恋愛論理

 第30話 (4)
「……そんな。だってもう私、神子でも何でもないのに、呼んでも出て来てくれないですよ…」
怨霊がいなくなった今、封印という機会がなくなったために力を試してはいないけれど、何となくそんな気がしていた。
もう、神子でもないから、役目がおわったから、戻らなくてはいけない時が近づいていると、そう感じていたのだ。

だが、戸惑うあかねに、もう一度友雅は言った。
「君を神子に選んだのは、龍神なのだから。どこかしら繋がる何かがまだあるはずだ。呼んでごらん、出て来てくれと。」

龍神を呼んで、一体何をしようとしているのだろう?
あかねは複雑な想いのまま、湖の淵で目を閉じた。

……龍神、もう一度私の声が届くなら……。

シャン。

あの音が響いた。身体の中から。


水面がすうっと揺れ出し、輪をどんどん広げて小さな波を立てて行く。泡が立ち始めたかと思うと、ゆっくりと渦が池一面に広がった。
静かに、波が持ち上がる。
そして……純白の白い龍が顔を出したかと思うと、身をくねらせながらあかね達の頭上へ浮き上がった。

「あなたが龍神殿だね?私は彼女を護る命を受けていた、地の白虎だ。私の声が聞こえるかい?」
龍神らしきものは全く声を出さなかったが、友雅の声にあきらかに反応するように、軽く身をねじって見せた。
すると友雅は納得したようにうなづいて、傘をその場に放り投げた。
あかねが驚いて傘を拾おうとしたが、友雅はそれを阻止するように手を払った。
そして、再び龍神を見上げる。
「聞こえているのなら良い。じゃあこれから私の言うことを、貴方に聞いてもらいたい。」
小雨が降り続く中、彼の身体を雫が濡らしていく。

「おそらく私たちを見下ろしていた貴方であるから、すべてのことはもう承知の上だろう。貴方の加護が彼女から抜けた今、私にも白虎の力は何もないはずだ。」
もちろんそれは友雅だけではなく、八葉だった者すべてに当てはまる。誰もが、これまで同様の生活に戻りつつある。
身体に輝いて熱を帯びていた宝珠は、いつのまにか跡形もなく消えてしまった。
つまり、各の役目が終わったと言うことなのだろう。

「私はただの男に戻った。そして、彼女は…まだ年は若いが、私と同様に、ただの女に戻った。それならば、もう貴方の力に捕われる必要はないと思うのだが。」
龍神は小刻みに揺れながら、目立った反応を示しているわけではない。
静かに、彼の言うとおりに友雅の話に耳を傾けているという感じだ。
髪の毛に、雨粒が降り注ぐ。あかねは、友雅と龍神の会話を後ろで黙って見ているだけだ。

友雅は……龍神に何を話そうとしているんだろう……。
そんなことを考えていると、彼の手があかねを指さした。
「八葉であった私が、今彼女に恋をしても…咎められる理由はないだろう?彼女も、もう神子ではないのだからね。」

まさか。
あかねの中に、一つの憶測が浮かんだ。

「はっきり言おう。私は、彼女をここに残したい。ここに引き止めて、ここで生きる場所を与えたい。」

憶測は、現実となった。
友雅は……龍神を説き伏せようとしているのだ。確信なんて何もないのに。
無謀なことかもしれないのに…彼は、向かい合おうとしている。
あかねのためでもなく、友雅のためでもなく、二人の未来のために。
胸が詰まって、涙がこぼれてくる。瞳に映る友雅の背中が、潤んで見えなくなるくらいに。


意外に龍神の反応は、穏やかだな、と友雅は話しながら思った。ある程度覚悟はしていたのだが。
話した途端に暴れられた時にはどうしようかとも考えたが、こうして話に耳を傾けてくれているのは都合が良い。
勿論、だからと言って自分の言うことを、龍神が聞き入れてくれる確証など全くない。
しかし、それでも言わずにいられなかった。
"龍神を説き伏せてみよう"と言ったのは、確かに自分なのだから。

