恋愛論理

 第28話 (4)
瞳を閉じて、熱い目の奥からこぼれ落ちる涙を拭いつつ、抱きしめてくれる友雅の手を背中で感じていた。
侍従の残り香を挟んで、聞こえてくるかすかな心音。そして、耳元で何度も繰りかえしてくれる言葉。
それらはすべて、あかねだけに捧げられているものなのだと思うと、心臓がはじけてしまいそうな気になる。

至福の時というのは、こんな状態のことを言うのだろうか。
どきどきした気持ちは治まらないのに、言葉に表せないくらいの心地良さに包まれているみたいだ。
春の日だまりの中にいるように、ゆっくりと身体が暖まっていく。
この腕に、もたれていても良いという安心感と、そんな自分を護ってくれる大きな手の存在。
優しく抱きしめてくれる腕に、このまま身を預けてしまっても良いんだろうか………。泣けてくるほど幸せな言葉を、独り占めしても良い?
この手を離さなくても…本当に良いのか…なんて、夢見心地の中で考えていると、耳元で彼の声がする。

「神子殿、私は……自惚れて良いんだろうかね?。君がこぼした涙は、私のためだと…そんな風に思い上がっても良いのかな」
山からの涼しげな風が吹き、庭へと張り出した階に腰を下ろしている二人の間を流れていく。
少しひんやりとしているはずなのだが、そんなことさえも気付かなかった。触れている手が温かくて、甘い声で呼んでくれるのが嬉しくて。
この涙の意味を…彼に知って欲しい。
あなたに恋した、その証であることに気付いて欲しい。

「信じても良いのかい?あの日、君が言った言葉を」
「……わ、私が…言ったこと…?」
友雅が尋ねた意味が分からなくて、あれこれと記憶を辿ってみる。
だけど、すぐには思い出せない。ここまで来るのに、あまりにたくさんの事がありすぎて。
すると、彼があかねの頬を撫でながら、ゆっくり口を開いた。
「年が離れていても、気にしないって。それを承知で好きだと言ってくれるなら、って言っただろう」

思い出した。あれは、初めてここにやってきた時のこと。
六条御息所の話をしたときに、あかねが言ったことだ。
承知の上で好き合っているのなら、何も問題ないじゃないか、と。あの瞬間は、素直にそう思ったのだけれど…。
「そ、そんなの…子どもの私が言ったことなんて…」
思わずあかねは、友雅から顔を背けた。あの時、さらっと交わされてしまった事を思い出してしまったから。
そんな彼女の思いを悟ってか、伸ばした指先で友雅はあかねの髪を、優しく撫でてみる。
「私だって、十分子どもだ。恋に関しては…ね。それを教えてくれたのは、神子殿だから、今はその言葉を信じたいんだよ」

あの時、自分は恋の全てを知っているように思い込んでいた。
あかねの素直な言葉を、子どもが話す夢物語のようなものだと、見くびっていたことも確かだ。
でも、今は逆にあかねの言った言葉を信じたい。
お互いを好きでいる、それだけで…それ以外に恋を遮るものは何一つないことを。
煩わしいものなど、すべて取り去って、彼女のように素直な感情のまま向かい合いたい。

「どうだい?」
唇を噛みしめて、友雅の声を聞く。
もう、この距離を意識しなくても良いという事が、張っていた気をすうっと紐解いていく。
彼の腕の中で、自由に動いても咎められる事はない。
この想いを遠慮しなくても良いなんて……まるで夢のようで、まだ信じられない。
「…友雅さん…は、どうなんですか…」
もう一度だけ、聞かせて欲しい。
-----あなたは、どうなのかと。
私は、もう隠さない。浮き足だった考えだと、笑われても良い。
初めて恋したときの心模様を、すべて理解しても…それでも、芽生えた想いを信じていたいと思うから。

「やれやれ。もう一度言わせるつもりかい?まあ、一度言ってしまえば腹も据わったけれどね」
あかねの身体を抱き留めながら、友雅は苦笑いを浮かべる。
唯一の、やっとこの手に引き寄せることの出来る宝玉を、愛でるために囁く例え言葉は千万ほどにある。
けれど、遠回しに美しい言葉を探してみるよりも、彼女には素直な気持ちを伝えたいと感じる。
包み隠すものなど、いらない。捧げたいのは、心だけだから。

