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静かな恋の物語
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| 005 |
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ゆっくりと瞳を閉じて、そのまぶたの裏側にあの頃を思い起こす。
映し出される過去の情景の中に、たたずむ自分の感情が蘇ってくる。 「今思えば、自分が八葉であることをいいことに、理由をこじつけてあんなに通い詰めていたのかもしれないな。それだけ、あかねに会いたくて仕方がなかったんだろう…あの時の私は。」
静かに笑みを浮かべて、友雅はそう答えた。
ほんの少し、照れたように口元を歪めて。
一度も経験したことのなかった、自分という人間の本質に触れた瞬間だった。
そこで向かい合うことの出来た自分の姿は、思っていたよりも感情の抑制力が薄くて、初めての展開に流れ行くまま歩くだけだった。
だが、それが楽しかった。自然に生まれてくる思いに任せて足を進めることと、その目的に向かって視線を流すこと。
そこにいる、彼女の存在を確かめること。
「男が女に会いに行くのには、色々な理由がある。所用や語り合いのための他にも、一夜のぬくもりが欲しいときだってある…それは私も否定出来る立場じゃない。だけど、あかねに会いに行く理由は、今まで私が経験してきたことのない理由だったんだ」
歌詠みや楽を奏でて楽しむため?男と女の絆を絡めて朝までの時を過ごすため? どんな理由でもない。そんな理由は……何もない。 「あかねに会いに行くのは…理由なんてなかったんだ。そこにある、『あかね』という存在に会いたかったからだ。理由なんかなくて、ただ『あかね』に会いたいから会いに行ったんだよ」
理由というものがあれば、まだ自覚することも容易かっただろう。だが、確かにそこには理由というものが存在していなかった。
会いたいから、会いにいっただけのこと。
それは何よりも透明で純粋で、真実以外何ものでもない本当の『理由』。
「ねぇ、ちょっとした違いだけれど『会いに行く』ことと『会いたい』というのには決定的な違いがあるんだ。貴女は、分かってくれるかな?」
こちらを見て友雅は微笑んだ。梗鷺は微笑みを返して、何も言わずに少し首をかしげてみせた。
無闇に口を挟むことはするまい。こんな風に、友雅から話を次々に切り出すことは滅多にあるものじゃない。だからこそ、いつもとは違う彼の一面が見られるのではないだろうか。
そしてそこに、彼の本心があるに違いない。
「理由があるから出向くのが『会いに行く』ことで、理由もなにもいらない…ただ自分の本能だけの感情が『会いたい』ということだと、私は思っているんだ。」
うっすら黄金色の月光は、闇の中に優しい影を作り出していた。月は、沈黙を続けたままで柔らかな光を地上へと注いでいる。
そんな夜のせいだろうか。今夜は妙に饒舌な気がする。話をすることが面倒ではなくて、このまましばらく語り続けていたいくらいだ。
月には魔力があるといわれているが、もしかするとそのせいかもしれない。
燻る侍従の香りが、空気に溶け込み始めている。白い煙が消えて、ゆるやかな夜風と共に舞い踊るその香りに酔いそうだ。
静かだけれど、心は暖かい。そして、永遠に萌ゆる胸の中の思いは、あの頃を鮮明に浮かび上がらせている。
会いたくて会いに行った。あかねに会いたくて、通い詰めた。その理由をやっと自分が理解できた時のことを覚えている。 「私は、あかねに会いたかった。唯一、それに理由を探すとしたら…………」
月明かりの中の静寂をくぐり抜けるようにして、聞こえてくるのは友雅の声だけ。 「あかねを愛し始めていたからだったんだろう…ね。」
穏やかな夜の中で、言葉が紡がれていく。
+++++
じりじりと小さな音を立てるのは、燈台の油が燃えているからだ。橙に似た色の炎は決して大きくはないが、控えめな明かりは静かに語り合うには丁度良い。 「そういうわけで、二の姫とは結局一度も顔を合わせたこともないよ。会ったことさえない。そうしているうちに、私はあかねと生きていくことになった。そうなった今…他の誰に気を取られることがあるだろう?」