「貴方が時空を歪めて、彼女をこの世界に振り落とした。失礼を承知で言うけれど、それは貴方の責任だ。そのせいで………私は恋の辛さも何もかもを経験した。だが、それと同時に幸福感というものを手に入れることも出来た。時空が歪まなければ、そんなきっかけはなかっただろう。それは心から感謝するよ。」
だからこそ------。
「だからこそ、私は彼女の手を離したくはない。彼女が残っても良いと言ってくれた以上、私は相手が誰であろうと、私たちを引き裂く力を持つ相手を説き伏せようと、そう思ったのだよ。」

どんなことでも、試さずにはいられなかった。
例えわずかな可能性であっても、諦めきれなかった。
後悔だけはしたくはなかったから。


「龍神殿、あなたは私と彼女を、生まれ育った世界へ引き戻すおつもりか?」
変化は現れない。特に目立った反応は見て取れない。
たゆたいながら、雨の中で白い光を放ち続けているだけだ。
「さあ、答えて頂こう。どうだい?」
しばらくすると、すーっと水面が揺れ始めた。
細かい輪が、湖一面に広がっていく。
あかねと友雅は、その変化をじっと見ていた。
龍神は、何かを言いたいのだろうか……それは、やはり二人が供に生きることを、阻むという意味なのだろうか。

どうする?もし、龍神が許してくれなかったら…?残された道は、他にある?
それでも一緒に生きていける方法は、あるのだろうか。
不安な気持ちのままで、あかねは水面の輪を見つめる。
すると、友雅がその場に膝をついた。

「もしも引き離すというのなら----------お願いしたい事が有る。その時は、私と彼女の記憶を、全て白紙に戻して欲しい。」
「…友雅さん…っ?」
手元が震えて、傘が滑り落ちた。あかねは、友雅の隣に駆け寄って、頭上に揺らめく龍神を見上げた。
「ほんのわずかでも、記憶の破片が残っていたとしたら、離れたあとが辛すぎる。だったら、最初から何もなかったように…すべてを取り消して欲しいんだ。どんなものを見ても、彼女のことを思い出さないように。最初から彼女の存在がいなかったようにして欲しい。そうでなければ…生きては行けない。空蝉など、私は欲しくないんだ。」
「友雅さんっ!」
あかねは、友雅の背中にしがみついた。いつのまにか彼の髪の毛先から、雫が滴り始めている。
彼女の手のぬくもりを感じながらも、一度うつむいた顔を友雅は上げなかった。


最悪の覚悟も出来ていた。お互いが離れて生きる結末を。
そんなとき、一番良い方法はなんだろうか、と友雅は考えていた。
そして、絶望の中で浮かんできた、たった一つの答えが、これだった。
初めて知った恋が幸せなほどに、失ったときの悲哀は想像を絶する。だから、その記憶を全てなくしてしまえば、もう一度やりなおせる。
あんな幸福感は二度と経験出来ないかもしれない。再びまた、自分は不安定な日々を生きていくことだろう。
でも、それでも失った恋に絡まれて生きていくのなら、何も知らない自分に戻った方が少しはマシだ。
「それくらいの願いは、叶えてくれないか?」
友雅の声に共鳴するかのように、ひとつ、ふたつと水面の輪が広がっていく。

「嫌です!私…友雅さんと離れたくないです!でも…でも、友雅さんを忘れるのも…嫌です…!」
友雅の腕にしがみついて、あかねは夢中で大声を出した。
本心が感情と共に溢れ出した。
言葉も音も聞こえない中で、池の表面だけが反応を続ける。それが無性に不安にさせるから、じっとしていられなくなる。
「離れたくない…ここに残りたいの……」

----------この声を聞いて。心の叫びを聞いて。何もそれ以上は望まない。
ただ、ここにいたいだけ。彼の生きるこの世界で、これからずっと生きていたいの----------------。

幼い頃に聞いた、赤い糸の伝説が本当にあるのなら、この指に絡みついた絆を解きたくはない。
たぐり寄せて、ようやく寄り添えるようになった、お互いの距離をこれ以上狭めるなんてことはしたくない。
降り続ける雨の冷たさなど、二人が離れてしまうことを考えたら…きっと比べものにならない。
凍てつく日々の中で、再び燃えることのない恋の炎を抱えて生きるなんて、どんなに辛くて切ないか。

「お願い…」

彼と離れるのは………………い や だ。

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Megumi,Ka

suga