静かな恋の物語

 001
「奥方様、夕餉のお時間になりましたが、広間の方にお支度を致しましょうか?それとも、こちらまでお持ち致しましょうか?」
少し色褪せた漆塗りの格子戸を開けて、侍女があかねに尋ねた。
時は夕刻。黄昏時も既に終わり、燈台の灯がいっそう明るく感じられる頃になっていた。
「奥方様?」
「あ、すいません…。向こうで頂きますから、広間のほうでお支度して下さい。」
「承知致しました。では、支度が整いましたら、再び参りますのでしばらくお待ち下さいませ。」

戸が開いた時に、隙間からふわりと漂ってきた厨房の香り。何かを煮ているような匂いと、少し煤けたような焼き物の匂い。
夕刻は一家の団欒の場。家族が揃って食卓を囲む、暖かな風景が描かれる。
いつもなら、あかねもそんな夜を過ごしてきた。
家族と呼べるほどの人数はいないけれど、彼と向かい合って過ごせるひとときは何より暖かであるはずだった。
そう、いつもこうしてこの部屋で。

池に映る月を眺めることの出来る、とっておきのこの部屋で、夕餉を囲んで…少し酒を嗜んで。
一日の他愛もない話題を肴に過ごす晩餐は、日常と言えどあかねには大切な時間だった。
だけど、今夜はここにはいたくない。
独りで繰り広げる晩餐は、心細くて寂しいに違いないから。


■■■


彼の隣に寄り添って生きることを決意してから、あかねの住む場所は土御門家からこの橘家へと変わった。
唐突に変化した生活環境にあかねが戸惑わないようにと、二人ほど土御門の侍女を呼び寄せてくれたせいで、新しい生活に不安を感じることは殆どなかった。

いつでも彼は、そばにいてくれる。不安なんて生まれっこない。
伸ばした手のひらは常に握り返してくれて、振り向けば艶やかな微笑みで抱き締めてくれる。
その瞳の中に映る自分を確認しては、ホッとしてどきどきして、彼のぬくもりの中に溺れていく。
幸せという言葉が、自然に浮かんで来てしまうくらいに……幸せだった。

幸せしかなかった。ずっとそうだった。
それなのに------今夜、彼はここにいない。

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それは二日程前。
いつもの夕餉の時間、友雅が切り出した一言が発端だった。
「君を迎える時に、何一つ嘘は付かないと誓ったと思うのだけれど」
盃を置いてあかねを真直ぐに見た友雅の表情は、決して緩やかな雰囲気には見えなかった。
ただ、これから彼の言う何かが、二人にとってそれほど好意的なものではないことはすぐに分かった。

「明後日の夜に、某方の宴に出ることになってしまった。だから、その日は帰りが遅くなってしまうかも知れない」
「そうですか…お招きじゃ仕方がないですね。それもお仕事の一つですもんね」
左近衛府少将である友雅が宴に誘われると言うのは、いわゆる付き合いでの飲み会に出席する意味と同じようなことだ。
彼は対人関係を自分から密接に築いていこうとは思わないタイプだが、どうしても抜けられない立場という例外の関係もあるだろう。
まだ少しだけ他人行儀の空気が漂うこの屋敷で、一人の夜を過ごすのは少し心細い気がするけれど、それは黙っているのが良識というものだと思う。
だから、微笑んでいた。寂しい様子を見せないようにと頑張ってみたつもりだった。

その場は難無くしのげたはずなのに……事は思っても見ない一瞬のほころびから、不安というものを生み出してしまう。



今朝、内裏に向かう友雅を見送ってからあかねは母屋に戻った。
その途中、寄り集まっていた侍女たちの部屋を通り過ぎようとした時、聞こえて来たそれがいけなかった。

「ええ、そうだという噂ですわよ…殿がどう御考えでのことか分かりませんが、上官殿からのお声が掛かっては無視できませんでしょう?」
彼女たちが友雅について話していることを察したあかねは、その場を通り過ぎる気になれずに一旦立ち止まった。
いっそのこと、このまま彼女たちの前に出て、直接どんな話をしているのか尋ねてみようかと思ったが、その足は一歩限りで歩みを止めた。

「でも、大納言殿は以前から殿を二の姫君の伴侶にと、随分迫っておりましたでしょう?今迄何もお話に乗ったことはないのに…どう御考えなのかしら?」
「奥方様もいらっしゃるということで、別にもう大納言殿も無理強いはしないと御考えでは?」
その会話の中で、あかねは二つのことを初めて知ることになる。

