静かな恋の物語

 004
「随分とごゆっくりされておりましたのですね。」
戸を開ければ、真っ先にあかねの顔が見られると思っていたのに、その期待はあっさりと却下されてしまった。
友雅を迎えたのは梗露一人で、あかねは部屋のどこにも姿が見えない。

「私の姫君はどこにいるのかな。出迎えてもらえないのは心細いねえ」
あかねの顔が見えないとなると、一気に友雅は身体の力が抜けてしまった。しかし、何故か梗鷺の方は背筋をぴんと伸ばして、眼光も夜には相応しくないほど輝いている。
「先にお休みになって頂きました。ご気分があまりよろしくないようでしたので。」
「気分が悪い?それは聞き捨てならないね。一体何があったんだ?合わないものでも夕餉に出たのかい?」
そんなことが原因ならば、問題は大事ではない。
食あたりなどの健康被害なら、薬師や祈祷で直ることだってある。
だが、今回はもっと根の深い、手強い問題だ。
表面上に出来た傷よりも、心の傷がもっとも痛手になる。

「たいしたことではございません。もう少し友雅殿がお早くお戻りになられていれば、神子様もお顔も拝見して元気も出来たでしょうに…。」
どことなく棘のある気がする梗鷺の言葉が気に掛かったが、友雅は取り敢えず彼女の差し出した手に衣を預けて、庭の見える蔀のそばに腰を下ろした。

伏籠に掛けた衣の隙間から、ほのかに侍従の香りが立ちこめる。わずかに組み合わせ配分を変えた侍従は、友雅があかねのために合わせた特別な香りだった。
この香りを身に纏うのは、あかねだけしかいない。この香りが漂う人は、あかねしかいないというのに、彼女の姿がここにないというのは複雑だ。

「早く戻りたかったのはやまやまだったんだがね…。元々その気ではなかった宴だけれど、向こうがかなり乗り気なものだから断れなくてね。しかも手強くてしつこいとなると、さすがの私も逃げることも出来なかったのだよ」
これは、本当のことだ。もちろん嘘を言う意味もない。だが、何故だか梗鷺は友雅の話にどこか不信感を覚えているようだ。
「これでも苦労して、やっとのことで抜け出してこられたんだよ。その苦労を少しは分かってはもらえないだろうかね?」
「ですが、神子様はずっとお帰りをお待ちでいらしたのに…」


何故にこんなに態度が厳しいのだろう。友雅にはそれが全く分からなかった。
やましいことなど何もないし、ましてや梗鷺はあかねを北の方に迎えるために友雅が根気強く粘った一部始終を、目の前で見ていた一人である。
ここにやって来てからも、彼女はあかねに付いて自分たちを見守ってきてくれた、理解者だと思っていたのに。

「珍しいね。今夜は随分と抗うような態度に思えるよ。いつもの貴女らしくないね…」
誤解が何かあるのなら、それを解かなくてはならないだろう。あかねの一番近くにいる彼女に疑われては、遠からず近からずあかねのことを傷付けてしまうこともあり得る。それだけは避けたい。
理由を知りたい。彼女の中にある薄暗い靄の正体を。
梗鷺は、そんな友雅の詮索にも揺るぎや戸惑いを見せない。いつもしっかりとした姿勢を保っている、なかなかの才がある侍女だ。
「そのようなことはありません。私は、ただ神子様のお心の中を思えばこそ…」
彼女の言葉に、ふと友雅の目がぴくりと引きつった。

「彼女のせいか」
それだけの会話だったが、少なくとも梗鷺の機嫌が悪いことは理解することが出来た。


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「それで?貴女がそのように私を睨む理由を教えてもらえないかい?それが、私と彼女の間に亀裂を生むようなことであるならば、どんな問いにも答えるよ。それで解決するなら容易いことだ。」
原因が判明した友雅は、少しだけ気が楽になった。
あかねのことが、梗鷺の機嫌を損ねていたということだ。つまり、元を正せばあかねの機嫌が悪いということになる。
とにかく土御門の頃からあかねには忠実だった彼女であるから、あかねに何か変調があれば真っ先に気付くだろうし、その源を探ろうとするだろう。
そして、その彼女が友雅に対してこんな態度を取るということは……原因は彼にあるという意味だ。

どんなことを聞かれようが、何でも洗いざらし口にしよう。誤解はそんな裸の態度を示さなくては、いつまでたっても解けることなど無理だと思っている。それに、あかねには嘘も偽りも言わないと誓った。
本当の自分で、彼女を愛したいと思ったからだ。

しかし梗鷺から告げられた言葉は、一瞬だけ友雅の意識を止めた。
「大納言の二の姫、をご存じでらっしゃいます?」
何故、その人の名前が今、出てくるのか。
知らぬ者などいないとまでの人だが、この場所で梗鷺の口から彼女の名前を問われる理由は、友雅には全く覚えがない。

「………色々と名高い方らしいからね。私だけではなく、彼女を知らない京の男を探すことの方が難しいんじゃないかな」
「友雅殿と張り合うほどの、華やかな噂が絶えない御方ですものね」
おかしい、と思ったのは今始まったことではないけれど、その名前の出所と意味がどうも引っかかる。
表面上ではいつものように振る舞いつつも、ずっと気に掛けている友雅に向けて、次に梗鷺が口にした言葉は今まで以上に彼を驚かせた。
「ですが、その姫が友雅殿のお相手にという話があったことは、私は全く知りませんでした。……神子様にお話を聞くまでは。」


