残りたい?…そう、残りたい。この世界に。
どうして残りたいのか……?それは、後ろ髪を引かれる、大切なものがここにあるから。
残りたいんじゃない。離れたくないのだ。
この世界ではなくて………彼から。
「良いのかな…そんなことしても。だって、天真くんたちみたいな、はっきりとした理由じゃないのに……」
親指を噛みながらうつむくあかねを、今度は軽く小突いてみせた。
「おいおい!おまえさぁ、俺のテキトーな答えより、おまえの理由の方が全然分かりやすくて理に適ってんじゃねえの?」
あっけらかんとして、天真はそう言いながら笑った。隣にいる詩紋に目をやると、明るい笑顔をしてあかねのことを見ている。言葉にはしなくても、天真の意見を肯定しているようだ。
「良いじゃん、別に。友雅と離れたくないから、戻りたくないんだろ?」
天真の声が、あかねの心を代弁する。
ここに残りたいという最大の理由は………彼がいるから。離れたくないから。
ずっとそばにいたい。彼の声が聞こえる場所にいたい。その場所で、幸せを感じていたいと思うから。
「それで良いじゃん。あんなすったもんだの末に、やっとくっつくことが出来たんだからさ。今更迷うことねぇだろ。」
「あかねちゃんがそうしたいなら、それで良いじゃない。それが幸せだって、そう思うならそれで良いと思うよ?」
二人の言葉は正反対の口調だけれど、どちらもあかねの背中を教えくれている、力強い言葉だ。
近くに居てくれた彼らに、これまでどれほど勇気づけられて来たか知れない。
そしてまた、ここで二人の存在に力を貰ったような気がする。
詩紋の手が、静かに肩に触れた。
「そういうときはね、ぱっと直感に任せると良いんだよ。あまり考え込むと、余計な事ばっかり考えてどんどんテンション低くなっちゃって、簡単なことも分からなくなっちゃったりするから。」
と言ったあと、『そんなこと言える立場じゃないけどね』と言って、舌を出して笑った。
直感に任せて…自分の本当に求めている答えを探す。
どうしたい?
答えはもちろん……ずっと一緒に…………。
「どこにいるのかと思ったら、こんな所で立ち話をしていたのかい?」
後ろからぐいっと腕を絡められて、うろたえながらよろけそうになることを計算した上で、友雅の腕が背後から伸びてくる。
「さっきから探していたのに、姿をくらましてしまうなんて、つれない姫君だね」
「そ、そういうわけじゃないですよ!ちょっと…天真くんたちと真面目な話をしていただけで…」
こうして抱きしめられるのは随分と慣れたけれど、それでもやっぱりいつも照れてしまう。
普段よりも、かかる息が近くに感じるし、何枚もに重ねた衣を通しても、彼の心音が聞こえて来るし。
「相変わらずおまえら、人が見てるってのに遠慮なくイチャイチャしやがって。」
「いっ、イチャイチャってっ!そんなことしてないじゃないのー!」
ニヤニヤしながら天真が眺めているのを見て、慌てながらあかねが文句をつけようと声を荒げたが、敵にも味方にもならない友雅がいるので、あかねの思うようには行かない。
「これでも人前だから遠慮はしてるんだよ、天真。それとも君がお望みなら、私たちの艶事でも聞かせてあげようか?」
「そそそそ、そんなことした覚えないじゃないですかあ!」
じたばだと真っ赤な顔をして暴れるあかねを、わずかさえもその腕の力を緩めずに抱いたまま友雅は笑った。
相変わらずとは言え、こうやって戯れている二人の光景は、天真たちにとっても微笑ましいと思う。
最初はあの友雅が相手なんて、と思ったりしたけれど、彼の変貌を一部始終見ていた立場としては、もうそんな不安などはなかった。
その証拠に、既に龍神から解き放たれたはずだというのに、あかねと友雅の間にはゆったりとした淡い暖かな光が感じられる。
神子と八葉の立場を超えた、強いつながりがそこにあるという証なのだろう。
「というわけで、そろそろ私の姫君を連れ去ってもいいかな?」
「ああ、かまわねーかまわねー。どこにでも連れてってやってくれ。帰って来られないとこまで連れてってもいいぞー」
無責任なほど適当に答えて手を振る天真を、あかねは少し口を尖らせつつ睨む。それを見て、また天真は詩紋と顔を合わせて笑った。
「じゃ、またあとでねー!」
今度は詩紋が手を振りながら、東の対へと歩いて行った。それに続き天真も姿を消し、残されたのはあかねと友雅の二人だけとなった。
だからと言って、彼が腕を解いてくれるわけもない。
……解いて欲しいわけでもないけれど。
「さて、神子殿。実は今日私が来たのは、藤姫殿に呼ばれていたのだけれどね。」
友雅は後ろからあかねを抱きすくめたまま、彼女の肩に軽く顎を乗せて話しを始める。時々耳に息が掛かって、少しくすぐったい。
「神子殿のお召し物を選ぶ手伝いをして欲しいというのでね。」
「…私の?」
「そう。柚芽殿の婚礼の儀のために、ということで、新しく仕立てるつもりなのだそうだが。」
おそらくそれは、さっき話していた袿のことだ。
「……藤姫ってば、そんなのわざわざ作らなくても良いって、断ったばかりなんですよ。主役は柚芽さんなんだし、そっちに力を入れれば良いのにって…」
形になって残るものほど、何故か今は恐れている。
例えここから自分がいなくなっても、存在を残してしまうのが嫌なのか。それとも、自分の中にその記憶が残るのが、怖いのか。
「せっかくそう藤姫殿が言うのだから、神子殿こそ遠慮しなくても良いんだよ。滅多に着られるものではないしね、その分良いものを作ってもらいなさい。」
そう言って友雅は、腕をあかねの肩に回して軽く身体を押した。
友雅にも、あかねの中に浮かんでいる不安は気付いていた。
それこそが、今の自分を悩ませているものと同じであると感じたからだ。
お互いに、いつまでこの状態でいられるか……それを恐れている二人を引き離す何かが、突然起こるのではないか、と。
加護は解かれたとは言っても、元々はこの時空さえも歪めた絶大なる力を持つ龍神。自分が乱した時の間を元に戻そうと、あらぬ力を使うかもしれない。
それがいつになるのか。いつやって来るのか。
恐れながら一緒に時を過ごさなくてはならないのか……?
