じいっと覗き込む、大きな黒い瞳。
年頃の娘に見つめられたら、これまた年頃の青少年はどぎまぎするものだが、この場合はちょっと違う。
他人のようでいて、本当は他人じゃない。
生まれた時から、ずっと近くにいた妹に他ならないのだが。
「ねえ、ちょっと聞いてる?」
「あ?ああ…ええっと、な、何だ?」
しどろもどろの天真の返事に、蘭は呆れてため息をつく。
"やっぱり聞いてなかったんじゃないのよ"と、そんな文句が今にも飛び出しそうな顔である。
「もう一回言うわよ。アンタさ、私とどっかで会ったりしてない?」
そう言ってまた、蘭はじっと天真を見据えた。
どう答えれば良いんだろう。
もし、蘭が自分を兄だと思い出しかけているのなら、今打ち明けるのがチャンスじゃないか?
だが晴明や友雅たちには、慎重な行動を散々言われているし。
戸惑う天真が顔を上げると、蘭の背後に友雅とあかねの姿が見えた。
すると友雅は自分の人差し指を立て、唇の前に押し当てる。
……黙っていろ、というか、つまりしらばっくれろと?
真実をまだ告げる時期ではない、という彼からの合図。
続いて泰明と方へ視線を動かすと、隣にいた晴明が目配せをした。
兄であることは、もうしばらく胸の内にとどめておくように。
相変わらず歯痒さは残るが、晴明や友雅たち頼らざるを得ない天真には、彼らの指示に従うしかない。
「あ、会ったことなんか、あるわけねえだろ!俺だってこれでも俺、人の顔とか名前は記憶力良いんだぜ!?」
「…そーなの?そこまで賢そうには見えないけど」
蘭の返答に、天真の顔色が真っ赤に変わった。
別に照れているとかではなくて、煮えたぎった感情が沸騰寸前という意味…つまり、怒り心頭寸前。
その光景を見て、泰明以外が思わず吹き出しそうになる。
全くどこまでも似た者同士というか、何と言うか。
ああ言えば、こう言う。
この完璧すぎる阿吽の呼吸は、血のつながらない他人ではあり得ないだろう。
「見ていて飽きないねえ、あの二人は」
小さくつぶやく友雅の声に、あかねも素直にうなづく。
「でも、どうしてかなあ…」
天真の返事を聞いたあとも、蘭はどこかしっくりこないところがあるようで、またも首を傾げ続ける。
「何か気になることでもあるのかね」
今度は晴明が尋ね返してみると、彼女は再び姿勢を戻して、長い袿の袂を直しながら正座し直した。
「うーん…、さっきこのヒトがさ、"男は顔ばかりじゃなくて中身も見ろ"とか言ったじゃない。何かそれを聞いたときにね…、昔どっかで、そーいう同じようなことを、このヒトくらいの年の男に言われたような、そんな気がしたのよね」
どうしてそう感じたのだろう?
自分は天涯孤独で、シリンたちに拾ってもらって生きている------から、それほど人脈もないのに。
蘭は何度も首を傾け、違和感のある意識を不思議がる。
友雅の袖を、あかねがくいっと引っ張った。
「と、友雅さん…、もしかして蘭…」
「ああ、そうかもしれない。もしそうなら、これは良い傾向だな」
蘭が昔のことを思い出し始めている。
そのおぼろげな記憶の中で、天真と同じくらいの年の男と言ったら、間違いなく天真本人としか考えられない。
彼らのことだから、以前同じようなやり取りがあったとか?
まあ、それはあとで天真に尋ねてみるとして。
だが何よりも、蘭が"昔”という前書きを付けて、自分の話をしたのは今日がはじめてである。
アクラムの呪により記憶を塞がれ、兄である天真を目の前にしても、今まで何一つ動じることのなかった彼女が、わずかだが自らの記憶を呼び起こそうとしている。
「この調子で、これからも色々なことに気付くようになれば、二人が兄妹に戻ることが出来るよ」
「はい…。早くそうなると良いですね」
手の届くところにいるのに、手を伸ばせないことがどれだけ辛いか。
今は向き合うことに慣れて平然としている天真だが、心中はいつだってもどかしいだろう。
しかしそんな想いも、徐々に回復へと向かっている。
小さな変化ではあるけれど、前に進んでいることが証明されてゆくたび、皆は行く末に期待を抱いた。
宴が終わり、蘭たちと一緒にあかねも、土御門家へと送られることになった。
あかね一人だけでも、今夜は屋敷に泊まらせようとした友雅の熱意は、女房たちに予め手渡されていた文によって、あえなく遂行出来ずに終わった。
差出人は、土御門家の姫君。
"明日は前々からお願いしておりました、あかね様のお着物のお仕立てが出来上がって参りますので、くれぐれも遅くならないうちに屋敷へお届け下さいませ"
「という事ですので…殿、残念ではございますが、奥方様を土御門家までお送り下さいませね」
出がけに文を突きつけられて、椿に厳しく何度も言われた。
くれぐれも、そのまま連れて戻って来たりしないように、と。
「はあ…君があちらに戻らずに、ずっと私の屋敷に居座ってくれるのは、一体いつになるんだろうねえ」
既に部屋も着物も調度品も揃えて、あかねが暮らすための準備は整えてあるのに。
更に女房たちにまで、彼女を"奥方様"と呼ばせるように義務づけているというのに、肝心の"奥方様"が未だにここに住んでくれないなんて。
抱きしめ合うことに慣れた今では、独り寝の肌寒さが身にしみる。
「土御門家に君を送り届けて、そのままひとりで帰るなんてね…空しいものだ」
「う、それは…私もその、出来ればお泊まりしたかったですけどー…」
天真がシリンたちを、彼らの居住地へ送って行っている間、もう一台の車の中では二人きりのひととき。
「以前のように、私が通う側になろうかな」
夜も更けた宿直の帰り、ひとめで良いから彼女の顔が見たくて、そっと土御門家に忍んだことが度々あった。
少しだけ言葉を交わして、頼久の目を盗み口づけをする時の緊張感は半端じゃなかったけれど。
「でも、今となっては口づけだけじゃ…ねえ?」
唇を味わってしまったら、きっとそのまま一緒に朝日を眺めたいと思ってしまう。
起こしに来た藤姫や女房が、あかねの隣に友雅が眠っていたら…果たしてどんな騒ぎになるだろう?
「別に構わないんだけどね。私と君は、既に夫婦となることを認めてもらっているんだし」
「それは、そうですけどっ…。でも、その…やっぱり人目がありますし!」
「確かにね。普段可愛らしい神子殿が、私の腕の中で艶やかに変わるのを、誰かに見られるのは面白くないかな」
後ろから抱きすくめて、悪戯するように何度も唇を求めてきては、わざと艶かしい言葉を選ぶ。
本当はこのまま、そんな甘い声に耳を傾けていたいのだけれど…。
「あのですねえ?お役目終わったんですけどねえ、車に入ってもお邪魔じゃありませんことー?」
ふざけ半分の呆れ声が、車の外から聞こえて来た。
苦笑いしながら友雅はあかねを手放し、戸をそっと開ける。
「ご苦労様。さ、中にどうぞ」
「…どーもすいませんねえ、ホントにお邪魔しちゃって」
よっこらしょ、と乗り込んで来た天真が、ちらちらと二人を見る。
「あ、やらかしてなかったんだ」
「ちょっ…天真くん、いちいちやらしい想像ばっかり!!」
赤面しながら突っかかるあかねを、軽く交わしながら笑う天真。
こういうあけすけな言葉遣い、やっぱり妹と良く似ている。
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