潮が、急に足を止めた。そして、ゆっくりとこちらを振り向く。
その背後には、瑞々しい杜若が緑の中に咲いている。
「先程、ご自分でおっしゃったでは有りませんか。お忘れになりましたの?」
彼女はそう言って、友雅の様子を伺った。
だが、正直なところ…さっきはあかねと向かい合う事で精一杯で、今はまだ目が覚めたばかりのような、どこかぼんやりして記憶が散漫なのだ。
もう少し経てば思い出せるかもしれないが、今はまだ、一番最後に感じたあかねのぬくもりくらいしか思い出せない。
「あの時、はっきりと貴方は前向きな事をおしゃったでしょうに。"龍神を説き伏せてみよう"、と。」
潮に言われて、やっと少しずつ昔の事が思い出せて来た。
確かに、そう言った。神子と八葉の恋を咎められたとしたら、説得してみようと言ったけれど。
「でしたら、今回もその心意気でお挑みになれば宜しいのではなくて?」
そんな簡単な事ではないと思っている。
あかねがこの世に残ることを、運命は許してくれるのだろうか。そして、龍神の加護を解かれたあと、あかねはこの世で生きて行けるのか。
元々別の世界に生きて来た彼女が、この世界に存在し続けることが出来るのか。
問題は考えれば考えるほど溢れて来る。
「相手が龍神か…。鬼の一族よりも手強いかもしれないね。」
自分自身も、今は龍神の力があってこそ白虎の加護を得ている立場だ。
それに背くことになろうものなら……。
「そんなに龍神を恐れなくても、宜しいかもしれませんよ。案外…お二人を歓迎して下さるかもしれませんしね。」
意外にも潮は、楽観的に構えてそんな事を言った。
他人事と言えばそれまでだが、彼女がそんな態度を取る人間ではないことは、友雅自身が知っている。
「貴方や神子様がご自分で思っていらっしゃる以上に、お二人が寄り添うお姿はお似合いですからね。」
にこやかに微笑む姿は、まさに我が子を慈しむような母の風貌だ。
「神子様の龍神の神気と、貴方の白虎の光り輝く気。それらが一つに溶け合って…眩いばかりですわ。」
「白虎の気ならば、私だけではなくて鷹通にも充分備わっているだろう?」
「いいえ。おっしゃられたでしょう?そんなものは何一つ無関係で、その人だからこそ意味があるもの。それは神子様だけではなくて、貴方もそうなのですよ、橘少将殿?」
潮は土御門家に出向いた際に、数人の八葉と語り合うあかねの姿を見た。
神子と八葉が隣り合う時、うっすらと明るい光が見える。それは多分、目に見えない龍神の加護によって繋がり合う証なのだろう。
どの八葉とも、その聖なる光は美しく輝いていたが……友雅と隣り合った時の輝きは全く違うものだった。
色も輝きも眩しさも、暖かささえ感じるそれらは、これまでの八葉とは違う。
「貴方と、神子様でなくては、そのような輝きは生まれませんでしょう。そう思うと、お二人は特別なのではないかしら、と思うのですけどね」
「特別…ねえ?」
そんなことを言われても、半信半疑ではあるが。
「龍神にとって特別なお二人なら、ひょっとしたら無理なことも可能に出来るかもしれませんわよ。少なくとも、そう思っていた方が前向きでよろしいでしょう?」
「まあ、それはそうだけれどね…」
本当に二人の未来が、そんな風に輝いていたらどんなに良いだろう。
永遠にあかねと二人で、この人生が終わるその日まで生きていられたら……それこそ至福と言えるのではないか。
おそらくそれには、数々の障害があるだろうが。
「それじゃなければ、あとはご自分で方法を考えることですわね」
いつもの言葉を、潮がもう一度言ったところで、友雅は笑った。
「また、その言葉かい?もういい加減聞き飽きた気がするけれど」
「仕方が有りませんよ。すべては自分の心次第。それは貴方が一番分かっていることでしょう?」
潮の言葉は、毎度の事ながら胸の奥に容赦なく突き刺さる。
これまで経験した中で、自分が決めた事が答えにつながるということを、嫌というほど身に染みて分かった。
戸惑ったままで、誰かに答えを依存しても仕方が無いこと。決めるのは自分の心。それ以外に、納得出来る答えは存在しないのだと。
「神子様があなたの元から離れないように、方法をお考えになりなさい。勿論、神子様のお気持ちを無視してはなりませんよ?お二人のことなのですからね。」
「……分かったよ。まあ、色々と策を練ってみるよ。」
二度と巡り会うことのないような、たった一つのものをようやく手にしたのだから、そう簡単には手放したくはない。
まだ何一つ思い付かないけれど、取り敢えず手段を考えてみることにしよう。
まったく面倒な事が次々に沸き上がるけれど、それでもこの恋は失いたくはないと思う。
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思わず柚芽にしがみついて、こらえて来た涙をもう一度溢れされてしまったけれど、彼女は何も言わずにあかねの背中を撫でてくれていた。
