Romanticにはほどとおい

 第25話 (3)
屋敷の中が、突如慌ただしくなって来た。
女房の出入りが激しくなり、晴明の指示を仰ぎながら泰明が支度を整えている。
「安倍晴明…」
京生まれでなくとも、そこそこ暮らしが長ければ耳にしたことのある名。
数多といる陰陽師の中で、群を抜いた力を持った有名人。
それが、この老人だったとは。
「晴明様はホントに凄い人ですから、きっと蘭の記憶を取り戻してくれますよ」
わざと力強い口調で、あかねは彼にそう言った。

「でも、過去の記憶が戻ったら…これまでの記憶はどうなるのでしょうか」
彼にはひとつ、気がかりな点があった。
蘭の記憶が戻り、隣に眠る男が兄であることに気付き、本当の自分を思い出す。
そうしたら彼女の中の記憶は、蘇ったものに上書きされてしまうのだろうか。
もし、そうだとしたら…自分の存在は埋もれてしまうのでは。
「ふうん…。確かに、そうなったら困るね」
なるほど、と友雅は思った。
どんな風に記憶が回復するか分からないし、彼が言うように新しい記憶が消えてしまう可能性もある。
愛する人が、自分のことを忘れてしまう。
自分に置き換えると、あかねの中から自分の記憶が消えてしまうということ。
どんなに想っても、あかねは自分に気付かない。
愛し合った甘美な日々の記憶も、何一つ残らないとしたら耐えられない。
「私も君と同じ、恋に溺れた男だからね。そのような悲劇が起こらぬよう祈るよ」
友雅は、あかねの指先に手を伸ばした。
その感触に気付いて、彼女は自分から手を握り返す。
求めれば求めてくれるその存在を、失うわけにはいかない。


間もなくして、イノリが到着した。
子どもたちが間違いなく青年を送り届けたか、気になって様子を見にやって来たらしいが、彼が訪れたことは晴明にとって好都合でもあった。
「では、皆揃ったところで…始めるとするかのぉ」
行き来していた人々の足がようやく落ち着いて、部屋の空気が静かになった。
香炉が四つ、蘭と天真が横たわる隅に置かれている。
焚かれている香は、あまり嗅いだ事のない香りだ。
泰明から手渡されたシキミを、晴明は二人の胸の上に置く。葉はまだしっとりと濡れていて、露の玉が表面に浮いている。
「朱雀、玄武、白虎、勾陣、帝后、文王、三台、玉女、青龍」
「眠りにつきし地の神を呼び覚まし、我の前にて覚醒せよ」
晴明と泰明が呪を唱えたあと、式神は天真の右腕を手前に伸ばした。
そうして、イノリが手首、友雅が肘、泰明が指先に自分の手を重ねた。
閉ざされている天真の意識-----つまり青龍の神気を、泰明が持つ玄武の気、イノリが持つ朱雀の気、友雅が持つ白虎の気を使って引き寄せる意味があるのだと言う。
イノリがやって来て都合が良かった、というのは彼の朱雀の気のおかげで四神の気が揃ったという意味だった。

「何だかよく分からないですが…凄いことをしているんですね」
「私も陰陽道って全然詳しくないですけど、晴明様が行ってることはホント凄いことばかりですよ」
現代では祈祷とかまじないなんて、『空想の中でのみ存在するもの』のように捕らえられていた。
あかねもどこか半信半疑で見ていたが、この京という世界にはそれらが現実として息づいている。
妖し、呪い、憑き…どれもこれもリアル。
それらに対峙し、整え、天地全能の力を持って平穏へと導く。
陰陽師とは、スケールの大きな職業だなと晴明や泰明を見ていると感じる。
「きっと大丈夫です。蘭は目を覚ましてくれます。そうしたら…ええと…」
……?
声が少しもたついたかと思うと、ほんのりあかねの頬が紅色に。
「あ、あの…蘭が気付いたら…その、け、結婚とかするんですかっ?」
「け、け、結婚っ!?」
青年が大きな声を上げたので、全員が一斉にこちらを向いた。
晴明も呪を唱えつつ、視線だけはこちらを見ている。
「まさかそんな、いえ、そーいうことまでは…!」
蘭を特別に想っているけれど、結婚しようというまでは考えたことはなかった。

