静かな恋の物語

 002
足音と共に息を殺して、あかねは一人の部屋に戻ってきた。
気持ちとは裏腹に、庭先を天から照らす月明かりはいつもより眩しい。池に映る月は煌々と輝き、水面に泳ぐ魚もこれでは昼と勘違いして眠ることも出来ないだろう。

たどり着いた部屋の真ん中で一旦立ち止まる。すると一気に体の力が抜けて、すとんと腰が床の上に滑り落ちた。
脱力感とけだるさ。その中でも意識だけははっきりしている。
そして、侍女たちが話していたことが再びリフレインをくりかえす。

大納言殿の二の姫のこと。大納言殿が、友雅を姫の夫にと考えていたこと。
それは…まだ現在進行形であること。
今夜彼が宴に呼ばれた先は、その大納言殿の屋敷だということ。
そこには……二の姫がいる。

友雅のところへ嫁いでからは、めっきり外出する機会もなくなってしまって、他人の噂などが耳に入ってくることなど皆無に等しかった。
最初はそんな日常に退屈な気分になったりもしたが、侍女たちは何の隔たりもなく会話に応じてくれたし、何よりも友雅と一緒にいる時間が多ければ、それで十分幸せだと思っていた。
しかし、あくまでもあかねのいる楽園という名の空間は閉ざされた世界で、外側の世界は容赦なく時間が流れ続けている。
良いことばかりではない。不穏なことも当然のように起こり続けている。
その証拠に、知っていて当然のように思えた大納言の二の姫の存在さえ、今はじめて知ったくらいで。
それに付随して……その中に友雅が少なからず関わっていることも今、知ったのだ。

もしかしたら、自分が元からこの世界で生まれ育っていたとしたら…そんなことは知っていて当たり前だったのかもしれない。
だが、突如として生きる世界を変える決意をしたあかねにとっては、この世界に起こった過去は他人の記憶というものと同じで、自分が実感出来るようなものではない。
だからといって、今更知ったところでどうなるわけじゃないのだけれど。
でも………友雅に関わることならば、どんなことだって知っておきたかったと思ってしまう。


京の華やかな話題を独占する友雅と同じくらい、多くの男性の興味を引き寄せるその姫君とは、どんな人なんだろう。
----------見目麗しく、それでいて格式高い階級の姫。自分とは大違いだ、と改めて思う。
龍神の神子という肩書きがなかったら、この世界で生きていくことは容易いことではないくらいの、ちっぽけな存在。
堂々と公にするような立場ではないから、あかねの本性を知る者は最低限の人数だ。
その最低限の中に、鷹通や泰明…土御門の藤姫たちがいてくれるから、不自由なく生きていられる。それよりも何よりも、帝が気を止めてくれていることが一番のことだ。
特別な立場があるから……。
逆に、それがなかったら何もない。表裏一体、思った以上にあかねの存在というものはあっけない。

一人の部屋は寂しいから嫌だ、とさっきまで思っていたのに、今はこうして一人で居る方が気を張らなくて済むだけ楽だ。誰かがそこにいたら、どうしても作り笑いをして平静を装ってしまうだろうから。
誰にもしばらく会いたくない。会話をするほど、頭の中が緩やかに動き出してくれる保証がない。
友雅の帰宅は、多分夜半過ぎになるに違いない。それまで誰にも、この空間を乱されたくないと思った。



「神子様?ご気分が優れませんの?」
その声が聞こえたのは、支度されていた床の上でぼんやりし始めてから、十五分か二十分くらいすぎた頃だったかと思う。
この屋敷で、あかねのことを「神子」という名で呼んでくれるのは二人だけだ。
たまにふざけ半分でそう呼ぶのは、友雅。そして、二人だけの時にそんな懐かしい呼び名で会話してくれるのは、あかねがここに嫁ぐ際に土御門から共にやってきてくれた、梗鷺(きょうろ)というやや年を過ぎた藤姫に着いていた侍女だった。

「夕餉を召し上がったあと、すぐにお部屋にお戻りになられてしまって。どうなされたのかと、他の侍女たちも心配されておりました。如何です?どこかに違和感でも?」
「いえ…別に何でもないです。気分も別に…悪いとかっていうわけじゃなくて…」
気分が悪いわけじゃないけれど、胸の中が優れないのは間違いではない。
梗鷺は静かに戸を開けると、静かな足取りで裾の衣擦れ音を立てながら部屋の中へ入ってきた。
そうして、彼女はゆっくりとあかねの隣に腰を下ろす。
その指先があかねに伸びる。

「何か、お悩みになられているのではございませんか?」
細くて長い指先が、そっとあかねの肩と頬に触れた。
ほんの少しだけかさついている指先だが、それは彼女に積み重なってきた歴史というものが、暖かさと余裕を持って手のひらに刻まれている証拠だ。
「お気に止めていることがおありでしたら、お話だけでもお聞かせ下さいませ。お心に閉じこめてしまうのは、良いことではございませんよ。聞き役くらいならば、私でも神子様のお力になれると思いますが」
その手は、懐かしいぬくもりを思い起こさせた。
もう二度と会うことのないだろう、母の手のひらによく似ていた。

