恋愛論理

 第29話 (1)
「趣味が悪いね」
普通なら外の者が入る事の出来ない、寺院の裏手にある沐浴場へ続く渡殿を歩きながら、背を向けて前を歩く潮に向けて友雅が言った。
「出掛けるなんて言っておいて、本当はずっと様子を伺っていたのだろう?」
「あらまあ、お気づきになられてましたの?随分と素直にお気持ちを口にされていたようですから、まさか気付いているとは思いませんでしたわ」
そう答える潮の声は妙に晴れやかで、ころころと楽しげな雰囲気だ。

「まあ、それに気付いたのは、ついさっきの事だけどね。それまでは、周りの事なんて考える余裕なんてなかったよ。」
突然出掛けるのはおかしいと思ってはいたけれど、それもわざと自分たちを二人きりにするためのことだろうと、その程度にしか思っていなかった。
が、先程二人が現れたタイミングは、あまりに状況判断が出来過ぎている。いつ戻るか分からないというのに、全てこちらの事が済んだあとに顔を出すなんて、都合が良すぎるというものだ。
とは言っても、全て万事上手く行った手前、文句を言うつもりもないが。

ただ、一つ気になることがある。
「…教えてもらえないかな。貴女、いや…柚芽殿も含めて、貴女方は神子殿の気持ちを知っておられたのかい?」
「どうして、そのような事をお尋ねになりますの?」
「もし、それを知っていたとして私を嗾けたのなら、随分と質が悪いな、と思っただけだよ」
友雅があかねへの気持ちに、散々困惑していたのを知っていただろうに。こっそりと教えてもらえたら、もっとスムーズに話も進んだだろう。
あかねが、自分へ少しでも恋焦がれていることに気付いていれば…あんな混乱だって起こらなかったかもしれない。
迷わずに、抱きしめることだって出来たはずなのに。


「…神子様のお気持ちだけではありませんよ。」
古めかしい木戸を開けあると、薄暗い土間のような部屋が広がっていた。決して広くはないそこには、水を蓄えた大きめの瓶が置かれている。
仏に仕える身として、時折身体を清めなくてはいけないため、こういった沐浴場が備え付けられている。
普通の人間なら、足を踏み入れることはない。ましてや尼寺であるのだから男子禁制だが、それは時を場合による。
潮は木桶に水を汲み、薄手の布を浸して友雅に差し出した。
「私は貴方のお気持ちも、気付いておりましたからね。だからこそ、今回のように引き合わせる機会を作って…お二人が想いを通じ合えれば良いかと思ったのでございますよ。」
桶の中の水は、思った以上にひんやりと冷たかった。

「それに、貴方もおっしゃっていたでしょうに。神子様があなたのお気持ちを知ったところで、すんなり信用してもらえるなんて無理だ、と。」
友雅を部屋の中に残して、出ていこうとした潮は、入口で一旦止まってこちらを振り返った。いつもの、菩薩のような温和な笑顔だ。
「そりゃあねえ…誰でもそうだろうと思うよ。今更懺悔しても、どうにもならないけれどね。」
諦めたように言う友雅に、潮は釘を差すように言った。
「だからこそ、ちょっとした秘策が必要でしたのよ。」
そう簡単に進んでしまっては、大切なものも見失ってしまいそうだから。
----------彼の場合は。

「貴方はこれまで、手に入れるということに自分から努力したことは、それほどなかったでしょう?どんなことでも、適度に振る舞っていれば手に入らなくて困るなんて、経験がなかったのではありませんか?」
たとえ本心から必要としていなくても、一夜恋を過ごす相手には事欠かなかっただろう。その場に佇むそれだけで、空気を変えてしまうような男だ。
春夏秋冬の月明かりの中で、彼を誘い出す女性の手は数多ほど、耐えず差し伸べられていたに違いない。
「ですから、本当の恋というものを、まずは一からきちんとご理解して頂かないといけませんのよ。恋は、自分の心に気付く事です。そして、気付いたあとは、どうすればいいのか…ご自分で答えを探さないといけないのですよ。」
「ああ、またその言葉か。それを言われると、私も気まずいのだがねえ…」

今回のことで、何度この言葉を聞いただろうか。そのたびに苦笑いが浮かぶ。
元はと言えば…自分があかねに言った言葉だ。答えは、自分で出すしかないと。
他人の答えは他人のものであって、自分の答えではないのだから、と。
「周囲から色々な恋話を聞いたりしているうちに、自分でそれを経験したような錯覚に陥っていたんだろうね。真似事なんかをしてみても、どこか空虚感が抜けなかったのは、そのせいかな。」
艶めいた香りに誘われて、曙が空を染めるまでの短い時を過ごしても、何も残らない胸の奥には風穴が開いているように思えた。
通り抜けてはこぼれ落ちていく。そして、それを引き留めようという気にもならない。そんなことの繰り返しだった。