「おや、じゃあ蘭殿とは遊び程度の付き合いだったのかい?」
すかさず友雅が話題に入って来る。
「遊びだけの戯れなどつまらないものだよ?まあ、君らは若いから良いのかもしれないが」
多分ほぼ同時に、イノリと泰明は心の中で同じツッコミをしただろう。
"おまえが言うか!"と。
過去にどれだけ流れ流されの関係を続けて来たか、覚えていないのかと。
「ちなみに、彼女の兄上は結構…手厳しいよ?」
友雅は、目を閉じて床に眠る天真の顔を、ちらっと見てから青年に視線を戻した。
「どうやら溺愛していたようだからねえ。大切な、たった一人の妹君だ。もし君が、そんな薄っぺらな恋仲を望んでいたなら……」
もし天真が意識を取り戻して、彼と対面したら…多分それだけで暴れると思う。
そして"お付き合いしています"とか言おうものなら、更にヒートアップすること間違い無し。
「まあ、兄上は大反対するだろうね。近寄ることさえ許してもらえそうにない」
そんな風に友雅は脅しをかけるが、実のところ、あり得ないこともないなとあかねも思った。

「行き当たりばったりの関係ならば、深入りしないほうが身のためだよ」
「違います!そういうつもりで付き合ってないですって!」
思わず声を上げてしまった。
次の瞬間に、まんまと誘導されたと気付いたが、もう口にしてしまった本心は取り下げられない。
「今は自分も修行の身ですから、そんなところまで考える余裕はないだけですよ」
「それじゃ、その修行が終わったら…蘭のことお嫁さんには…」
間髪入れずに友雅とあかねから次々と、遠慮なく突っ込んでこられて心中をえぐり出される。
「どうなるか分かりませんけど、そうしたいって思うくらいは真面目に考えて付き合ってますよ、ホントに…」
一人前と他人から認められなければ、家庭を築くことなんか出来やしない。
現状は結婚など遠い考えだけれど、彼女に対しての感情は気軽なものではないことは確か。

「だったらさ、一人前になりたい理由をソレにしてみれば?」
今度は赤い髪をした少年が、彼に向かってそう言った。名前は、イノリと言っていたか。
「単に一人前になるってだけじゃ、つまんねーじゃん。独り立ちして天真の妹を養えるようになりたいって考えたら、益々やる気が出るんじゃねえかなー」
「…イノリくん、その発想イイ!」
欲を出したらキリがないけれど、目標があるほど、前に突き進む意欲になる。
自分のための目標だけではなくて、誰かのための目標。
その"誰か"が大切な人ならば、願いは現実に変わる力となる。
まさに今、彼らを目覚めさせようと、この場所に集まった皆と同じように。

「その気があるのなら、妹君の手を取ってくれぬかのお」
呪がいつの間にか止んでいて、晴明が青年に声を掛けた。
「手でも握って、呼びかけてもらえぬか」
「あなたの声なら、蘭も気付いてくれるかもしれませんよ!」
「寝顔を眺めるのも良いが、お互いに見つめ合って愛を囁く方が私は好きだけれど、君はどうだい?」
「好きなんだろー?やる気だせって」
「……」
泰明は無言だったが、彼を見たすぐあとで蘭の方に視線を移動した。
手を握りやすい位置へ移動しろ、ということを言いたかったのだろう。
何度も触れたことのある、彼女の手、指先。
繋ぎあって川沿いを歩いた記憶は、まだ鮮明な記憶として残っている。
彼は静かに、手を伸ばした。



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Megumi,Ka

suga