょうね。」
こんなに口が動くのは珍しいことだ、と友雅は自分で思った。
黙っていられない、何かが押し寄せてくるような予感がしていたからだ。わざと空気を乱さなくては、自分の心が乱れていることを気付かれそうな、そんな気がしたから。
しかしそれは、隣の中将の声を借りて形として飛び出してきた。
「いや、そんなことはないよ」
しばらくの間、友雅の話を聞いていたのか聞き逃していたのか分からないが、隣で沈黙を守っていた中将が突然に発したのは、そんな一言だった。
「興味がない、とも言い難い。どことなく今まで出会った女人とは違う、不思議な雰囲気が漂っているね、彼女は」
唐花の中将はそうつぶやきながら、何かを思い出すように目を閉じた。
不思議な雰囲気………。それは京という世界に生まれて来なかった、異空間に育った彼女からしか感じられない強さとなのだろうか。それとも彼女の中に宿っていた、龍神の力が余韻を残しているからか。
「一度会う機会を作ってもらえないかね?」
「……何と申されました?」
友雅は呼吸をひとつ挟んで、もう一度尋ねた。
「少し、話をしてみたいと思うのだよ。今まで私が出会ったことのない、新鮮な瑞々しい雰囲気をお持ちのようだ。とても興味がある」
「それは…女人として、でございますか?」
「……かもしれぬ。まだ分からぬが、な。」
笑いながら中将はそう答えて、目の前の池を包む橘の花に目を移した。
とくん、とくん、とくん、と心音が乱れている。
表面上は繕って平静を装うことが出来ても、揺れ動き始めた鼓動が整わなくなってきている。
中将はあかねの姿に目を留めた。それは、もしかしたら彼に連れ去られる可能性がある、ということだ。
年令に比べて位も高く、育ちも家柄も申し分のない男であることは、同性として友雅の目を通しても間違いはない。普通の女人であれば、彼のそばに置かれる立場に命じられれば文句を言う輩は見つからないだろう。
自分のような立場よりも彼の周りに広がる環境の中で暮らすことの方が、どんなにか女人にとっては幸福に違いない。
しかし、その現実があるとしても………譲ることが出来ないものが一つだけある。
『譲りたくない』もの。
『離したくない』もの。
「失礼ながら、それについてはお引き受けしかねますこと、お許し下さいませんか」
友雅の声を耳に受け止めた中将は、手持ち無沙汰に動かしていた扇を閉じて彼の方を向いた。
「どうしたんだ?彼の姫には何かいわれでもあるのかい?」
「そういう訳ではございませんが。私から姫を中将とお引き合わせすることは、自分の心に反することになってしまいますのでね……」
池の中に泳ぐ鯉が、かすかに水面に波を立てる。流れ涌く池の水の涼しげな水音を背に受けて、中将は不思議そうに友雅の顔を覗き込んだ。
「いかがなさったんだい?京の女人の憧れの大輪と称される君とあろう男が。一人の姫君にそれほど執拗にこだわるとは珍しい。それとも、私のような身分では触れることの出来ないほど、高貴なお方なのかな?」
中将の言葉にはわずかに皮肉も入っていたが、友雅は笑いながら首を横に振った。
「そういうわけじゃないのですよ。ただ、あの姫君は私にとって特別な姫でありますから。」
特別な少女だ、ずっと、出会ったときから自分にとっては大切な、そして、ずっと護っていきたいもの。
心が初めて、素直に欲した少女。
「左大臣家の姫、あかねは……いずれ私の北の方となる約束を済ませておる姫君ですゆえに」
とっさに、思いがけなくそう声が動いた。
まさにそれは友雅の心がそのままに形になっただけに過ぎない。
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