天体観測

 004
「随分と姫君らしくなられたね」
部屋に戻ってきたあかねに、友雅は微笑んだ。その言葉にあかねは、小袿のすそをつまんで見せた。
「少しはこんなカッコも似合うようになりました?」
「ああ、幾多の女房方にも劣らない艶やかさが目に見えるようだ」
「そこまで言ったら、お世辞ってすぐ分かりますよ」
友雅のそばに腰を下ろして、用意した茶を彼の前に差し出した。
彼女の身のこなしには少なからず雅やかな香りが漂い、その背景にある絵巻の一つに重なり行く。
日々を追う毎に、彼女は美しくなる。そして輝きを増して行く。
多くの公達が彼女のことを噂しているなど、おそらく全く知らないのだろう。

「そうだ、友雅さん、お手紙頂きました。本当にお屋敷にお邪魔しちゃって良いんですか?」
蔀戸の向こうに見える夏の緑葉に視線を伸ばしていると、あかねがそんなことを尋ねてきた。
「ああ、勿論だよ。古びた屋敷だけれどね、広さと庭の木々くらいは自慢出来るかな。それくらいしかないけれど、かえって素朴で観月を楽しむのには良いかも知れない」
「ふーん……?何か持っていくものあります?お土産とか」
「そんなものはいらないさ。屋敷に招く姫君に物を持たせるほど落ちぶれてはいないよ。君が来てくれるだけで、それだけで良いんだからね。」
友雅の胸の前で揺らめく扇の香木の香りが、ふわりと甘く流れて行く。

「今夜は久しぶりに楽しい夜が過ごせそうだ。到着するのを心からお待ちしているよ。」
「分かりました♪私も最近あまり外に出ていないから、ちょっと楽しみです。それに、友雅さんのお屋敷にも興味があるんですよー。」
「私の屋敷に?そんな興味を持たれるようなたたずまいじゃないけれどね」
多分、それは彼の謙遜だと思った。もしかしてそう本気で思っているのかもしれないけれど、現代で生まれ育ったあかねにとっては、この町の風景自体が想像以上のものである。
きっと新鮮な何かが友雅の屋敷にもあるだろう。それだけでも今夜は彼女にとって楽しみな一夜になりそうだ。

■■■


珍しいことだが、今夜は少し涼しい風が流れている。昼間の暑さの残骸は見あたらない。そのせいか雲一つない闇が広がる空には、黄金の月がくっきりと浮かんでいた。澄み切った空気が、鮮やかに月の輝きを演出している。
「土御門の姫様がお着きになられました。」
釣殿から見える月を眺めている友雅に、侍女が待ちこがれていた言葉を告げにやってきた。

門の前には牛車が止まっている。顔見知りの男たちが友雅の姿を見つけて軽く頭を下げた。
「姫君は中にいらっしゃるのかな。顔を見せていただけまいか?」
牛車に近づいて、中に聞こえるように友雅が声をかけると、静かに前簾が上がった。
「こんばんわー、友雅さん」
薄暗い夜の中に山吹色の明かりが灯ったように、あかねが中で微笑んでいた。
「よく来たね。待ちこがれていたよ」
二人が言葉を交わしている間に、付き添いの者たちが榻をあかねの足下へと移動させようと動き回ったが、それを友雅は断った。
「榻はいらないよ。さ、あかね殿、屋敷にお連れしよう」
そう言って彼女の手を取る。そして長く伸びた袿を慣れた手つきで腕にたくし上げると同時に、ふわりとあかねの体を両腕で抱えた。
「と、友雅さんっ!私、自分で歩けますよっ!」
頬を染めてあわてるあかねの顔を間近で覗き込んだ。
「屋敷の中に入るまでは、結構距離が長いんだよ。そこまでか弱い姫君を自分の足で歩かせるなんてことは出来ないさ。これでも屋敷の主だからね。」
軽々と友雅の腕に抱きかかえられたまま、緑の多い屋敷の庭先をあかねは進んでいった。


■■■


釣殿の下に広がる広大な池の水面には、金色の満月が鏡のように映っていた。
辺りを囲む白い橘の花。身を乗り出してあかねは庭の風景を眺めている。

「そんなに珍しいものがあったかい?」
背後から友雅が尋ねた。あかねは振り返って、今度は屋敷の中をきょろきょろと見渡した。
「やっぱりー!古びた屋敷だとかたいしたたたずまいじゃないとか言って!こんなに広くて立派なお屋敷なんて思ってなかったですよ!」
どうやらさっきからあちこちを興味深げに見渡していたのは、屋敷を観察していたらしい。
「君が言うほど立派じゃないよ。庭の手入れだってろくにしていないしね。荒れ放題の自然のままだ。」
「でも、お花がたくさん咲いていて綺麗ですけど」
「それだけ、だよ。土御門の藤の花で彩られた庭とは比べものにならない。あの庭を毎日見て過ごしている君の前では、胸を張れるような景色じゃない」
そう友雅は笑いながら言ったが、あかねはそうは思わなかった。確かに土御門の庭はまぶしいほどの美しさを四季折々に楽しませてくれるが、友雅の屋敷の庭は自然にすくすくと育つ木々や花に彩られて、その景色に溶け込んでいる。
「それに、きらびやかな飾りも何もない。目にも麗しくない、つまらない屋敷さ。」
杯に注いだ醴酒をたしなみながら、身体をくずして友雅はつぶやいた。
「だけど今夜は、それが幸いしているみたいだ。目くらましのものがないだけに、姫君の艶やかさを一層引き立ててくれているようだよ」
甘い口当たりの酒は、友雅の口もひときわ甘くさせているようだ。