「……はじめてだな。自分から手に入れたいと思ったのは。」
はじめて、引き留めたくて手を伸ばした。ここから離れて欲しくない…離れたくない、という本能が動いて彼女の手を掴んだ。
「相手を欲する気持ちこそ、真実ですのよ。色々な意味で。」
「仏に仕える方にしては、随分と世俗的な意見だね。でも、言っていることはよく分かるよ。」
例えその過程が険しくとも、好きだから距離を狭めたいと思うのだし、触れたその手を離したくはないと思う。
その人を見ているだけで、幸せになれるからそばにいたいと、強く思うようになるのだ。

「恋には苦労がつきものですわよ。ですが、その苦労があってこそ、手に入った時の充実感と幸福感が一層沸き上がるものじゃありません?」
ふっ、と友雅は自分の手を見て笑った。
まだ残る、彼女の重みが、潮の言葉を真実だと告げている。
抱きしめたそのぬくもりが、ようやく自分の手の中にあると感じたときの気持ちは、何ものにも例えようがない幸福の時だった。
はじめて、恋をして良かったと、あの時思ったのだ、

「特に、貴方みたいな苦労を知らない殿方はねえ…。今回の事は、良い経験になりましたでしょう?」
顔は穏やかなくせに、口振りは皮肉めいたことを言う潮に、友雅はこれ以上の口出しは出来ないな、と判断した。
彼女の主である大将に世話になったという過去も影響されているが、今回の事で更に彼女には頭が上がらなくなりそうだ。
それほど記憶のない実の母よりも、潮のほうがかなり手強い。
「まったく…大人の男を手玉に取って、よくもここまで弄んでくれたねえ。いや、感心するよ」
「お誉めの言葉、嬉しゅうございますわ」
悪びれもせず笑顔でそんな風に答えるから、友雅も笑うしかない。


「それで、今はどんなお気持ち?」
畳み掛けるように、潮が言った。
「……今の気持ち、か」
ふと、裏戸から覗いている庭の緑に目を移した。
呼吸をするたびに、清々しい山の風がほのかに流れ込んで来る。
そう、まさにその清々しさが、今の気持ちにしっくりと合う。重いものなど何も無くて、全身が軽い。
「……不思議だね。今までこんな気持ちは経験がないな…」
「ほら、ごらんなさいな。初めて経験される感覚でしょう?お分かりになられましたか?本当の恋を手にしたお気持ちが。」

心躍るような、そんな幸福感とは違う。もっと静かで、穏やかな感覚だ。
無駄なものをそぎ落としたような、すっきりとした軽い気持ちの中に、日だまりが集まったような優しい暖かさがある。
眠りを誘う,心地良い陽気。花びらの雪に包まれて、永遠に終わらない春の中にいるような---------。
それは、彼女を抱きしめる時の感覚と、よく似ていた。

「悪い気はしないでしょう?」
潮の問いかけに友雅は何も答えなかったが、彼の表情を見ているだけで、充分答えは理解出来た。


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汚れた袍の代わりに潮が用意してくれたのは、夏用の薄衣で出来た袍だった。そういえばこんな袍を、以前彼女の主人が着ていたような記憶もある。
「やはり貴方には、少々地味な色かもしれませんわねえ…」
亡き主人の袍を纏った友雅を見て、潮は苦笑しながらそんな事を言った。
「いや、未だに少将止まりの私こそ、大将の衣を身につけるなんて、恐れ多いんじゃないかな。」
「だったら本腰を入れてごらんなさいな。恋した時の貴方のように、本気で取り組めばあっという間でしょうに。」
笑いながら廊下を歩く二人の間を風がすり抜けて、薄い衣の隙間から涼しさを肌に感じさせてくれた。

「しかし、これからどうすれば良いんだろうね」
「まあ。この期に及んで、まだ不安な事がおありですの?随分と欲張りになられましたこと。」
潮の言葉に笑いそうになったが、友雅にとっては再び生まれてしまった不安が、どうしても気がかりでならない。
あかねと心を通わせられた今、次に不安なことは------これからのことだ。

「神子殿が、神子殿ではなくなったら…私が、八葉ではなくなったら、どうすればいいのかねえ…。」
お互いに、戻る場所がある。それは同じ場所ではない。
いいや、場所が違うなら通えば良いことだが、そんな簡単なことではない。世界が、違うのだ。
「結局は、いつも通りの一夜恋みたいなものになってしまうのかな…。そう思うとむなしいね。」
そんなことは何度も繰り返して来た筈なのに。
ようやく手にした想いもまた、同じように泡と消えてしまう運命なのかと思うと、恋というものの儚さを痛感する。

別れてしまうのなら、想いを告げる必要なんてなかったんじゃないか。
こうして今になると、その先にある二人の結末を考えて、また気が重くなった。


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Megumi,Ka

suga