「年齢も身分も、生まれ育った世界でさえも、ここにいるのが君自身ならば何も問題はない。それらすべて何もかもまとめて…君のことが好きだよ。」


このまま息絶えても良いと、心から思った。
今こそが、至福の瞬間。彼を見つめることを許された、その時。
遠いと思っていた、その人が一番近くにいる。そして、彼が自分だけを見つめてくれている。
一方通行じゃない感情を、彼は受け止めてくれているのを、抱き締めてくれる手のひらから伝わってくるのが嬉しくて…目を閉じたら、再び涙が沸き上がってきた。
「……好きでいても…良いんですか…」
「こちらこそ。これでも八葉の端くれだというのに、神子を一人の女性として恋い焦がれてしまっても、許されるものだろうかね?」
許さないと言われても、もうどうしようもないけれど。
「まあ、龍神の怒りに触れたとしたら、その時は何とか説得してみようじゃないか。勿論二人でね。」
二人なら、きっと大丈夫だ。そんな強い確信がある。
咎められようと責められようと、二人だったら説き伏せることの出来る力があると信じられる。
もしも、それが出来なかったとしても……乗り越える何かが見つけられそうな気がしている。


ようやく、友雅はその腕に力を入れる事が出来た。
あかねがこの胸の中から逃げ出せないように。しっかりと強く彼女の身体を抱き締める。
「……やっと、抱きしめられて良かった」
恋しくて仕方がなかった、その香しい若草の香りが、この手の中にあることを確かめるようにして強く抱きしめた。
その小さな手が、戸惑いもせず自分の身体にしがみついているのを感じ、初めて友雅は幸せという瞬間を感じることが出来た。

さわさわと、竹林から聞こえる笹の音。
緑と石清水の香りに包まれ、それよりも近い場所で侍従の香りを感じて---------恋した人のぬくもりに触れられること。

言葉も必要なく、二人はそこにある幸せの空間の中で、抱きしめ合ったまま時間の流れを感じていた。


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「さあさあ、もうお話しはそれくらいになさって。沐浴の用意をしておりますから、まずはお着替えになったら如何?」
いきなり背後から聞き覚えのある声がして、はっとした二人はほぼ同時に身体を起こした。
「う、潮さんっ!?」
そこにいたのは、いつものように優しい笑顔の潮。そして、隣には柚芽の姿もあった。
「しばらく前に戻ったのですけれど、お取り込み中のようでしたから、時期を見計らっておりましたの。」
にっこりと二人は微笑んで、そう言ったけれど…友雅には何となく二人の画策が直感で分かった。
もしかするとこれもまた……彼女たちの予定通りだったんじゃないか?

友雅がそんな事を考えているにも関わらず、潮はまさに満面の笑みをして彼らの側で腰を折る。
「さあ、友雅殿。京で一、二を争う雅男と呼ばれる貴方が、そんな格好では様になりませんわよ?着替えをご用意致しますから、まずはその泥を落としになっていらして」
潮が何を言っているのかと思ったら…友雅の袖の裾が庭のぬかるみにはまってしまっていたのだ。
さっきあかねの身体を受け止めたとき、ついよろけた姿勢になって裾が浸かってしまったようだ。
「ご、ごめんなさい…私が突然抱きついたりしたから…ですよね?」
「気にしないで良いよ。汚れを気にして、神子殿に怪我などされたら、それこそ大問題だ」
汚れなんて洗えば消える。新しい衣に着替えれば済むことでもある。
そう言って友雅は、笑いながらあかねを見た。

「尼寺ですが、今回は特別に沐浴場をご提供致しますので、どうぞご遠慮なく。生憎と殿方のお着替えはご用意出来ませんけれども、乾くまで亡き主人の衣でよろしければ…」
「ああ、別にどんなものでも構わないよ。姫君の前で、みっともない姿にならなければ、気にしないよ」
主人よりも遙かに友雅の方が上背もあるが、恰幅の良かった彼の衣なら余裕で羽織ることは出来るだろう。
出家する際に、遺品として数点の衣を持ち込むことを許されたが、こんな風に利用する時が来るとは思わなかった、と潮は少し笑った。
「それでは、沐浴場へご案内致しますよ。後ほど、外に着替えをご用意しておきますので。」
立ち上がる友雅と入れ替わって、柚芽があかねのそばにやって来た。
友雅と潮は何か話しながら出ていったが、ここまでははっきり聞こえてこなかった。


柚芽が、そっとあかねの背中に手を添えた。
横から覗き込んで、潮に似た穏やかな瞳を輝かせて微笑む。
「神子様が、お幸せそうで何よりです」
あまりに優しく言うから、胸がぐっと熱くなってきた。

嬉しさがこみあげて、こぼれだした涙を止めようとするあかねを、柚芽は黙ってそっと肩を抱いてくれていた。


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Megumi,Ka

suga