梗鷺の視線の真っ直ぐ前に、腰を下ろしている友雅の横顔が燈台の明かりで照らされている。
迷いなどなく、陰りもなくその口から告げられる言葉達の持つ意味は、あかねの名を共にするだけで嘘や偽りなどを消し去る。
彼女の名を口にするとき、本当の彼の姿が見えるのだ、と梗鷺は思う。
「こう見えても、今でも私はあかねに抱いている気持ちは、まだ変わっていないんだよ?」
梗鷺の確信を決定づけるかのように、そう言ってこちらを見た友雅は少しだけ苦笑していた。 「未だに…あかねの笑みを見ると、胸が熱くなってくる。初めてこんな経験をした、あの頃のことを忘れられずにいる。指先を絡めれば、抱きしめてしまいたくなるし、そのまま死んでしまったら幸せだろうとまで思うんだよ」
限られた命ならば、その最期の最期の時まで幸せに浸りたい。
出来るなら、最愛の人のそばで。その人に見つめられながら、ぬくもりを抱いたままで息を引き取れたならば、魂のみとなってもそれらを忘れずにいられる。
どちらかが先に命を終えても、再び逢えるときまで相手の存在をかかえてまた生きていける。 命が尽きても、魂だけとなっても、そして生まれ変わっても……はじめて感じた想いを消したくない。
永遠に、それだけは失いたくないかけがえの無いもの。
彼に本当の幸せをくれた女。その人と過ごした、ありとあらゆるすべての記憶。
「高名な姫君は、他にも大勢いるだろう。でもね、どんなに素晴らしい女性であろうと、私にそんな気持ちを芽生えさせる人はおそらく、もう現れないと思う。最初で最後の唯一の女性は、もう私の目の前に現れてしまったしね。」
幸せを呼ぶ言霊があるとしたなら、彼にとってはあかねの名のことなのだろう。
語り続けるうちに、そこに彼女の姿がなくても胸が暖かくなる。沸き上がるものが心の中を満たして、その中に浸る自分は永遠の春に出会ったかのような気持ちになる。
「そんな気持ちにさせてくれる女性は、これ以上どこを探しても見つからないだろうね」
丁寧に紡がれていく友雅の言葉に乗せて、彼の表情をずっと見つめていた梗鷺は、以前土御門で見た懐かしい情景を思い出した。
あれはほんの一年半前くらいだ。まだあかねが龍神の神子として生きていた頃。
そして、そんな彼女のところへ通い続けていた友雅。 神子と八葉の関係は、二人に限った事ではないが、あきらかに彼らが他と違っていたのは…瞳だった。
あかねを見る友雅の瞳と、友雅を見るあかねの瞳は、それぞれ少し潤ませたように輝いていて、そこにいる相手を静かに見守るように存在していた。
そう、あの時はじめて梗鷺は気づいたのだ。
二人が想い合っているということに。
「これでも梗鷺殿は、今夜の私を疑うのかな?」
少し困ったように微笑んで、友雅は梗鷺の返答を待っているようだった。
ここまで気持ちを全て打ち明けて、それでも信用してもらえなかったらどうすればいいか、などと心の中は戸惑っているのかもしれないが、梗鷺は彼のことを何一つ疑うことなどなかった。
彼を疑う必要が、どこにあるだろうか。これまで彼があかねに接していた態度と、その眼差しをそばで見ていたのだ。
誰もが知っているであろう『橘友雅』という男が、あかねの前でだけは全く違う人間に変わることを知っている。
「……さあ、どうお答えすれば良いでしょう?」
くすっと笑って、梗鷺は言った。
「意地悪は程々にしてもらいたいねぇ。あかねの一番近くにいる貴女に信用してもらえなくては、あかね本人に疑われているのと同じだからね。一体、どうすれば疑いを晴らす事が出来るんだい?」
戸惑う彼の笑顔を見ながら、梗鷺は心の中でつぶやく。
------あなたを疑うことなど、あり得ない。あなたの、その言葉に嘘があるなんて、それこそ信じられないくらいなのだ。
彼女の前でだけ、初めて恋をした少年のように胸を熱くするあなたを、これ以上疑うことなどできるだろうか。
「私のことは気になさらずに。伊達に長くお二人を見ていたわけではございませんよ」