「友雅殿のお気持ち、ご理解して頂けましたか?」
そう語りかけると、あかねは首を縦に振った。
潮と二人、あかね達の様子を始終見守っていた柚芽だが、彼女が友雅の前で泣き出した時は、思わず胸を締め付けられた。
自分と友雅の差を、あんなにまで気に病んでいたのかと、この時はじめて柚芽は知った。
確かに、相手があの友雅なのだから、悩みは尽きなかっただろう。京で彼の存在を知らない女性は、いないと言っても過言ではないくらいだ。
その上に、途絶える事の無い噂を耳にすれば、彼の相手である女性を想像しては、自分と比較してしまうのも仕方が無い。
想った相手がどんな女性を見ているか、知りたいのは当然の事だろう。
「友雅殿が神子様を、好いていらしたこと、お分かり頂けましたね?」
あかねはもう一度、うなづいてみせたが、少し赤らめた目をこすりつつ柚芽を見た。
「…嬉しいけど…でも……」
まだ少し声を上擦らせて、何とか話をしようと試みる。
「今でも…何か…信じられなくって…」
乾いた笑いが、涙を含んだ声と交じる。
抱きしめてくれた腕の感触も、その胸から薫る侍従の移り香も、まだ記憶は鮮明だ。
それ以上に、耳元で優しく告げてくれた言葉の一部始終は、あかねの心の中にしっかりと刻まれている。
甘くて蕩けそうな、至上の言葉が自分の為にあることの幸せは、言葉ではとても表現できない。
でも、まだ少し夢心地で、現実感がないという気もなきにしもあらずだ。
「何をおっしゃいます。友雅殿がはっきりと、何度もお伝えして下さったではありませんか。」
「それは…そうなんだけど…でも、だって私なんか何の取り柄もないんですよ?なのに、何で友雅さんが…って。他にも綺麗な人なんか、周りにいっぱいいるのに何でなんだろ…って」
異世界からやって来た彼女は、自分とほぼ同世代とは言えど、まだはきはきとして幼さは残る。だが、だからと言って彼女が友雅に相応しくない、など柚芽は一度も思った事は無い。
彼女くらいの姫君ならば、彼を取り込む策略を企てることなど手慣れている者も多いだろう。
だが、彼女にはそんなものは一切存在しない。そこにあるのは、まさに沸き上がる清らかな水。わずかな濁りさえもない、その瞳で見つめられたとしたら、心積もりなど見透かされてしまうに違いない。
だからこそ、彼も…友雅も、本心で向き合うしかなかったんではないだろうか。
そして、そんな風に向かい合えるのは、あかね以外には存在しなかったのだろう。
彼女だからこそ、彼の本心を見つけることが出来た。
誰にでも出来ることではない。限られた者しか、そんなことは出来ない。
「神子様、先程友雅殿がおっしゃってましたよ?神子様だから、なのだと。それこそが友雅殿のお心を掴んだ理由なのですよ。」
他の誰でもない…彼女こそが。
あかねこそが、彼女の存在こそが、彼にとってはすべての源泉だ。
「神子様がそこにおられるだけで、それだけで良いのです。友雅殿は、そこにいる神子様を恋い慕っておられるのですから。」
柚芽がそう言ってくれるたびに、あかねの中に彼の言葉が何度も繰り返される。
その度に身体中が熱を帯びたように、どきどきした鼓動があちこちで鳴り響く。
初めて友雅への想いに気付いた時みたいに、脈拍と心音が同時に激しく踊り出す。
本当に…私でいいの?……何もない私で………。
早打ちする心臓に手を当てて、そっと目を閉じながら思う。
「困ったな…神子殿に言ったつもりだったのに、よく分かってくれているのは、柚芽殿の方みたいだ」
はっとして顔を上げると、潮と共に部屋に戻って来た友雅が、そこにいた。
いつもとは違う落ち着いた色の袍は、普段の彼のイメージとは少し違った気がするけれど。
「さあて…潮殿、柚芽殿、一体どうすればいいんだろう?あれほど思い詰めて告げた愛の言葉も、姫君にはまだ伝わっていないようだよ。」
友雅に問われた二人は、微笑んでいるだけで答える様子は無い。だが、それは彼も承知の上だったようだ。
「毎夜のように枕を濡らしながら、考え抜いて心を決めた末の言葉だったのだが、それも無謀だったとは…私も、自信を無くしてしまうね。」
はぁ…とひとつ溜め息をついて、肩を少し落としてみせると、とたんに慌ててあかねが立ち上がった。
「そ、そういうわけじゃないですよっ!!」
咄嗟に出した声が強く響くと、彼はゆっくりとあかねの方へと歩み寄って来た。
借り物である藍色の袍からは、いつも薫るはずの侍従も漂わない。
そして彼は、裾から手をすっと伸ばして、目の前にいるあかねの手をしっかりと握った。
「信じてもらえなくても、だからと言って私の気持ちは変わらないけどね。」
真っすぐに見つめるその瞳は、あかねだけを捕らえている。それ以外は、何一つ映り込んではいない。
静かな笑顔は、あかねだけに捧げられている。
どことなく、穏やかで優しげで………今までには見たことのない笑顔で。
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