天体観測

 003
京での初めての夏がやって来た。
現代の世界では当然だった文明の利器であるクーラーや扇風機は、勿論この世界に存在するわけがない。
それなのに相変わらず藤姫は十二単をきちんと毎日着こなし、あかねの部屋を訪れてくる。
あかねも一度藤姫に勧められて、十二単を着付けてもらったことがあるのだが、その重さといい衣の多さといい、この夏場にはとても不釣り合いなものだと感じた。
「蔀をすべて開けてしまいましょうね。風通しが良くなりましたら、きっとこの暑さもしのげますわ」
と藤姫は平然と言うけれど、現代の涼みに慣れてしまっていたあかねにはまだまだ酷だ。
だけど、そんなことを愚痴ってもいられない。
この世界で生きて行くことを決めた以上、現代での常識を全て忘れなくてはいけない。
これからあかねの経験して行く常識は、この世界での基準に従うことが必然なのだから。

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先日の一件の他でも、あちこちで夕涼みの宴の話を聞くのだが、それ自体についてはなかなか風流な催しである。友雅とてまんざら嫌いなことでもない。
酒と魚と岩清水の音、そして空に浮かぶ星と月。静かに流れる時間に身を任せることは、贅沢な夕べの楽しみと言えるだろう。
「そうだね…たまにはそんな夜があっても良いだろう」
木々の緑を照りつける太陽の明かりを手で覆い、友雅は一人つぶやいた。

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「姉様、文が届いておりますわ」
藤姫が和紙に花の小枝を添えた文を手に、あかねの部屋へとやって来た。
左大臣家に住まうようになって、藤姫は『神子殿』の言い方を改めて『姉様』とあかねを呼ぶ。どことなくくすぐったい気もするけれど、こんなに可愛い妹に慕われるのは一人っ子のあかねにとっては嬉しくもある。
そんな彼女が携えてきた文の差し出し人は、この和紙の色ですぐ分かる。
ほんのり夕暮れ色をした茜色。こんな風流な選択眼を持つのは友雅に間違いはない。

「友雅さん、何だろ…。普通だったらうちにやってくる方が多いのに、文を送ってくるなんて珍しいよね」
和紙を開くと、流れるような筆文字が書かれてある。が、残念ながら現代っ子のあかねには達筆すぎて読めなかったりする。
「ごめん藤姫…読んでくれる?」
いい加減にこちらの文字づかいにも慣れなくちゃいけないのだ。が、まだまだ勉強中のあかねにとっては、友雅からの文の内容は少し高度過ぎる。
「まぁ…姉様、素敵なお誘いがしたためられておりますわ」
「え?何て書いてあるの?」
あかねは藤姫の手に広げられた文を覗き込む。
「明日の夕刻、観月の宴を開かれるとのこと。是非お屋敷へと。」
「お屋敷?友雅さんの?」
そういえば友雅の屋敷なんて、行ったこともなかった。まあ、他の八葉たちの屋敷へも殆ど出掛けたことはないのだが。
「ね、観月の宴ってどんなことするのかな。他の人とかも呼んだりして、お酒飲んだりとか楽器演奏したり歌を歌ったりとか?」
「そうですわねぇ、宴によりますけれども…月を眺めながら楽を楽しんだりするのではないでしょうか?風流な友雅殿のことですもの。」
現代にもお月見という風習があったりするが、それとはまた違う趣がある。月を眺めながら時を過ごすなんて、あかねの今までの感覚からすれば、目がくらみそうなほど雅やかで華やかな感じがする。
「行ってもいいの?藤姫」
一応、お断りというか尋ねてみる。
「勿論ですわ。折角のお誘いですもの。楽しまれるとよろしいですわよ。」
OKの答えが返ってきたので、あかねも少しホッとした。


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今日は天気が良い。故に暑さもひとしおだ。
しかしそれならば夜半の月の眺めも期待出来るだろう。観月には絶好の天気と言って良い。
帝に仰せ参って殿上した清涼殿の中でも、観月と銘打った宴の話をよく耳にした。友雅も相変わらず何人かの者から下心有りの誘いを受けたが、丁重に断った。
他人の宴に顔を出す暇などない。今夜はあかねを屋敷に呼んでいる。周りの輩達がこぞって顔を覗こうと興味津々の彼女を、屋敷に呼んで宴を楽しむことが出来るのだ。ほんの少しの優越感に浸るのも楽しい。
さて、宴の用意は屋敷の者に頼んである。主人の友雅が口を挟むことなどたいしてありはしない。
用を済ませてからは暇を持て余すことになる。
宴の前に、一度顔を覗きに行くのも良いかもしれない。
久しぶりに友雅は土御門への道を歩いていった。

「あっ、友雅さん!」
屋敷に上がると、あかねが彼を出迎えてくれた。今までは藤姫か侍女が間に入って部屋に通してくれるのが普通だったが、まさか彼女自身が玄関で彼を出迎えるとは思わなかった。
「これはまた、お屋敷に入ったとたんにあかね殿の顔を見ることが出来るとは、私の運もかなり上昇していると言って良いんだろうね」
「あ、どうぞあがって下さい!お茶の用意してもらいますね!」
そう言ってあかねは友雅を屋敷へと誘い、侍女の所へと消えていった。

まだ小袿を引きずって歩く姿はおぼつかないが、以前ほどぎこちない雰囲気はなくなった。
彼女がこの世界の空気に溶け込んできている。
その姿が、友雅にははっきりと分かった。



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Megumi,Ka

suga