……あまりにそれは、辛すぎる。
だから、それ以上は友雅も切り出すことが出来なかった。
+++++
軒からは、雨の雫が止まる様子も無く滴り落ちて、高欄は辺り一面がまんべんなく濡れている。
少しはねかえった雨粒のおかげで、簀子も今日は若干湿っているようだ。
天上の雲のせいで、昼間でもあまり明るくはないその部屋に入ると、既に数点の衣の端切れが並べられていた。
折り紙をすべて並べたように、色とりどりの布が揃っている。
「何か、こうやってずらっと見ると綺麗ですねえ」
「無地でも良いけれど、模様が織り込まれているものも良いね。同じ色でも、少し違った印象になるよ。」
鮮やかだけれど、決して毒々しくない色。すべて天然の色素で染め上げられた故の、肌に馴染む色ばかり。
花びらをそのまま映しこんだような、山吹色や石竹色。春の新緑を思わせるような、萌黄色。そんな布に更に色糸を使って、細やかな文様が細工されているものは、目に見えて華やかさが違う。
「季節の色目で選ぼうか?それとも…年中着ていられるような、無難なところを選んでみるかい?」
艶やかな絹の衣を数枚手にして、友雅が尋ねた。
が、あかねは……。
その手に一枚の衣を持ち、ぼんやりとそれを眺めている。
薄紫に、紅糸をあしらった小桜文様。
「この間まで、神子殿が着ていた水干と同じ布だね。」
友雅は、気付いたようだった。
この世界にやってきて、藤姫から与えられたもの。身軽で動きやすくて、普段着のようにいつも着ていた水干。
これを身にまといながら、たくさんの経験をしてきた。怖かったことも辛かったことも、楽しかったことも数え切れないほどあった。
あかねがこの世界で過ごしてきたすべての記憶が、あの水干に刻み込まれている。自分の分身のようなものだ。
誰よりも、あかねの気持ちを知っていた水干を仕立てた、この小桜模様。彼のそばにいるときの想いも、きっと気付いてくれていたはず。
「神子殿」
思わず、友雅はあかねを呼んだ。
彼女の握りしめていた衣の上に、こぼれ落ちた滴が染みになって広がっていたからだ。
「黙って泣かれてしまっては、私もどうしていいか分からないよ。今更、隠し事をする仲ではないだろう?はっきりと涙の理由を教えてくれないかな?」
手を伸ばして、あかねの肩をそっと抱き寄せる。
ただでさえ小さな身体が、今にも消えてしまいそうなほどおぼろげに見えて、触れていないと不安に押しつぶされそうな気がした。
腕の中から逃げない彼女は、じっとそのまま友雅の胸に身を寄せている。
わずかに震えながら。
「……ごめんなさい…。ちょっと、色んな事思い出したら、胸が詰まっちゃって涙が出て来ちゃって…」
「いや、構わないよ。本当に色々なことがあったからね。恐ろしいことや辛いことを思い出せば、泣きたくなるのも当然だろう。」
右も左も分からない世界で、無謀すぎるような命を背負って生きてきたのだ。
それを考えたら、彼女の心労はとても予想できない。
八葉とは言っても、どれくらい彼女の荷を軽くさせることが出来たのか、友雅には分からない。本当に彼女の役に立てたのだろうか。
今ならば、誰よりも彼女を身軽にしてやれる、そんな気持ちだけは誰にも負けないのだが。
しかし、それをあとどれくらい続けられるかと思うと………。
「あ、あの…友雅さん、大切なお話しがあるんですけど…聞いてくれますか?」
ぎゅっと彼の袂を握りしめて、深刻な声で言うあかねが少しだけ、顔を上げた。
「……勿論。君の話を聞き逃すことなんて、しないよ。」
声のトーンで、その話題の重さが直感的に分かった。
これから彼女が話そうとしている事が、二人にとっての未来を左右するかも知れないと言うことを。
平然とした表情を繕いながら、友雅の心情は揺れ動いている。
あかねが切り出すであろう、"答え"とも言える言葉を聞くのを、どこかで恐れている自分がそこにいた。
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