静かな恋の物語

 003
「綺麗な…女なんでしょう?」
あかねは、うつむいたままでそう尋ねる。
梗鷺は二の姫とは面識は一切ない。だが、噂はいくらでも耳にしている。
「お話しか伺っていませんけれど、とても良い歌を歌われるとのことをお聞きしました。いつでしたか、とある方からお文を頂いたときに、それは見事なお断りのお返事を頂いたと言うことで、お断りされたにも関わらず、お相手の方は感心されたと。」

耳にする話題は、華やかな話題ばかり。聡明で才に長けていて、花のように美しい姿に捕らわれる男が後を絶たない。
まさに、男たちの憧れの的と言っていいだろう。
「それだけ…頭も良い人なんでしょう。綺麗で頭が良くて、非の打ち所がないような…そんな人でしょう?」
会ったこともないのだから、梗鷺が答えることには確信の出来るものはないのだけれど、これまで聞かれた噂からしてみても、あかねの言うことに反対する答えはない。
「おそらく。だからこそ、多くの殿方がこぞってお会いに行かれるのでしょうし…それだけで、彼の姫がどんな方か想像がつきますね」
「だったら-----------」

ひくっと喉の奥がうわずった。
ぐっとこみあげてくるものが、声を潰すように圧力を掛けてくる。
それを押しのけて、やっとあかねは声を出す。
「友雅さんが、側室として迎えようとするかもしれないですよね…」
梗鷺は、とっさに伸ばした手をあかねの両肩に添えた。軽く、その手で振動を与えられる。少し長くなった髪の毛の先が、胸の上あたりで揺れ動いた。
「何をおっしゃいます?。友雅殿が、神子様の他に気をとられると思われますか?」
あかねの発言に梗鷺は戸惑ってはいたが、それでも気持ちを落ち着かせて、出来るだけ柔らかな口調を崩さずに彼女を見る。
すると、少しだけあかねが視線だけをこちらに向けた。目尻には、まだにじむ涙の粒が残っている。
「…この世界ではそうなんでしょう?奥さんがいたって、他に何人も奥さんを持っても良いんでしょう?他の女の人との間に、子供を作ったってかまわないんでしょう?二の姫のお父さんの大納言殿だって、そうやって来たんだから」
次第に言葉尻がかすれるようになってきた。

「私の生まれ育った世界では、男の人も女の人も、結婚したら一生その人だけを愛して生きていくの。もちろん、その長い生活の間でどうしてもそりがあわなくなったりしたときは、離縁して新しい人を見つけることもあるけれど、結婚ってそういうものなの。結婚したら、他の人に気をとられるのは許されないことなの。」

もう、思い出しても仕方がないことだ。
生きる世界を選んだ時、これまでの常識は一切白紙にしなくては生きていけないと自覚はした。
だけど、そう簡単に自分の意志と本心とは、上手く溶け合ってはくれない。
「生まれた世界を捨てて、ここで生きていくことを決めたときから、それは受け入れなくちゃいけない現実なんだって、何度も言い聞かせてきたけど……。でも、他のご夫婦たちのことを理解しようと割り切っても…やっぱり私、自分のことになったら……割り切れない………。」
梗鷺の袖にしがみつくあかねの手が、小刻みに震えている。
唇へと、再び流れていく細い涙のしずく。音もなく、それは頬を通り過ぎて顎からぽとりと下へ落ちていく。
「友雅さんしか、もう好きになれない…。だから、友雅さんが他の女を見るのが嫌なの。そういうことを考えるだけで、胸が痛くて仕方なくなって涙が出てくるの……」

こんな女になりたくなかった。
好きな人の心を手にすることだけで十分だと、そう思っていたのに……今になってはもっと欲張りな女になっている自分を知る。
恋に溺れて、周囲の目も何もかも入らなくなって。
「好きだから…好きでいて欲しいの。わがままだって分かっているけれど、友雅さんには…私以外を見て欲しくないの………」
彼の妻になった今でも、まだ恋する気持ちは鎮火してくれない。更にその勢いが増したようだ。
欲しいのはいつだってひとつ。彼の瞳の中に映る自分の姿。
永遠に願うのは、そのことばかり。そのくりかえし。