ほんの少しだけ、記憶が遡る。
-----------今夜の事、そして一年ほど前の事。

「何故、そのことを彼女が知っているんだい?」
「…詳しいことは分かりませんが、おおかた若い侍女の噂話でも耳にしたのでしょう。ずっとこのお屋敷で、友雅殿にお仕えしておられる方ですから、これまでの色々な話も私ども以上に知っておられるでしょうし。」
ひょんなことから、噂というものは広がって行き、そして浸透していく。例えそれが嘘であろうと真実であろうと、当人以外は興味本位で話をどんどん誇張して行き、気付いたら自分さえも知らない自分がそこにあることも多い。
これまでにも同じような経験はしてきたけれど、今回は知らぬふりして通り過ぎることも出来ない。自分のことだけなら構わないが、それがあかねから出た言葉なら大問題だ。
それに、自分の話題の中に二の姫の名が出てくるということは、おそらくあかねにとっては居心地の悪い内容だったろうと推測できる。
「大納言殿から、二の姫を北の方にと…何度も言い寄られていたとお聞き致しました」
やはりその話だったのか、と友雅は思った。

梗鷺は話を続けた。
「神子様がそのお話を聞いたからと言って、友雅殿へのお心に揺らぎが生じることはないでしょう。しかし、あまりに場の悪い展開になってしまいましたわね。友雅殿が大納言殿の宴に参る…その日にその事を知るとなれば、複雑な思いを抱かれてしまうことくらいは、おわかりでしょう?」

「そういうことか……。」
偶然というものは、時にして幸せをもたらすこともあるし、残酷なまでの仕打ちをすることもある。
悪気など全くなかったのに、結果として偶然というものが今になって絡み合ってしまうことになるなど、考えたこともなかったのだ。
「教える必要がないから言わなかったのだが、もしもこんなことであかねが困惑することになるのならば……伝えておいた方が良かったのかもしれないね」
今更そんなことを悔やんでも仕方がないと思う。
だが、以前にあかねにこの事を告げていたとしたら、困惑するような今回の展開は避けられたかも知れない。
自身は良いとしても、彼女の胸の内が友雅には一番の気がかりだ。
例えその噂が、過去の事実であったとしても。


無音に近い夜の闇。わずかに聞こえるのは、燈台の油に炎が燃え続ける音くらいのものだ。
すうっと細く長く伸びる草が、こんもりと池の周りに繁って鮮やかな緑を添えている。時折、かすかに吹く夜風がそれらを揺らして、池の水面に触れると細い輪が広がっていく。
他愛もない日常の風景。特別な変化もない、繰り返しの毎日は退屈だと思えたのは昔のこと。
ほんの少しだけ、昔のこと。
「梗鷺殿が言うように、その噂は単なる噂話ではない。現実のことだよ。確かに私は、以前から大納言殿に二の姫を妻に迎えてもらいたいと、何度もせがまれていた。」
その頃を思い出しながら、遠くに少し目をやって友雅は静かに口を開いた。

「彼の姫がどんな女性であるのか…ということには、正直言えば興味がなかったわけではない。私はこの橘家の繁栄なんてものには興味も執着もないし、大納言殿の地位なんて欲しいとは思わなかった。けれど、一人の男として女性に興味を持つのは当然のことだから。」
京の男達がこぞって結婚を申し込むほどの、名高い女性を受け入れてもらえないかと言われて、全く気にせずに無視を貫くなんてことは出来ないだろう。
心のどこかで気に掛けてはいた。その人がどれほどの女性であるか、大納言に声を掛けられるたびにそんなことは何度も思った。
そして、ついに心が傾き始めた時のことだった。
偶然の悪戯は友雅の運命の歯車までも伴って、それまでの価値観を崩してしまうような展開を用意していた。

「あまりに大納言殿がしつこく言うものだから、最後にはちょっと会いに行ってみようか…なんて気になったりもしたよ。だけどね、その前に……私はあかねに出会ってしまった。」
思いも寄らない、出会うはずのなかった出会い。
限られた者だけに起こる、いわばそれは運命の出来事。
「八葉に選ばれた時には、こんな自分の未来なんてものは想像しなかったけれどね。」
誰一人考えられるはずもなく、許容範囲の予想を超えた現実は友雅の前に降りてきた。天女光臨のごとく、光りを纏って。

しっかりとした口調で、過去の記憶を紐解く戸惑いもない彼の言葉。
思えばそれは、たった一年程前の出来事だ。まだ記憶の奥底にしまい込むには早すぎる。それに、彼にとってその出来事は鮮明すぎるほどに深く刻まれていることもあるのだろう。
ただ物珍しかったことだけではない、特別な意味が含まれているからこそ。
「会いに行ってみようか…なんて考えたりしたのに、そんなこともいつのまにか忘れてしまっていて、そのうち彼女の存在さえも忘れていた。それほど私は八葉の立場というものに捕らわれるようになっていたんだよ」
毎日が、それだけのことで頭がいっぱいで。他に何も考える必要もなくなった日々が続き、ふと我に返った時に自分が今までの自分と違っていることに気付いた。
「その理由が、貴女にはおわかりになるかな?」
梗鷺を見て、友雅は静かに尋ねる。答えを問うたわけじゃないことは彼女には分かっていた。
彼が、自分自身に確認していることを。あの時の自分の姿を思い出して、その時の自分に改めて声を掛けていること。

今だから分かる、その時の自分の心。

それは……………



「あかねに会いたいと思うようになっていたからだよ」
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Megumi,Ka

suga