「最近ね、こんな格好ばっかり着せられるようになっちゃってから、あまり外に出かけることも簡単に出来なくなっちゃって、少し不満なんですよ」
唐菓子をかじりながら、あかねが釣殿の手すりにもたれてつぶやいた。
「前は水干だったから気軽に動き回れたんだけど、これじゃお屋敷の中をうろつくしか出来ないし。たまには外を歩きたいのになーって、ちょっと欲求不満なんです」
あかねはつまらなそうに、そう答えた。
「どこでも姫君はそんなものだよ。出かける時にはさっきのように牛車に乗り、共をつけて出かける。あまり外を出歩いたりはしないけれどもね。」
「だけど、身体がなまっちゃいますよー!前みたいな服装だったら、あちこち出かけられるし。友雅さんのお屋敷だってすぐに来られちゃうもの」
そう言われると、友雅も考えを改めざるを得ない。あかねだったら、いつだって屋敷を訪れても構わない。
「まあ、しょうがないさ。もう君は土御門の姫君なんだしね。」
友雅は表面上そう答えて、再び酒を杯に注いだ。

「そう言えば友雅さんは最近どうですか?お仕事とか忙しいですか?」
少し風が出て、池に映っている月を揺らした。
「別に何もないね。平和なものだよ。毎日暑いから、今夜のように月を眺めながら川辺や水辺で宴を楽しむ者たちが多くみられるよ」
「へえ…風流ですねー。友雅さんも誘われて出かけたりするんですか?」
「いや。私はあまり他人の屋敷にまで出向くことはないな。誘いはもらうけれど行った試しはないよ。」
まあ、そう言われればそうだろう。友雅はあまり他人との交流には積極的ではなさそうだ。
「せいぜい十八日の観月宴に出向くくらいだろうね。」
「観月宴?」
膳に盛りつけられた野菜らしき料理をあかねは手を着けた。薄味の調理で、何の野菜なのか分からないが、味はなかなか悪くない。
「そう。毎年葉月の十八日には清涼殿で観月を楽しむ宴が開かれるのだよ。私はその席で楽を奏でることになっているのさ。」
「うわぁー、じゃあ結構賑やかなんですねー」
「そりゃあね。帝もお楽しみになられる宴だからね。今夜みたいに質素な宴とは違うよ。規模もね。」
あかねにとっては予想も出来ない。今夜でさえ、美しい月を広々とした花に囲まれる庭先を愛でながら楽しんでいるというのに、これ以上豪勢な宴とはどんなことを繰り広げられるのか。

「じゃあ、その宴に参加した人は、友雅さんの奏でる琵琶とか笛とかを聞くことが出来るんだ…。いいなぁ…」
そうあかねが言うと、友雅は杯を膳に戻して笑った。
「何もそこだけでしか聞けないわけじゃない。聞かせたい相手がいれば、奏でて差し上げるよ。今夜みたいにね。」
友雅は立ち上がって、部屋の奥へ歩いていった。そして次に戻ってきた時には、その手に琵琶が抱えられていた。
「私の開いた宴だからね。客人へのせめてものもてなしとして聞かせてあげるよ。」
指先が軽く弦を撫でるように触れた。響く深い音。
「たった一人の麗しい客人のために」
そう一言告げて、弦が音を奏で始めた。

空に浮かぶ遠い月までも響くような、高くて深みのある琵琶の音が庭に流れる。
今まで聞いたこともない曲なのに、懐かしくて穏やかで心が和んでくる、そんな音だった。
かすかに、池の方で水音がしたのは魚のせいか。友雅の奏でる音に、池の中で泳ぐ魚たちも踊りだしたのかもしれない。
あかねは、はじめて琵琶の音を聞いた。
こんなに優しい音だとは思わなかった。

「失礼いたします。客人が見えられておりますが」
友雅の琵琶の音が止まった。侍女が、主である彼に、そう告げにやってきた。
「客人など私は読んだ覚えはないが…どなたが来ているんだい?」
「唐花の中将殿でございます」

……友雅はためいきをついた。唐花の中将といえば友雅の上官である左近衛府中将。そうなげやりに扱うわけにもいかない。特別親しいつき合いもしていないが、ないがしろにもできない関係だ。

「友雅さん、お客さん?私、邪魔かなあ…だったらそろそろ帰りますけど」
雰囲気を察して、あかねがそう言い出した。しかし、それこそ友雅には困る。あかねとの時間を楽しむために開いたささやかな宴の夜を、こんなに早く終わらせたくはない。
しかし、ここで屋敷の中へ唐花の中将を招き入れたとしたら…彼女をどう紹介したらいいか。
以前に彼からもあかねのことは詮索されている手前、彼女を見せたらどんな行動に出るか知れたものではない。

「少々お待ち頂くように申し上げてくれるかい。あと、何人か侍女をこちらによこして。」
一か八か、友雅はその場しのぎの策に出ることを決意した。



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Megumi,Ka

suga