そうしてあかねは、自然にぽろぽろとこぼれだした涙を押さえることも出来ず、梗鷺の膝にひれ伏して声をつぶしながら泣き崩れた。


■■■

あかねが落ち着くまでの間、梗鷺は何も問いかけたりせずにその背中をゆっくりとさすっていた。
彼女がそばにいてくれることを確かめると、何故だか冷えてきた身体がだんだんと温まってきて、ようやくほっとすることが出来たあかねは顔を上げた。
静かに微笑んでいる彼女が、あかねを見下ろしている。
「そろそろ、お話が出来るようになりました?」
「……すいません、なんだか色々と頭の中がこんがらがってしまってて」
起きあがって姿勢を正すと、すーっと新しい空気が体に流れ込んできて、ぼんやりしていた頭が一気に目覚めたような気がする。
そんなあかねをまっすぐに彼女は見つめる。
「神子様、お話をいたしましょう。お一人でこもってしまうのは良くありません。いつもなら友雅殿が相手をされるのでしょうが、あいにく本日はご用があるようですから、私でよろしければ愚痴でもお気になさらずおっしゃって下さって結構ですよ」
梗鷺は、どこまでも慈愛の笑みを絶やさずに、あかねに静かな口調で語りかけた。
しみこんでくる優しい言葉が、うっすらと凍り付きそうに冷えかかっていた心を溶かしていく。

「友雅さんの………」
一度、そう口に出してためらった。だが、こうやっていつまでも疑問を残しているままじゃ、彼と一緒に暮らしていくなんて出来そうにない。
「…友雅さんが…今日、招かれて出かけていった大納言様の………二の姫様のことで、梗鷺さんが知っていること、何でも良いから教えて下さい」
あかねからの問いかけに、梗鷺は不思議そうな顔をした。何故、彼女がそんなことを聞いたのか理由が分からなかったからだ。

友雅が一度たりとも、二の姫と逢瀬を重ねる関係だったという噂は聞いたことがないし、だからと言って既に彼の正室の座を得たあかねが、改まってその人を気にする必要などないと思っていた。
何せ、あの友雅があかねを北の方に迎えようとした時、毎日のように土御門の主(左大臣/藤姫の父)に許可を得ようと通い詰めたくらいだ。
あかねと離れるのは寂しいと嘆いた藤姫を、なだめることも忘れずにかなりの根気を持って食い下がった姿を、梗鷺はすぐ近くで見ていたのだ。

京を彩る女人たちとの絢爛たる話題を常に振りまいた、彼の姿からは想像できない紳士的な表情を梗鷺は見ながら、あかねに対する彼の想いは計り知れないものなのだと、あの時確信した。
彼が変わりつつあることと、その変化を作り出したものは、あかねだったことに。その想いが真実であるということに。
こうして彼女の世話をするために梗鷺は土御門からやってきたが、ここで繰り広げられた新しい日常も微笑ましさの中に満面の幸せがあった。
何も心配などすることはない、と二人を眺めながら思っていたのだが。


「大納言殿の二の姫は、二の姫とは呼ばれておりますが、本当は大納言殿にとっては一の姫でございます。正室様との間に出来た、初めての姫君だとお聞きしております。実際の一の姫とは、なかなか子の出来なかった大納言殿と正室様の代わりに、後から側室様を迎えたそうですが、その側室様との間に生まれた姫君ということです。その後、正室様がご懐妊されて、二の姫となったとのお話です」
子供がなかなか出来なかったから、代わりに別の妻をとる。そうして子を産ませる…複雑で、理解しがたい世界観だとあかねは思った。
だが、それが今のあかねにとっては現実である。
「しかし、一の姫様は二年ほど前に、ふとしたことで知り合った町人の男と逃げてしまわれたそうです。更衣として宮中にお上がりになられるとの噂も高かった方でしたので、これには大納言殿も随分と気を落とされてしまったそうで。その分、二の姫のお相手選びには気合いを入れておられる、との話ですわね」
階級と家柄が何よりも重視される世界。それがこの京という世界だ。
政略結婚という、あかねにとっては時代錯誤だと信じてきた常識が崩れていく。いかにして家を繁栄させていくか。そのためには結婚というものさえ計画的に進められていく。
紫の上だって、晩年は女三宮の存在に心を痛めた。源氏の一番の寵愛を受けた彼女でさえ………。
そんなことを思い出した。

「その……お相手選びに……」
友雅も含まれているんでしょう?とあかねは言おうとした。
正室以外に側室を持つことの当然のような展開は、大納言が自分で経験してきたのだ。だからあかねが友雅の正室となっても、別の妻を娶ることは不自然じゃない。
そして、正室以外の女性との間に子供を作ることも……とがめられることはない、なんて思いたくないのに、現実はそう遠いことではないのが辛い。
「友雅さんも……入っているんでしょう?」
彼が、二の姫を側室に迎える可能性はゼロじゃない。それを、受け入れて当然のように見過ごすことが出来るだろうか…と言えば、出来ないに決まってる。
「友雅殿が二の姫のお相手に?それは…私ははじめて聞きましたが」
梗鷺は驚いたような顔で、そう答えた。
ということは、やはりその話題はあくまで大納言側だけの噂であって、友雅が二の姫との間にきっかけを自ら作ったということはなさそうだ。
彼のことだから、そんなことがあれば忽ち話題に上らないはずがないわけだし。
「さっき、侍女の方達がお話しているの聞こえちゃったんです。まだ、大納言殿は諦めてないって。だから、友雅さんの上官の大将さんに口添えしてもらって、宴に呼んだんだって…。そこで、多分……」
二の姫と会わせるつもりなんだろう、と。そのとき、友雅はどうするのか。

二の姫にとっては、少将であれ四位の少将であり、帝の懐刀という彼の立場は今後に優位な権力になる。
そして友雅とっても、名目上は貴族である橘家だが、他の家と比べてさほど栄えているとは言えない状況を補うためには、大納言との関係は十分な利益を得ることになる。
お互いに損得が釣り合った関係の二人を、結びつけないとはもったいないだろう。
すべては友雅の選択にゆだねられている。
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Megumi,Ka

suga