彼女からその言葉が出ると、少しだけ友雅は肩の力が抜けて気が楽になったようだ。 「…それを聞いてほっとしたよ。今迄こんなに気持ちを洗いざらい口にしたことなど、なかったものだからね。思い切って言葉にしたかいがあったというものだね」
友雅の言葉に、梗鷺は少し驚いた。
「神子様に、そのようなお言葉をおかけにはなりませんの?」 「…まあ、しないこともないけれどね。でも、言葉というもので現せない想いというものもあると思わないかい?」
静かな夜の闇は、まだ明ける気配はない。少し肌寒さを感じるようになってきたが、それでももう少し、話したい気がする。 「『愛してる』と何度言ったところで、それは5つの言葉でしかなくてね。その言葉で気持ちが全て伝えられるかどうかと想うと、難しいだろう?こちらの気持ちが全て伝われば、いくらでも言ってあげようと想っているけれど…あいにく自分で想っている以上に、想いが強いみたいでねえ…」
目を伏せて、けだるそうに髪をかきあげる。かすかに、その髪に隠れた頬が染まっているのを梗鷺は見逃さなかった。
初めて目にした、友雅の少し照れたような笑顔。彼がこんな表情をするなんて、思ってもみなかった。
ありとあらゆる浮き名を流した橘友雅が、一人の少女の前では愛の言葉さえも呑み込んでなかなか口に出来ない。誰がこんな状況を予想できるだろうか。
だが、それは現実だ。どれほどの名家の姫君や美貌の女人であっても、彼を本当に動かすことは不可能だ。その力を持っているのは、あかねの小さな手だけなのだ。 「口にすればするほど、言葉の意味が軽くなってしまうような気がしてね。だから、あまり頻繁に使いたくはないのだけれど、でも…その言葉くらいしかあかねに気持ちを伝えるものは私にはなくてね。一体どうすればいいのか悩むばかりだよ」
そう言いながらも微笑みを崩さないのは、そんな風に想える相手がいるという充実感が彼の中にあるからだろうか。
話は尽きぬとも、時間はゆるく流れを進めていく。月はいつのまにか方向を変え、屋根の向こうへと姿を消してしまったせいか、庭の明るさは闇の範囲が広くなりつつある。
水面が暗くなって、ようやく魚たちも眠りにつき始めているのか、さきほどまで時折聞こえていた水がはねる音は聞こえなくなっていた。
そろそろ、この会話もお開きにする頃だ。なかなか楽しい夜話となったが、これ以上続けていては朝になってしまう。 気の進まない宴に引き出された友雅も疲れているだろうし、何より……息を殺してじっとしている彼女も疲れているだろう。
「今宵は友雅殿の意外な一面を拝見できて、楽しい時間を過ごさせて頂きましたわ。ですが、もうお休みになられた方がよろしいですわね」
切り出された言葉に、友雅は我に返った。
減ってきている燈台の油、いつのまにか消えている香炉の薫り。静まりかえる庭の風景と、身体が感じる夜風の冷たさ。
「ああ、そうだね。随分と長話をしてしまったみたいだ。いい気になって色々な話に付き合わせてしまって悪かったね」 「いいえ、そんなことはございませんよ。ですが…友雅殿、こう言ったお話をする相手をお間違えのようでしたわね」
妙な返答をした梗鷺を、友雅は不思議そうな顔をして見返した。意味が即座に把握できないで居る彼を尻目に、梗鷺はある方向に意識を向けた。
「問題は、私ではなく神子様のお心次第でございましょう。神子様にお尋ねになってはいかがです?」
一体何を言い出すのかと梗鷺に問うつもりだったのだが、それよりも先に彼女は腰を上げてこちらに近づいてきた。
そして、友雅が寄りかかっている戸に手を掛けた。
「神子様は…どんなお気持ちで今のお話を聞いていらっしゃいました?」
ぴったりと閉まった戸の向こうに聞こえるよう、梗鷺はそう言った。
「どれくらいお気持ちが伝わっているのか、神子様がお答えにならなくては友雅殿も納得しては下さいませんよ?」
梗鷺の手に力が入る。そして、友雅がゆっくり振り向こうとしたと同時に、彼女の手によって戸がすっと開け放たれた。
薄暗い部屋の中、そこにうずくまるように座っているあかねの姿を二人の瞳が見つめた。
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