『大納言殿』が…ということは、今夜友雅を招いた相手というのは大納言のことだったのか。そんな一般的な情報。
だが、そんなことよりもずっと強く、あかねの中に刻まれた深い言葉はそれ以外の内容さえも寄せ付けようとはしない。
二の姫君…伴侶…はじめて耳にした、過去から続いている、あかねの知らない友雅の身辺での出来事。
友雅がこれまでの間に、数多くの華やかな話題を繰り広げてきたことは承知の上だ。
でも、彼の妻になるかもしれない相手がいた、ということは初めて耳にした。
しかも………こうして自分が、彼の妻となった今になって。

声は出ないのに、鼓動だけがどくんどくんと大きく鳴り響く。
聞こえるはずもないのに、誰かに気づかれてしまうのではないかと心配になるほど大きな音を立てている。
そんな中で、彼女たちは話を続ける。
「ねえ、こういうことも考えられますわよ。側室でも構わない…なんて、詮索しすぎかしら?」
比較的年令の若い侍女が、そんな問いかけを他の侍女たちに投げかける。
その問いに、しばらく首をかしげていた一人の侍女が、こくんと首を二度ほど上下に動かす。
「……いえ、あり得ないことではありませんわね。官位では殿よりも遥かに上である大納言殿ではありますが、帝との距離感と信頼は殿には及びませぬ。官位は申し分ない後ろだてのある姫に、殿の帝からの強い信頼が加われば…右に出るものはいないとまで歌われることも考えられますわね」
「となると………今夜は、そういう魂胆があってのお招き?」
「奥方様がいらっしゃられたと知っておりながら、顔を合わせればまだ何かと殿にお声をかけることが多いと申されますし。それでもなかなか殿が振り向かないとなれば、大将殿に口添えをしてどうにか邸宅まで連れて行こうという…そういう考えかもしれませんわ」

ひそひそと紡がれていく侍女たちの会話。それと同時に、小さな傷があかねの心に増え始める。
目に見えないほどのかすり傷でも、塩水を浴びれば痛みを感じる。そして、更に傷が深くなっていく。
「殿をお連れして…どうされるおつもりかしら」
「大声では言えませんけれど、やはりせめて側室の座でも…とか」
侍女たちはすぐそばにあかねがいることなど、全く気づかないままでうわさ話を更に続ける。
「まあ…そこまでされると?」
「それは勝手な私どもの推測ですけれど。でも、失礼ながら大納言殿の諦めの悪さは有名ですし…。それに、二の姫のお噂、あなたもご存じでしょう?」
「お噂というと……」
閉じた瞼の裏に、目にしたことのない二の姫の姿を言葉で描きながら侍女が言う。
「透き通るほどの白い肌と、紅を差す必要もないほどのつややかな唇を持つ美貌の姫君として、嵯峨の寒椿と称されるお方だとのお話」
「十の頃から多くの殿方より、文やお声が掛かったとの噂は今も絶えませんわね。」
「大納言殿の自慢の姫君と、橘少将殿といえば、この京で一、二を争う華やかな話題の中心のお方ですもの。」

口をそろえて皆が二の姫を賞賛する。
同性の立場から見ても、感嘆の声が上がるほどの姫君。身分、容姿と申し分ない姫君であるならば、それ相応の相手でなくては意味がない。
そこで白羽の矢が立ったのが………。
「大納言殿のことですし、せめて殿の側室にでも二の姫をお送りし、いずれお二人の間に御子が生まれたとして…その御子が帝の側近となって上がることが出来れば…とのお考えなのでしょうが」
随分と気の長い予想図だとは思うが、婚儀を交わす年令も早いこの時代であるから、それほど長期戦ということもないだろうか。
「ですが、殿がそういうお話を受け入れますかしら?」
「さあ…。まだ一度も二の姫とはお会いしたことはないとのお話ですが、お会いしたらどうでしょう…?」
「まあ、それではまるで殿が奥方様に不義理を立てるとのこと?」
「現状はどうであれ、今までの殿のことを思い返すと、どうしても…ねぇ?」
「そういうことは、口には出さないものですわよ」
「では、あなたもおなじようにお考えとのことですわね?」

くすくす…軽やかな笑い声が聞こえる。
会話がとぎれるまで、あかねはそこから一歩も動かなかった。というより、動けなかったと言った方が正しいだろう。
このまま聞いていても、良い情報なんて耳に入らないはずだと直感で分かっていたのに、それでも耳をふさぐことが出来なかった。

あかねの足がやっと動いたのは、それから5分ほど過ぎた頃だった。
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Megumi,Ka

suga