「神子様、まずは友雅殿のお帰りをお待ちすることが良いかと。」
あかねの肩をそっと撫でて、梗鷺はそう答えた。
「そうして、直にお尋ねになられることが一番だと思われます。他の誰が申し上げても、おそらく神子様が本当に信頼できるのは、友雅殿からのお言葉かと。」
彼女には、そう言うしか方法がなかった。それに、それこそが間違いなくあかねの気持ちに整理を付けさせる、一番の威力を持っていることに違いなかった。
「友雅殿は、神子様には一切嘘など申し上げない方でしょう。後ろめたいことがあっても、まず神子様にお伝えすることは絶対にお忘れにならないと、私は思っております」
「梗鷺さん……」
ぐすっと涙をすすって、赤くなった瞼をこする。
心は友雅を信じ続けている。だけど、本当のことを打ち明けられた時に自分が平静な心境でいられるか。それを思うと、素直に尋ねることがやはり怖い。
もしも、二の姫を側室に…という話をされたら、黙ってうなづくしかないだろうか。そしてこれからずっと、その女性を気に掛けながら生きていくことになるのか。
そんな生き方は、幸せというものなんだろうか。

未だに戸惑いを続けているあかねを見ながら、梗鷺は友雅の瞳の輝きを信じたいと思っていた。
あかねへの想いを語り続けた時の瞳を。その中に確かに見えた、彼の本当の想いを信じたいと願っていた。


「失礼致します。奥方様、まだお起きになってらっしゃいますでしょうか?」
戸の向こうから、若い侍女の声がした。
「何事ですか?」
あかねがまだ落ち着いていないので、梗鷺が先に声を返した。
すると、侍女がすぐに答えた。
「今しがた、殿がお帰りになられましたが…如何なされますか?」
梗鷺は振り向かなかったが、背中を向けていてもあかねがどんな表情をしているか、自然に感じ取ることが出来た。
友雅が帰ってきたと聞いたとたんに、一瞬身体を震わせてこわばらせて、今もおそらく彼に対してどう接して良いか、まだ気持ちの収拾がついていないだろう。
「奥方様のお姿が見えないということで、どうされているかとおっしゃっておりますが…こちらにお通し致しますか?」
閉められた戸のこちら側で、あかねがどんな複雑な状況になっているか、誰も知らないし気づかない。
知っているのは梗鷺、ただ一人。

「どうなさいます?神子様…」
はっきりした答えを返せないまま、時間がどんどん流れていく。
会いたいような会いたくないような。
会いたい。それは違いないのだけれど、きっと今の表情で心の中を見透かされてしまうだろう。そうなったら、尋ねないわけにはいかない。
そして、最悪の答えを聞かなくてはいけないはめになるかもしれない………。
夜の時間は昼間よりもずっとゆるやかに流れてくれるから、そう焦る事はないのだけれど、そのせいか少し時間の感覚を緩く感じてしまうようだ。
答えに迷っている時間は、思った以上に長時間に渡っていることにあかねは気付いていない。

「もう随分と待ちぼうけを食らっているのだけれど、いつまでかかるのかな?」
唐突に、戸の向こう側で違う声がした。
「天岩戸の前で立ち往生している、八百万の神々の気持ちが少し分かってきたよ。ここで踊りでも披露しなくては、戸を開けてもらえないのかい?」
梗鷺はあかねを見た。こわばる身体と震える瞳。
「どうなさいます?友雅殿をお部屋にお入れしてよろしいですか?」
「……だ、だめ。私、普通に友雅さんと話せない…」
小さな声で、うろたえる。
「ですが神子様、さっき申したように、きちんとこれは友雅殿ご本人にお尋ねした方が…」
「だめっ!そ、そんなこと聞けないものっ!」
「神子様!」
あかねは隣の部屋に逃げるように移動して、ぱしっとすぐに戸を内側から閉めてしまった。
「…先に寝たって、そう言って下さいっ」

彼女の気持ちが分からないでもないけれど………。このままでは何の解決にもなりはしない。
結局、お互いの言葉で理解しあわなくては、溝というものは埋めようがないのだ。
梗鷺はため息をついてから、戸の方へと向かった、
「お静かにお入り下さいませ。」
そう彼女が答えると静かに戸が開いて、夜露に髪を濡らした友雅が部屋の中に入ってきた。
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Megumi,Ka

suga